葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「黒い棺桶・人間魚雷回天」回天搭乗員田中直俊の8月15日

2020年08月15日 | 歴史探訪<世田谷区内の戦跡>

『 八月十五日の玉音放送は聴きませんでしたが、上官から戦争は終わったから搭乗員は戦犯になるかも知れないので一足早く故郷に帰れと復員命令が出ました。ところが基地内で「ポン、ポン」と銃声が聞こえますので上官に聞いてみると、戦友が、ピストルで自害をしたと聞かされました。歓呼の声で送り出された故郷には「ニッポン男子」として生きて帰れないのか、天皇陛下に申し訳ないと思ったのか分かりませんが、復員命令が出されてから自害をしたことを、もし親が聞かされたら、何で馬鹿なことをしたんだのだろうと嘆かれたと思います。私は父親が教員を止めて、一人で農業をやっていましたので復員して手伝おうと白石町に帰郷しました。
 十八歳の夏のことでした。』田中直俊「黒い棺桶・人間魚雷回天」より

予科練に志願 
 私は大正十五(一九二六)年十一月四日佐賀県杵島郡白石町に男五人女三人兄姉弟の四男として生まれました。父は身体が弱かったので農家の畑仕事には向かないと、旧制熊本第五高等学校から東京帝国大学を卒業して教員となりました。
「男の子は兵隊さん。女の子は看護婦さん」という時代でしたので、旧制佐賀県立鹿島中学四年生の時に陸軍士官学校を受験しましたが回答を二問間違えましたので落ちしまいました。十六歳になった昭和十八年十一月、軍歌「若鷲の歌」にある『七つボタンは櫻に錨』(注①)に憧れて、海軍第十三期甲種飛行予科練習生(予科練)に志願しました。佐世保海軍基地で受験、適性検査、体格検査とも見事合格。歓呼の声と日の丸の旗に送られて故郷の駅を出発、三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊しました。
 隊内での移動はすべて駆け足、歩くことは許されませんでした。辛かったのはモールス信号の受信で、欠落三字出すとバッタ(軍人精神注入棒)と呼ばれる樫の棒で、間達えた数だけ尻を打たれて尻が真っ赤になり、便所でしゃがむ時の激痛が忘れられません。
 予科練の課程も一年で終了し、次の課程である実践部隊(飛行練習隊)へ派遣される直前、昭和十九年八月一万二千名の練習生が集められました。隊長が「戦局はますます厳しくなってきた。この戦局を挽回させるには新兵器が必要となり、我が海軍が開発した、特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもので、この中から搭乗員百名を選抜する。希望するものは名前の上に◎をつけること」と言われました。私は飛練に入隊しても、赤トンボ(旧日本陸軍の複葉機「九五式一型中間練習機」)まで特攻隊に出撃していると聞き、それなら新兵器のほうが面白いと思って◎をつけました。選考基準は意志強固、機敵性、融通性、家族編成が長男以外のことなどであったようです。
回天搭乗員に
 奈良分遣隊から広島県大竹市の呉海兵団大竹対潜学校で座学を受け、人間魚雷『回天』の発祥地、山口県周南市(旧・徳山市)の大津基地に派遣され、上陸するやいなや『回天』が目の前に横たわっていました。
 先任将校の訓示曰く「お前たちは幸せ者だ。一機一億円もする棺桶に入れるのだからだ。」と。当然予科練生には兵器の値段は分かりませんし、現在の貨幣価値から考えるとべらぼうな金額になると思いますが、そんなに高価なのかなと当時はそのまま信じていました。
 『回天』は九三式無航跡酸素魚雷を改造したもので、敵艦に体当たりして自らの命と引き換えに戦果を得る、命中すれば空母も撃沈させる威力があります。動力は液体酸素と石油、内部からのハッチは開閉不能、特眼鏡(潜望鏡)あり、伊号丁型伊三七〇潜水艦の甲板に固定されます。最高航行速度三〇ノット、航続距離二十三キロメートルです。魚雷は潜水艦長が潜望鏡を使って敵目標艦に向う方向と距離を観測して発射しますが、観測に誤差があれば不発となります。しかし、回天は人力操縦と特眼鏡で運航しますので、万が一敵目標艦を外しても、縦舵を使って三六〇度回転し二回、三回と観測を繰り返して敵艦に激突します。命中率は潜水艦よりも確率は高くなる兵器です。 

七つボタンは櫻に錨』(注①)(以下略)

靖国神社遊就館大展示室「伊号潜水艦と装着された回天」

(了)

 

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