縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

●大嘗祭に欠かせないものとして、アラタエ(鹿服・織布)  ●「まほらば」「まほらま」

2020年09月03日 15時50分37秒 | 歴史
●大嘗祭に欠かせないものとして、アラタエ(鹿服・織布)  ●「まほらば」「まほらま」
全国には神話伝説が数々存在する。
その内の一つが淡徳島とされる。
・徳島・ゲゲゲの妖怪屋敷とこなき爺の故郷 | 徳島県 | LINE ...
https://www.travel.co.jp/guide/article/35140/
2018/10/02
昭和9年に全国的な妖怪伝承調査が実施された際、徳島県三好市山城町で初めて児啼爺(こなきじじぃ)の伝承が集録されたことにより、山城町は児啼爺伝説発祥の地とされ、世界妖怪協会の「怪遺産」として認定されています。
同町には他にも60種以上の妖怪や物の怪伝説が確認されており、伝承地は150ヶ所以上に及びます。
それらの妖怪体験を疑似体験できるのが「妖怪屋敷」です。異界空間をぜひ!
コレもまた違う方向からの伝説。
●阿波と古事記 第一篇「はじめ国生み」 - YouTube
https://youtu.be/C8PzQFQX6Jc
阿波古事記研究会 作成のDVD 「阿波と古事記」 の一部をUPします。
第一篇「はじめ国生み」
この動画に出てくる地名を探ると
・歴史・文化財 | koyadaira/reiwa - Wix.com
https://koyadairareiwa.wixsite.com/mysite-1/blank-8
2代目からは、小屋平(木屋平)を姓とする。5代目の小屋平清通・右近左衛門は、後に森藤清通・越前守と名乗る。 ※森藤(森園)清通は、松家氏系譜によると5代目に当たる人物。「森藤(しんとお)」と言う姓は「森遠」に由来している。
・美馬市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/美馬市
森遠(もりどの)という地名が浮かんでくる。
・森遠-正八幡神社(徳島県美馬市) | 源平史蹟の手引き
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/moritoo/
徳島県の木屋平(こやだいら)に伝わる安徳天皇潜幸、平家落人伝説。
『木屋平』の地名は平知経(たいらのともつね・平知盛の子もしくは孫)が『森遠』の地に、小屋の内裏を作ったことに由来。
小屋と平家の「平」とを合わせた「小屋平」氏と名乗り、さらに「小」が「木」に代わり、『木屋平』村として定着しました。
長年、平家に使えてきた阿波民部重能(田口成良)。
平家物語では壇ノ浦合戦前に知盛卿が「阿波民部重能は裏切るから切ってしまうべきだ」と宗盛公に進言したのに却下され、結果、壇ノ浦で知盛卿の予想通り重能は裏切り平家滅亡の要因に……ですが、この地では重能は息子と共に安徳天皇の潜幸を助けたと伝わります。
・とくしまの棚田情報 - 徳島県
https://www.pref.tokushima.lg.jp/tanada/info/
徳島県には、各地にすばらしい棚田があります。 それぞれの棚田について、自然環境調査等を実施し、その結果と棚田の風景を、写真とマップで紹介します。 徳島県地図のイメージマップ. 阿南市 · 吉野川市 · 阿波市 · 美馬市 · 三好市 · 勝浦町 ...
https://www.pref.tokushima.lg.jp/tanada/info/mima.html
場所, 美馬市木屋平森遠.
自然環境概要,水源,渓流取水.
生態系,植物:タカサブロウ、イヌタデ、ヒデリコ
動物:アジアイトトンボ、クロイトトンボ.
景観,標高約500mの地点に本棚田はある。
・東大谷・神楽田(ひがしおおたに・かぐらでん)の棚田
・西大谷の棚田
・丸山の棚田
・森遠(もりどの)の棚田
・《廃校の先に…。》#14 『徳島県美馬市の廃墟群』【未公開映像】
4,788 回視聴 2018/10/26 https://youtu.be/6BqcSAt25_w
抜刀斎# 旅をする廃人
チャンネル登録者数 1250人
徳島県にある、とある『廃墟地帯』
うp主の判断で「御蔵入り」する
はずだった映像を…今回公開する!
次↓
《未公開映像》#15『中村トンネル』
https://youtu.be/WeN7-Qu6WT0
前↓
《未公開映像》#13『長尾小学校』 後編
https://youtu.be/8pyV_yLvzBQ
『未公開映像』最新マイリスト↓
https://www.youtube.com/playlist?list=PL-_ExYm5HmbtGkNT4CBuM5d8Mt36aU37K
公式サイト↓
http://tyuun3naoya.hatenadiary.jp/archive
・美馬市旧木屋平村における文書調査 - 徳島県文化の森総合公園
https://library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/54/159-170.pdf
地方市班(徳島地方史研究会)
*1立石 恵嗣*2板東 紀彦*3金原 祐樹*4森 千枝*5松下 師一
*6大柴せつ子*7中村 豊
要旨
標高1,000mを越える高山に囲まれ,森林面積が93%を占める典型的な山間集落である旧木屋平村は,三木家・松家家文書という本県では数少ない中世文書の所在でも知られる。今回の調査では,旧村内に残された古文書や公文書など,歴史資料の所在調査と整理作業を実施した。具体的には
①松家(まつか)義威家所蔵の中世文書の写真撮影,
②木屋平総合支所保管の明治初期から昭和30年までの公文書整理,
③三木信夫家所蔵の近世文書の整理を実施し,それぞれの「史料目録」とデジタル写真を得た。特に文政期の「木屋平村絵図」(木屋平・川井・三ツ木村)が発見でき,江戸時代の山間集落の歴史的世界を解明するための大きな手がかりを得た。キーワード:木屋平村役場公文書,木屋平三木家文書,木屋平松家家文書,木屋平村絵図
1.調査の概要
1)美馬市旧木屋平村の歴史的変遷
徳島の剣山北麓にある旧木屋平村は,平安初期に阿波忌部氏の一族三木氏が開いたといわれ,平家の落人や阿波山岳武士の伝説が各地に残る。また「麁服・荒妙」(あらたえ)を皇室の大嘗(だいじょう)祭に貢進する儀礼を現在に伝えているように,古い歴史と伝統を持つ山間村落である。



