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興亜挺身隊の悲劇…武士道の廃頽

2021-11-29 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 中公新書に「ある明治人の記録」がある。サブタイトルは会津人柴五郎の遺書である。編者は石光真人、明治から大正のころシベリア・満洲で諜報に従事した石光真清の息子である。同書128ページに「要するに武士道の廃頽であり、…(略)…三百年の太平になれた指導者層が統制力を失い、ほとんどなすところなく事の赴くまま流されてしまったことに遠因があろう。...」とある。何のことはない、陸軍軍人トップ陣の謂いである。同ページの最初に「日露戦争までは、日本の国軍は立派だった。あれだけ多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、要塞内に逃げ込んだロシア市民の退避を軍使をたてて要請したが、食糧など充分なるうえ、防備固く安全なりとの理由で拒否され、やむなく攻撃を開始している。各戦闘における軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍の回顧録は、世界まれに見る軍隊として賞揚している。」・・・と書かれている。昭和17年秋、柴五郎は世田谷の自宅を訪れた石光真人に「この戦は負けです。」と断言もしていた。愚かな一群の戦争指導者を思うとき、その言葉しか出てこなかったということだ。薩長の増長に会津の心はただ心痛めていたのかもしれない。
 そして興亜挺身隊の悲劇がある。同書149ページに「典型的な悲惨な処置を受けたのは興亜挺身隊の最期であった。」と記している。続けて、ちょっと長いけれど...「北京特務機関長の谷萩那華雄中佐は、中央の武藤章大佐の命を受けて、華北の治安工作のため、尚旭東こと小日向白朗に中国人による義勇軍を編成させ、北京城内に司令部を設けて辺境の治安に当らせた。必要がなくなると、第一支隊の隊長カオテイエンは牟田口廉也連隊長の命によって誘拐され、副隊長皆川修太郎とともに古井戸に投入されて殺され、第三支隊約六千名が昌平県内に集結中を日本軍に包囲され、市隊長侯顕成は拉致され、また第四支隊二千名は南口駐屯の穂積大尉の一個中隊に包囲され、第六支隊は北京郊外大王廟に集結中を同じく日本軍に殲滅され、北京警備司令官山下奉文は興亜挺身隊に華北退去を命じたのである。尚旭東はやむなく歩騎兵一万二千を率いて北京北方の鎮辺城の山中に向い、昭和13年の旧暦8月13日、次のような解散決別の辞を述べている。「私を信じ、日本軍を信じて、けなげにも華北の治安に挺進せんとするものと従ってきた兵士たち、これらの義士の前途には、日本軍がこのような姿であっては、日ならずしてより一層困難な問題と圧力が加わてくるであろうし、場合によっては、巧みな謀略によって殲滅されるであろう。不幸にも、日華の戦いはまだつづくであろう。君たちは日本軍の第一線に参加し、あやまれる日本軍の民衆虐殺から中国人を守ってやれ。・・・日本軍閥の特権意識では中国の四百余州はとうてい救えまい。・・・」とつづき、石光真人の指摘はまだまだ続いている。
 悲劇を悲劇として美化して終わらせてはいけない。悲劇を惹起した勢力こそ殲滅せねばならないであろう。ひょっとしたらそうした勢力は姿を変えてまだ生き続けているかもしれないのである。(文責:吉田)

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