八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「救いの約束」 2022年11月13日の礼拝

2022年11月28日 | 2022年度
出エジプト記3章1~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
  主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
  主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
  モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
  モーセは神に尋ねた。
  「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
  神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
  「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
  これこそ、とこしえにわたしの名
  これこそ、世々にわたしの呼び名。


ヘブライ人への手紙8章1~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。
  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
  「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
  新しい契約を結ぶ時が来る』と、
  主は言われる。
  『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
  エジプトの地から導き出した日に、
  彼らと結んだ契約のようなものではない。
  彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
  わたしも彼らを顧みなかった』と、
  主は言われる。
  『それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
  主は言われる。
  『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
  彼らの心にそれを書きつけよう。
  わたしは彼らの神となり、
  彼らはわたしの民となる。
  彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
  「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
  小さな者から大きな者に至るまで
  彼らはすべて、わたしを知るようになり、
  わたしは、彼らの不義を赦し、
  もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。



  創世記12章は神がアブラハムを選び、すべての人々を祝福すること、そのためにアブラハムとその子孫をその計画のために用いることを告げたと記しています。その際、神はアブラハムにパレスチナの土地を与えることと、一つの民となるほどに子孫を増やすと約束しました。その約束通り子孫は増えましたが、それでも70人ほどでした。そして、飢饉が襲ってきた時、エジプトで宰相となっていたヨセフを頼り、一族はエジプトへ移住しました。ここまでが創世記に記されていることです。
  創世記に続く出エジプト記は、それから数百年の時が過ぎたというところから始まります。エジプトにいた数百年の間にアブラハムの子孫は増え、一つの民族へと成長しました。しかし、その間エジプト王朝は代わり、彼らは奴隷状態になっていました。あまりにも数が増えたことを恐れたエジプトの王は、彼らの子どもたちを殺害することにしました。難を逃れたモーセは王女のもとで成長しますが、殺人を犯し、エジプトから逃亡しました。40年が過ぎ、モーセが80才になったとき、神はモーセに現れ、エジプトに行くようにと告げました。その時の様子が、今日の聖書の個所です。
  神がモーセに告げた計画は、アブラハムの子孫であるイスラエルをエジプトから脱出させ、かつてアブラハムに約束した地へ導くということでした。
  数百年のときが過ぎようとも、神はアブラハムに約束されたことを忘れてはいませんでした。イスラエルの民は忘れていたかもしれませんが、神は忘れてはいなかったのです。そして、神はモーセのことも忘れてはいませんでした。生まれて間もないモーセが、神の守りと導きによってエジプトによる虐殺から逃れ、その後殺人を犯したためエジプトから逃亡し40年が過ぎましたが、神はそのモーセを忘れていませんでした。アブラハムに約束したことを実行するために、神はモーセを遣わそうと、彼の前に現れたのです。
  イスラエルの民がエジプトで生活した意味は、彼らの数を増やすために、緑の多い土地へ移らせたということでした。数百年の時をそこで過ごし、民の数は増えました。エジプト人との交流を最小限にするため、ゴセンという地で生活していましたが、民の数が増えたため、エジプト人との交流が多くなり、エジプトの宗教や価値観の影響を受けやすくなってきました。これ以上エジプトにいることは彼らをすべての民の祝福の働き手とするには不都合になってきたのです。神が彼らをエジプトから脱出させようとしたのは、奴隷状態から解放すること、そして約束の地に導くという目的は確かにありましたが、それ以上に、エジプトの影響を受けることがないようにすることが重要だったのです。
  こうして、モーセは遣わされ、イスラエルの民はエジプトを脱出し、約束の地へ出発したのでした。
  すべての人々を祝福に入らせるという神の約束はその後も続き、ついにイエス・キリストがすべての人々を救いに至らせるために遣わされました。神は約束を忘れてはいないのです。すべての人々を救う神の計画は、イスラエルやモーセの場合と同じように、神があらかじめ定めた時に実行に移されるのです。イエス・キリストが現れたのも神の定めた時に起きたのです。「時が満ちると、神はその御子を、お遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)とあるとおりです。

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