●1 石川神社に天皇家ゆかりの菊の紋と徳島県最古級の板碑群!伊勢と美作国に移った久米家と奇妙な家紋の村人達!加羽家のルーツを追って!懇意にしてた市楽家のルーツの村!徳島県名西郡石井町高川原字市楽にて
1,545 回視聴 2018/02/20 https://youtu.be/M2Ea7VuH0Zk
TweetTV JP
チャンネル登録者数 2.34万人
地図上の位置
https://goo.gl/maps/p6ix8BGvQbo

ただ由緒ある神社とだけは知っている、と近所のおじさん。
石川神社の扁額には皇室ゆかりの菊の紋。

もしかして石川広世(後の高円広世:石川朝臣の姓の祖先)を祀る?石川広世はキリストの血を引く聖武天皇の遺児?
https://ja.wikipedia.org/wiki/高円広世
高円 広世(たかまど の ひろよ)は、奈良時代の貴族。名はもと広成[1]。氏姓は石川朝臣のち高円朝臣。官位は正五位下・伊予守。
不比等の歴史歪曲
https://aioi.blog.fc2.com/blog-entry-2683.html
※コメント欄から引用
ほんもの皇統は聖武天皇の遺言による家系である。聖武天皇は藤原仲麻呂の謀反により、隠岐の島流罪後そこで死没。
聖武天皇こそ国父である。国母はその恋人の持統天皇のことである。 宮島の厳島神社の祖神は聖武天皇と持統天皇である。しかしこれは建前で、実際の国母は藤原宮子とすべきである。なぜなら聖武天皇と藤原宮子との間にできた石川広成、広世の双子の兄弟のうち謀殺を免れた広世の血脈が本物の皇統であるからだ。今日本に実在する。
ーーー引用終わり

古代日本のキリスト教徒たち
ザビエルよりはるか以前の日本に、多くのキリスト教徒がいた。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/100kodai.htm
聖武天皇と秦氏とキリスト教と蘇我氏

