詩編107編1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)
「恵み深い主に感謝せよ
慈しみはとこしえに」と
主に贖われた人々は唱えよ。
主は苦しめる者の手から彼らを贖い
国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、渇き、魂は衰え果てた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
ローマの信徒への手紙12章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
パウロはこれまで神の救いの確かさを語ってきましたが、12章に入り、救われた者の生活について語り出します。神によって救われた人が、それにふさわしく生活するためにどうしたら良いかを語ることは自然な流れです。そのため「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言い、神の救いは礼拝へとつながり、そして礼拝は感謝の生活につながっていくという道筋を示します。
「なすべき礼拝」は直訳すると「理にかなった礼拝」あるいは「理性的な礼拝」です。これは現代的な意味での「合理的」ということではありません。私たちは神に救われたので、神に感謝することが理にかなっているということです。そのような感謝をする礼拝が「理にかなった礼拝」ということです。このような礼拝は信仰生活の基本であり、土台です。ですから感謝の生活を語る時、まず礼拝について語ることは当然なことでしょう。
さて、パウロがこれから語ろうとすることは、礼拝という儀式の説明ではありません。礼拝が神への感謝であるのであれば、その生活はどう変わるのかということです。
現実の生活の中で、私たちは自分の利益になることに目を奪われたり、あるいは人間としての理想的な生き方を考えるかもしれません。しかし、パウロは大切なことは神に目を向けることだというのです。そのために、神に救われたこと思い起こさせ、その神に感謝するという流れを強調するのです。そこで「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」(2節)という勧めがなされるのです。
次に「自分を過大評価してはならない」(3節)と続きます。これは、神に救われた人々との関係を考える時に重要なことです。自分一人が救われたのではなく、神に救われた人々が周りにおり、その人々と一つの共同体をつくっているからです。この共同体を教会と言い換えてよいでしょう。3~5節は、教会を人間の体になぞらえて説明します。人間の体が様々な部分からなっており、それぞれの部分が一つとなって一つの体を形成しているというのです。ここで重要なことは「キリストに結ばれて一つの体を形づくっている」という言葉です。聖書に「キリストは教会の頭」(エフェソ5:23)、「教会はキリストの体」(エフェソ1:23)という言葉があり、教会とキリストとの関係を良く言い表しています。キリストが教会の頭であるならば、2節の「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが、私たちの生活において重要なことだといよいよはっきりしてきます。
6~8節では、3~5節を具体的な例をあげて説明しています。教会の中に、さまざまな働きをする人がいて、それぞれ異なった賜物を神から受けているということです。パウロはこれと同じことをⅠコリント12章で詳しく説明しています。そこではそれぞれに与えられている賜物は、聖霊の働きだといっています。聖霊を通して与えられる神の賜物ですから、「自分を過大評価してはならない」(3節)と言い、「人は自分を誇ってはならない」(Ⅰコリント3:21)、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と言うのです。これが、神に救われた私たちの生活の基礎なのです。
「恵み深い主に感謝せよ
慈しみはとこしえに」と
主に贖われた人々は唱えよ。
主は苦しめる者の手から彼らを贖い
国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
彼らは、荒れ野で迷い
砂漠で人の住む町への道を見失った。
飢え、渇き、魂は衰え果てた。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き
人の住む町に向かわせてくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった。
ローマの信徒への手紙12章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
パウロはこれまで神の救いの確かさを語ってきましたが、12章に入り、救われた者の生活について語り出します。神によって救われた人が、それにふさわしく生活するためにどうしたら良いかを語ることは自然な流れです。そのため「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言い、神の救いは礼拝へとつながり、そして礼拝は感謝の生活につながっていくという道筋を示します。
「なすべき礼拝」は直訳すると「理にかなった礼拝」あるいは「理性的な礼拝」です。これは現代的な意味での「合理的」ということではありません。私たちは神に救われたので、神に感謝することが理にかなっているということです。そのような感謝をする礼拝が「理にかなった礼拝」ということです。このような礼拝は信仰生活の基本であり、土台です。ですから感謝の生活を語る時、まず礼拝について語ることは当然なことでしょう。
さて、パウロがこれから語ろうとすることは、礼拝という儀式の説明ではありません。礼拝が神への感謝であるのであれば、その生活はどう変わるのかということです。
現実の生活の中で、私たちは自分の利益になることに目を奪われたり、あるいは人間としての理想的な生き方を考えるかもしれません。しかし、パウロは大切なことは神に目を向けることだというのです。そのために、神に救われたこと思い起こさせ、その神に感謝するという流れを強調するのです。そこで「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」(2節)という勧めがなされるのです。
次に「自分を過大評価してはならない」(3節)と続きます。これは、神に救われた人々との関係を考える時に重要なことです。自分一人が救われたのではなく、神に救われた人々が周りにおり、その人々と一つの共同体をつくっているからです。この共同体を教会と言い換えてよいでしょう。3~5節は、教会を人間の体になぞらえて説明します。人間の体が様々な部分からなっており、それぞれの部分が一つとなって一つの体を形成しているというのです。ここで重要なことは「キリストに結ばれて一つの体を形づくっている」という言葉です。聖書に「キリストは教会の頭」(エフェソ5:23)、「教会はキリストの体」(エフェソ1:23)という言葉があり、教会とキリストとの関係を良く言い表しています。キリストが教会の頭であるならば、2節の「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことが、私たちの生活において重要なことだといよいよはっきりしてきます。
6~8節では、3~5節を具体的な例をあげて説明しています。教会の中に、さまざまな働きをする人がいて、それぞれ異なった賜物を神から受けているということです。パウロはこれと同じことをⅠコリント12章で詳しく説明しています。そこではそれぞれに与えられている賜物は、聖霊の働きだといっています。聖霊を通して与えられる神の賜物ですから、「自分を過大評価してはならない」(3節)と言い、「人は自分を誇ってはならない」(Ⅰコリント3:21)、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と言うのです。これが、神に救われた私たちの生活の基礎なのです。