葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「戦傷者の選別ートリアージ」「彰古館ー知られざる軍陣医学の軌跡ー」

2020年08月14日 | 歴史探訪<世田谷区内の戦跡>

帰省や旅行で高齢者が感染…コロナ家庭内感染で「9月危機」の現実味

>「このまま高齢者も含めた広い世代に感染が広がれば、限りある医療資源を誰に振り向けるかというトリアージが必要になる可能性があります。要介護認定を受けているような高齢者はもともと肺炎の予後がよくない。トリアージでいう“黒タグ”をつけざるを得なくなります」トリアージとは、災害や大事故で多数の患者が出た際に、緊急度に従って付ける手当ての優先順位のことだ。黒タグが意味するのは「救命不能」。つまり、医療提供されないということだ。< という記述がありましたので、「彰古館」から「戦傷者の選別ートリアージ」を抜粋してFacebookに投稿しました。

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ナポレオンー世がエジプト遠征をしたときのことです。ナポレオンは、戦場に医者を随行させました。
それまでのヨロッパの戦争は主に領主間の争いで、兵士の補充は領地内で簡単にできたので、戦傷者はそのまま放置されたのです。
 これが海外への遠征となりますと補充もまなりません。そこで、負傷者を治療して戦線復帰させることになったのです。
ところが医者は重傷者に掛かりきりで、その間に多くの兵士が死んでいきます。ナポレオンは、一人の重傷者を助けるために中軽傷者が死ぬのは本意では無い。治療に優先順位をつけるように命じました。この発想が卜リアージです。
第一次世界大戦においてはこの思想は行き渡っており、一人の重傷者に貴重な時間や薬剤、医療機材、スタッフなどが集中してしまわないように、治療システムが完成していました。
写真集では随所に患者の区分が示されており、効率的な大景傷者の治療のためにトリアージが行われていたことが理解できます。
近年、国内の救急医療の現場で盛んにトリアージという言葉が聞かれますが、これは決して瀕死の重傷者を見すてるという行為ではありません。患者に優先順位をつ見けるということから誤解を受けることがありますが、大規模災害時に大量に発生した負傷者を効率よく治療するためのノウハウとして、戦時医療が参考にされているのです。負傷者達の明るい表情が、無言でそれを物語っています。

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この機会に防衛ホームズ新聞社刊「彰古館ー知られざる軍陣医学の軌跡ー」をご紹介します。ブルーインパルスで有名になった、陸上自衛隊三宿基地内の自衛隊中央病院に隣接する自衛隊衛生学校付属の医療史博物館です。旧陸軍軍医学校の残存史資料があります。この書籍の著者は自衛隊員で学芸員の資格をもった木村益雄さんです。木村益雄さんは旧陸軍軍医学校の残存史資料を整理しました。退官後、九段下にある戦傷病史料館「しょうけい館」の学芸員でしたが、現在は退職しています。木村益雄さんから色々と勉強させて貰いました。

 

 

   はじめに
 東京都世田谷区に所在する陸上自衛隊三宿駐屯地には、自衛隊衛生職種の教育機関、自衛隊衛生学校があり、その校内に「彰古館」が開設されています。彰古館は医療史博物館として内外に認識され、明治初期から現在に至る貴重な史料が収集・展示されています。
もちろん各大学医学部や医療機器?医薬品メーカー等にも医療関係の博物館は多数ありますが、彰古館には、明治以来の戦時医療の史料が充実していることが特色となつています。
 よく「戦争と医学の発展は切り離して考えることは出来ない」と言われます。不幸なことですが、過去の歴史において戦争での兵器の発達によって戦傷が多様化し、新しい治療方法や医療機器が開発されたという事実があります
  こうした史実を研究する際にネックとなるのが、現存史料の少なさです。軍関係の資料は、戦災と終戦時の焼却・散逸に加え、戦後それまでのドイツ式医学からアメリカ式医学へ変革したため、要らないものとして処分されています。
彰古館には奇跡的に戦災や接収から逃れた、明治維新以来の軍医学校参考館所蔵品や、戦後になって大東亜戦争衛生史編纂の参考資料として多方面から寄せられた資料・医療機器が集められているのです。
 所蔵品は旧陸海軍関係だけではなく、日本赤十字社、大学等を含む民間、警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊などの医療史に及び、見学者は衛生職種のほか、各職種の自衛隊員、一般の大学等の研究者や民間の医療従事者、マスコミ関係者も含め年間約千人が訪れています。
  歴史の流れの中で、軍関係の事跡だけを省いて医療史をまとめることは出来ません。彰古館には、すでに失われたと思われていた歴史の生き証人の品々が、ひっそりと、しかし大切に保存されているのです。
本書では彰古館の所蔵品から、歴史的に面い逸品を紹介していきます。

  赤一文字の医療背嚢
 明治4年(1781)後に軍医総監となる石黒忠悳(ただのり)は、当時プロシアと呼ばれていたドィツ製のランドセルを横浜で見つけ、購入します。これは軍医が戦地での初期治療を行うための医療背嚢でした。石黒は「こいつは妙だ。副木も出る。包帯もある。救急薬も湯飲みもある」と手を叩いて喜びます。ちょうど、陸軍軍医部が発足したばかりで、新しい装備品を模索していたところだったのです。
  さっそく同じ外観の試作品を作り、師団の演習に携行させますが、太政官からクレームが付きます。「そもそも赤十字たるや、耶蘇(やそ=キリスト教)の印である。神国たる国軍の徽章として使用するなど、もっての外」といったのが、その理由でした。これには石黒も困ってしまい、新たに軍医部のマークを考案することになります。
 まず赤十字徽章について調べますと、ジュネーブ条約に加盟しなければ勝手に使用することが出来ないことを知ります。しかし「各国の陸軍の趨勢を見れば、わが国も近いうちに加入するのは間違いない。仮のマークを制定しても、将来、赤十字に付け替えるのが知れている」 当時は、兵部省が陸軍省と海軍省に分割された時期で、予算が苦しい事情があります。装備品のワッペン一つ付け替えるといっても大変なお金が必要になります。
 翌年、医療背嚢は赤十字徽章から縦線を取った赤一文字が軍医部のマークとして制定されます将来、ジュネーブ条約に加盟したときには、縦線を書き加えることで赤十字徽章に変更できるといぅわけです。
 思惑通り、明治19年(1886)に条約加盟を果たすと、直ちに装備品の赤一文字は、赤十字に書き換えられました。「無駄な予算を使う必要はない」と考えた石黒の先見の明「赤一文字の医療背嚢」は今でも彰古館で見ることが出来ます。
 実は、この背嚢が小学生のランドセルの原型なのです。

(了)

 

 

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