空海(弘法大師)が童学寺で作ったいろは歌
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=164
童学寺(徳島県石井町)
https://ja.wikipedia.org/wiki/童学寺
童学寺(どうがくじ)は、徳島県石井町にある真言宗善通寺派別格本山の寺院。山号は東明山(とうめいざん)、本尊は薬師如来。空海(弘法大師)学問所の由緒から学業成就の寺として広く知られる。四国別格二十霊場二番札所。四国三十六不動尊霊場十一番札所。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
御詠歌:まいるなら 三世の悪業 消へはてる 南無や薬師の 瑠璃の光に
 なお私の父方の母の加羽家(鮎喰町の吉本酒屋)が懇意にしていた徳島市佐古町にあった市楽ガラス店。(今は八田不動産)
https://goo.gl/maps/xJMjTbJWuL32
その市楽家は元々は徳島県名西郡石井町高川原字市楽から出て、島根県の出雲などに移っている、とのこと。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B8%82%E6%A5%BD
徳島県名西郡がルーツ。楽市として開かれた集落が語源。徳島県、島根県に少数。
(海外貿易に従事した一族?)

たまたま通りかかった人に聞いたら、その名前の人はいないようだ。ただ三重県の伊勢に移った人達(伊勢神宮?)もいて、奇妙な家紋がその人の家にはある、とのことで見せてもらった。この家紋は伊勢にもあり、天皇家とつながりがある由緒ある家紋とのこと。(六角形の中に口と十で叶の漢字が書いてあるような感じで、一目で見るとキリスト教徒みたい)
その久米家は今は6軒ぐらいしか残ってないけど、かなり由緒がある、と歴史に詳しい人に教えてもらった、とのこと。もちろん、この石川神社も皇室とゆかりがある、との事。
また岡山県津山市に久米という里があって、そことも関係がある、との事。

道の駅 久米の里(出雲街道沿い)
https://goo.gl/maps/A5yLLXddhXF2
あの鼻もちならないぐらいプライドが高い津山人(私の個人的感想)で明治天皇すりかわり説もある箕作圭吾の生誕の町
https://www.city.tsuyama.lg.jp/city/index2.php?id=2419
そもそも久米家と伊勢神宮の関係は久米舞の起源が、この阿波のアメノウズメの神楽を奏した「代神楽」で、御幣や御剣を振り悪魔退散・家内安全を祈願した祓の舞を「太神楽」と呼ばれている、とのこと。
 アメノウズメは踊りの神様として祀られている神社が阿波神社の近くにある。
1阿波踊りの元祖!天河別神社(日本初のダンサー天宇受売命:アメノウズメ?)の神社? 鳴門市大麻町
https://youtu.be/RmquEoK8DL0

鳴門市大麻町 天河別神社
https://goutara.blogspot.com/2012/04/blog-post_29.html
鳴門市大麻町 天河別神社(追記)
https://goutara.blogspot.com/2013/12/blog-post_22.html

【出雲阿国が作った歌舞伎】
かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで | 歴人マガジン
https://rekijin.com/?p=29846
阿波伎
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿波伎
阿波伎(あわぎ、生没年不詳)は、古代の済州島に存在した国家・耽羅の王族。661年に耽羅使として倭国(日本)へ派遣された。
久米一族の調査研究 (私信:阿波市阿波町新開 賀茂神社)
https://goutara.blogspot.com/2016/02/blog-post.html
久米家の祖先 天久米命
https://ja.wikipedia.org/wiki/天久米命
天津久米命(あまつくめのみこと)は、日本神話に登場する神。
徳島に圧倒的に多い 久米家 
https://myoji-yurai.net/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=%E4%B9%85%E7%B1%B3
徳島県 64位 およそ2,000人
あっ、そう言えば、気延山の麓の東に住んでいる相撲取りの気延山の娘さんも「久米ふみ」。この前も母が家の前で長い間、立ち話してた。

その他2006/10/27 22:20
詩とか・・・歌にも・・・表と裏がある・・・・・・・・・・・
歴史にも表と裏があると思う・・・・
本当の歴史は徳島が鍵があると思う・・・・
私が聞いた事を書きます。
天皇と同じ家紋を使う忌部一族。天皇が即位の儀式の時に絶対必要な・・・ アラタエ(衣か冠)を こやたいら(漢字忘れた)で麻を栽培し
わが故郷でアラタエを作る・・・・大昔からつづいて居たが北朝南朝の戦いで忌部は南朝方(後醍醐天皇)に付き・・・敗れ・・・アラタエを明治天皇の時代まで作れなかったみたいです
こやたいら(山)は平家の故郷と言うわれています。  

日本に一つの神社・・・忌部一族の神社である・・・・
村雲神社(あめのむらくも)にも菊も門があるといいます。
検索するとでてきます・・・ あめのむらくもの剣=草薙の剣 倭タケルが使って居たあの剣です。 

高越山(霊山)弘法さんが高野山に作りましたが・高越山に作ろうとしたそうです(水が少ないために断念) 高越山の頂上には弘法大師の銅像のすぐ奥にイザナミの尊を祭る神社があります!山にイザナミの神社がある所は無いそうです。 
                                        こやたいらの奥に日本で一つの神社・・・白人神社・・・の近くにソロモンの秘宝伝説が根強く残っています。 インディージョンズのソロモンの秘宝に出てくる・骸骨の十字架もあるそうです。これ以上書くとヤバイので・・・・世界の歴史が変わるみたいに言うてました。アラブの富豪が調査済み
以上 地元の自慢でした^^w   

これは面白い記事である。
●2徳島県の伊月城跡と蛭子神社と忌部!阿波市 市場町伊月にて
1,350 回視聴 2017/01/24 https://youtu.be/FmoWpIOfLMw
●3★陸続きなのに海からしか参拝できない阿波井神社!古代の秘密をここに隠している?海を渡ったキツネ(大宜都比売命)と忌部(猿田彦)?土御門天皇の時代は淡路島へは鳴門の粟津港に?鳴門の渡し船 島田渡船
5,318 回視聴 2017/06/29 https://youtu.be/_ZSfd0szrLU
●4忌部神社 皇室が隠す阿波風土記で天皇の歴史が明らかに!徳島市
15,397 回視聴 2015/01/04 https://youtu.be/5ImcGFM1OHI
●5忌部神社 皇室が隠す阿波風土記で天皇の歴史が明らかに!徳島市
17,741 回視聴 2015/01/04 https://youtu.be/vAVt5ex1vk4
忌部神社 皇室が隠す阿波風土記で天皇の歴史が明らかに!徳島市 

阿波歴史民族研究会 会長 林 博章
http://www3.tcn.ne.jp/~aska/
「日本の建国と阿波忌部」
徳島県 generosity
https://twitter.com/fumihiko1214/status/744832909014622208
初代神武天皇の父は
アジスキ・タカヒコネ(古墳あり)であり式内社・鴨神社(徳島県三好郡)
https://twitter.com/i/status/744832909014622208
#大国主一族という名の阿波忌部
という県下No1クラスの論文では、
初代神武天皇の父であり、
別名・別雷神・大山クイの神。
続 高越山 高越寺 高越神社 忌部氏遺跡の「石」
https://blog.goo.ne.jp/walkinghenro/e/8593fc313278049c8b598d6d55764880
思いついて、梅雨の晴れ間の五日間、(前回お伝えした)高越山、忌部氏の里を歩いてきました。すでに説明的なことは記していますので、(下手ですが)写真をお楽しみください。
高越山は、へんろ道保存協力会の地図では、90-2に載っています。
「阿波忌部の聖地を巡るツアー」峯八・忌部神社・岩戸神社  2010-03-10
http://sueyasumas.exblog.jp/10851239/
徳島県北部を東西に流れる大河「吉野川」の河口から約30kmのところにある「善入寺島」です♪
現在は「善入寺島(ぜんにゅうじとう)と呼ばれていますが、以前は「粟(あわ)島」と呼ばれていました!!
「粟島史」によると粟島の名称は、「阿波忌部が開拓したことに由来する」、一説には、「忌部氏が粟を植えたところ豊穣であったため」とある・・・林博章著「日本の建国と阿波忌部」より・・・。
3月7日(日)に行われた「阿波忌部の聖地を巡るツアー」の最初の訪問地は、この「粟島」が望める徳島県吉野川市川島町峯八の「六地蔵展望台」でした!!
忌部神社はなぜ徳島市にあるのか
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/imbejinja.htm
 徳島市二軒屋町の眉山南東中腹に鎮座する忌部神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命を主祭神とすることで知られています。阿波の忌部神社の歴史は古代に遡るものの、現在地に神社がつくられたのは明治時代のことです。なぜそうなったかというと、複雑な経緯があります。ここでは、その概略を紹介しましょう。
忌部別当 東福寺
https://www.toufukuji.or.jp/

貞光町と阿波忌部氏について   阿波学会研究紀要
https://library.tokushima-ec.ed.jp//digital/webkiyou/28/2820.html
郷土研究発表会紀要第28号
貞光町と阿波忌部氏について
郷土班 
    森甚一郎・河野幸夫・石川重平・
    阿部勝太郎


■忌部神社(いんべじんじゃ)https://ja.wikipedia.org/wiki/忌部神社
忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県徳島市二軒屋町にある神社である。式内社(名神大社)の後継社で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
■山崎忌部神社(吉野川市山川町忌部山) | たんぽぽろぐ
https://momijiaoi.net/yamasaki-inbe/
山崎忌部神社。 2020.05.01  2015.12.28
吉野川市山川町忌部山、山の中腹に鎮座。
式内名神大社 忌部神社の論社。
目次
1.境内
2.社殿
3.由緒
4.御朱印
5.アクセス
6.神社概要
 
●アラタエ織り記念碑
鹿というような字に服をつけて、アラタエと読み、荒妙とも書く。
歴代天皇が即位式で着る衣服のことである。
大正・昭和・平成の大嘗祭に着用されたアラタエがここで織られたことを記念する石碑が建てられている。
忌部氏は大嘗祭で歴代天皇の着るアラタエを献上してきた、その伝統をこの神社は今も守っているわけで、その意味で、正跡に相応しいといえよう。

@minaeuematsu
2 months ago  https://www.picuki.com/media/2334161350223438508
令和の大嘗祭 重要な麁服(あらたえ) 少しばかりご奉仕させていただいておりました 歴史に残る冊子が届き感無量 #麁服 #あらたえ   #徳島   #大嘗祭   #日本

阿波国続風土記について
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite
1_風土記とは何か?
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/1_fudoki_ni_tuite
2_阿波国風土記とは
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa
3_阿波国風土記編輯御用掛
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/3_fudoki_hensyu_kakari
ホーム
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home
上記内容についてはhttp://blogs.yahoo.co.jp/noranekobluesの「のらねこぶるーす」様の文章を大量に使わせていただいてます。
最大級の敬意と謝意を示させていただきます。
記載内容の誤りについての責は当サイト管理者「ぐーたら」にあります。

繪服 | さぬきいんべ通信  三ツ木八幡神社神麻しめ縄奉納レポート
https://sanuki-imbe.com/blog/tag/%E7%B9%AA%E6%9C%8D/
2019/04/01
天皇即位にともない2019年11月14~15日に予定されている践祚大嘗祭では、新穀とともに阿波の麻織物・麁服(あらたえ)と三河の絹織物・繪服(にぎたえ)が神座にまつられ、五穀豊穣を祈ります。

3月31日、徳島県木屋平の三ツ木八幡神社にてNPO法人神麻注連縄奉納有志の会(安間信裕代表)による神麻しめ縄奉納が行われました。

阿波忌部氏の直系、御殿人(みあらかんど)である三木家において麁服の調進準備があるのでこの日が選ばれた由。

安間さんによると、平成の大嘗祭に際し抜麻を安置して糸績みの初紡ぎ式までをこちらの神社で行ったそう。

今回奉納したのは神麻しめ縄4本と鈴緒1本。しめ縄は本殿1本、拝殿に3本です。

地元徳島県はじめ全国各地から集まった約15名で、忌部神社宮司や三木家当主、三木信夫さん、また氏子の皆さんのご協力を得て奉納させていただきました。


麁服調進の記念碑建立 美馬・NPOあらたえ、製作関係者名 ...
https://www.topics.or.jp/articles/-/386528
麁服調進の記念碑建立 美馬・NPOあらたえ、製作関係者名刻む. 7/7 5:05. 昨年11月の皇位継承の重要祭祀「大嘗祭」に調進された麻織物… 徳島新聞電子版への会員登録・ログイン. 続きを読むには徳島新聞電子版(有料)に登録してください。

●宮中献穀事業、完遂の記念碑 建立 【公式】諫早神社 | 長崎諏訪 流鏑馬奉賛会
2016年12月25日
https://isahaya-jinja.jp/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E7%8C%AE%E7%A9%80%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E3%80%81%E5%AE%8C%E9%81%82%E3%81%AE%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%A2%91-%E5%BB%BA%E7%AB%8B/
先日、諫早市における今年の宮中献穀事業の完遂を記念して
斎田のある黒埼町の公民館に記念碑が建立され、除幕式をご奉仕いたしました。
宮中献穀田は、
皇室行事の新嘗祭(11月23日)への献上米を奉耕するもので
全国の各都道府県からそれぞれ代表が選ばれて毎年行われているものです。
もとは、明治25年に全国県知事連署をもって
宮中行事の新嘗祭における献穀の請願がなされたのが始まりで
以降、全国都道府県の農家代表が毎年10月下旬に宮中に献穀米を献上しています。
 
●日本史のブラックホール・四国
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm
阿波邪馬壱国説
 日本古代史をめぐる異説がもっとも熱っぽく語られている地方、それは意外と四国かも 知れない。古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提 供する無類の材料」(『世界的研究に基づける日本太古史・上』、一九一一年、所収)を 現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり 、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」し たが、むろん学界の容れるところとはならなかった。
 比較的最近には、阿波邪馬台国説が話題となった。それは最初に郷土史家・郡昇の『阿 波高天原考』(自費出版、一九七五年)で示され、古代阿波研究会『邪馬壱国は阿波だっ た-魏志倭人伝と古事記との一致-』(新人物往来社、一九七六年)によって全国に知ら しめられたものである。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊 平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正 識各氏の名が記されている。
『古事記』は阿波国の別名をオオゲツヒメとするが、これは農作物を産んだ女神の名でも ある。『邪馬壱国は阿波だった』ではまず、その事実に着目し、阿波国が穀霊の国であっ たということから論を進めていく。
 
●地元誌「行雲」11月号その7【あれこれを(おじん的に)】2010年11月16日
http://netmjk.seesaa.net/article/169564123.html
   毎月発行、桜が丘にお住まいの有志の方の地元誌です。
あれこれを(おじん的に)
筆者 同人誌 行雲久保 成行
§極東のコックピット
 アジアは東南アジア、北東アジアにわけて語られる。東南アジアにはASEAN(東南アジア諸国連合)がある。北東アジアにはない。なぜか理由はわからぬが、メンバーをみるとなぜか理解ができる。日本、中国、朝鮮半島、さらに現代では台湾、ロシア沿海州もである。
 日本対中国、これに朝鮮がからむ3国の関係はずいぶん古くからある。学校の歴史でも教えられている。
聖徳太子が「日出る国の天子書を日没する国の天子に致す恙なきや」と格好つけたのは、卑弥呼、足利義満のきわめて短い期間をのぞいて、日本は当時の超大国中国とは対等のつきあい、つまり貢をささげ臣下の礼をとる朝貢外交は一貫して拒否。儒教は輸入せず仏教限定で、もっぱら文化、学問を熱心に輸入する。一方、朝鮮半島情勢には倭の軍団(歴史家によれば律令国家の徴兵制の下に20万の常備軍を保有していた)が助っ人として存在していた。
倭は海の向こうの大国?と、中国から見られていたからではということらしい。当時の国際政治をかんがえればである。
 
●天皇家の出自(出身地)は阿波である
筆者「地元同人誌=行雲」亀井 實
天皇の即位式である、大嘗祭に欠かせないものとして、アラタエ(鹿服・織布)がある。
これは、神聖な神衣として、大嘗宮内陣の第一の神座に供えられるものである、これがないと大嘗祭ができない。
これを貢ぐことができるのは、徳島の木屋平村の三木家(忌部氏の末裔)に限るとされている。

●忌部 - 一般社団法人 忌部文化研究所
http://www.awainbe.jp/inbebunka/inbe/
「忌部」とは
1. 日本古代史における忌部氏
2. 阿波忌部の最新研究の成果
3. 阿波忌部と徳島(阿波国)
4. 阿波忌部の精神(世界的普遍性)
5. 徳島で受け継がれた忌部の精神を世界に
6. 忌部に関係する徳島の主神社
7. ヤマト王権の成立と徳島の考古学
8. 阿波忌部による大嘗祭の麁服調進
9. 阿波忌部の日本各地の進出に関わる主神社
日本古代史における忌部氏
・「忌部」(いんべ)とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族であった。「忌部」は穢れを忌む集団という意味。「忌」は、慎みをもって神事で穢れを取り去り、身を清めることをいう。
 
●天皇は大麻草から取った繊維で作った服を着ます。
天皇家では皇位継承の時にアラタエ・ニギタエと呼ばれる、大麻と絹の神衣をお召しになって五穀豊穣・国家安泰を祈願しながら天照大神と一夜の食事を共にするという神事をします。
平成の大嘗祭の時にも四国の木屋平で栽培された大麻が神官によって厳かに収穫され、それがアラタエとなって天皇に献上されています。
●麻文化研究者 中山康直氏が語る"麻ことのはなし"
http://www.ooasa.jp/know/index.php?makoto_01
日本では昔から、大麻草のことを麻(あさ)と呼んでいました。英語ではhemp(ヘンプ)と言います。麻からは天然の良質な繊維や栄養豊富な食材、生薬の原料が取れます。最近では麻の実やヘンプオイルがスーパーフードとして世界中で話題になっています。
さらに、最近の研究によって、麻の花穂や葉に含まれる薬効成分が様々な難病を治療する薬になることが判ってきており、医療大麻として注目されています。
戦後に大麻取締法がGHQの方針で禁止される以前は、日本では麻を栽培することが国家によって奨励されていました。
※以下は2016年6月4日に行われた「第35回 中山弥栄塾」における講演の書き起こしです。
この内容を収録したDVDは↓↓↓こちらで販売されています。
http://www.ooasa.jp/school/index.php?dvd
 
●2012/7/513:07:11
邪馬台国 徳島説について
今まで何件か質問で上げられており、有り得ないとは思いながらも自分で検討しないのは学究の徒の端くれとしてダメだと思い質問します。
いくつか調べてよくある根拠について
①アラタエを献上している=四国の布を採用したのは1000年頃以降でそれ以前は関東の麻を採用していた。
②「橘=スダチ」だ=少なくともスダチの自生の証拠はなく、万葉集までスダチは現れない。普通に考えて橘=橘、証拠だけなら沖縄説のシークヮーサーの方が確か。
③水銀朱の生産遺跡=確かに若杉山遺跡は弥生期に原石と加工具が同時に見つかった唯一の遺跡だが、奈良の大和水銀鉱山、三重の丹生鉱山共に近くに加工具が見つかっており、産出量の記録はないが、三重は最後まで産出した記録があるので決定的ではない。
古墳時代には福岡でも加工遺跡がある。
さらに萩原2号墓を卑弥呼の時代としている説もあるが、
時代が古く、造営時には若杉山遺跡から水銀朱は産出されていないこと
がわかりました。
他に根拠をご存知の方調べてみたいので教えて下さい。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1490211889?__ysp=44Ki44Op44K%2F44Ko
2012/7/600:22:57
①それを証明する文献は何でしょうか?、そんなこと聞いたことありません。・・そもそも関東に麻を広めたのは阿波忌部の祖人ですし・・
②橘など小さな根拠にすぎません。
③三重県や奈良県の水銀朱は卑弥呼の時代、どこで採取されどこで精製されたのでしょう?それを証明する論文は?それと萩原2号墓に限らず、全国にある古墳などは証拠にはなりません。・・・徳島説を証明するものそれは
①帯方郡(サリウォン市)からの方向
②帯方郡から神山町神領高根山(卑弥呼が居た場所)まで距離(短里による直線距離)は1kmの誤差もないこと
③東が海で80kmぐらいで日本人が住んでいること
④水銀朱
⑤会稽東治の真東にあること
⑥倭の地5千里を証明できること・・以上です。
また、気候や産物など徳島県に当てはまらないことが、
何ひとつないことも根拠になっています。・・
近日中にこれらを証明した徳島説の本が出るかも?
 
質問した人からのコメント
2012/7/12 07:12:34
ありがとうございます。
関東に麻を伝えたのは忌部というのは誤りなのは定説です。
水銀朱鉱山については徳島県埋蔵文化財センターの若杉山遺跡に関する報告書を参考にしました。
距離についてはそこまで当てはめたこと自体が当時の測量技術を考えれば信頼性がないですね。
2012/7/521:59:04
魏志東夷伝の倭人条にある其の北岸も倭国。邪馬壹国の東側に海がある。
この二つの記述にあてはまる地域と解釈できないこともないですよね。
徳島の北岸が瀬戸内海をはさんだ中国地方という解釈は少し苦しいですが。
2012/7/518:42:32
ええと、布と食いもん水銀だけの根拠ですね。
金印の解説。
鮑の献上。
邪馬台国の財政は?
人工は?何の為に生活共同体、ムラ?貿易都市、通商の行方、そこらはありませんの?
でないとまったくガセということとになります。根拠が少し足りませんと思います。
 
●generosity
@fumihiko1214
#アラタエ ( #徳島県) 二億円⁈
#大嘗祭
#徳島県
https://twitter.com/hashtag/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%82%A8
徳島県からの、
二億円すると言われる
貢ぎ物である
アラタエを体得されないと
皇太子から天皇にはなれません。

そのくらい重要な儀式なのです。
https://twitter.com/sumerokiiyasak
 
●アラタエ [博物館] 
阿波忌部が織ったものを神祇官があらかじめ設置するという記述があるので、貢進された「布」が神祇官により「服」に仕立てられたと考えることもできますが、同一物を別称で表現したという考え方もできます。
何しろ、「服」の調製の作法は記録がありませんから。
ともあれ、アラタエというもの、かなり謎が多いということになります。
コレまでのようで、「麁服」と表記された「布」がどう使われるかは解からないようです。
--------------------
●まほろば - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/まほろば
まほろばは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。
「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいう。
楽園。理想郷。
・和歌.
 ・倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし.
 ・古事記中巻・景行天皇帝紀では倭健命の、日本書紀では景行天皇の
  望郷歌とされる和歌が「まほろば」の代表的用例として知られる。
 
●まほら(読み)マホラ
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 (「ら」は接尾語) すぐれたよい所。ひいでた国土。まほらま。まほろば。
※万葉(8C後)五・八〇〇「天雲の 向伏す極み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞し食す 国の麻保良(マホラ)ぞ」
 

国のまほろば(読み)くにのまほろば
精選版 日本国語大辞典の解説
=くに(国)のまほら
※古事記(712)中・歌謡「大和は 久爾能麻本呂婆(クニノマホロバ) 畳なづく 青垣 山籠れる 大和しうるわし」
 
●日本武尊|新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1130
新版 日本架空伝承人名事典
日本武尊
やまとたけるのみこと
 『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。
 記では倭建命と記す。
 景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫とされ、
 幼名に小碓命、倭男具那王がある。
 年少にして勇武人にすぐれ、諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが、
 長途の征旅、漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。
ヤマトタケル物語の大要
 『古事記』と『日本書紀』とでは叙述に相違があり、文学として後者は
 前者にはるかに及ばない。以下『古事記』にもとづいて物語を要約する。
 小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓命は父天皇の召し上げた乙女を盗み、
 ために朝夕の食事に参会しなかった。
 そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは、兄が朝の厠に
 入るところを捕らえ手足をひき裂いて菰に包んで投げ捨ててしまう。
 その勇猛に恐れをいだいた天皇は、オウスを西方の賊平定に派遣する。
 これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。
 まだ少年のオウスは女装して熊曾建(熊襲魁帥)兄弟の宴席に入り、
 宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。
 虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスは
 それを聞きおえるや否や、相手を熟苽のように振りさいて殺したという。
 
●まほろば in 奈良公園 さだ まさし
https://youtu.be/IS1LWfKNJGk
母をたたえるコンサート さだまさし  まほろば
https://youtu.be/RUU5KGQyZlw
まほろば 歌詞
歌:さだまさし
作詞:さだまさし
作曲:さだまさし
春日山から飛火野辺り
ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
馬酔木の森の馬酔木に
たずねたずねた 帰り道
 
遠い明日しか見えない僕と
足元のぬかるみを気に病む君と
結ぶ手と手の虚ろさに
黙り黙った 別れ道
 
川の流れは よどむことなく
うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い
 
例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛て名のない手紙
 
寝ぐらを捜して鳴く鹿の
後を追う黒い鳥鐘の声ひとつ
馬酔の枝に引き結ぶ
行方知れずの懸想文
 
二人を支える蜘蛛の糸
ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
君を捨てるか僕が消えるか
いっそ二人で落ちようか
 
時の流れは まどうことなく
うたかたの夢 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い
 
例えば此処で死ねると
叫んだ君の言葉は
必ず嘘ではない
けれど必ず本当でもない
 
日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹よし平城山の空に満月
 
今日取り上げた二つの言葉は掴みようのない抽象的で奥が深く大きいもので感じしかつかめない。
各人で判断して下さい。




コメントを投稿