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『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-5 【承明門(じょうめいもん)】五紙 中央公論社 小松茂実編

2020-08-27 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸

祇園祭 鷺舞 (八坂神社にて)

  『年中行事絵巻』日本絵巻大成 8-5 【承明門(じょうめいもん)】五紙 中央公論社 小松茂実編

 

 

【巻一 承明門(じょうめいもん)】五紙

承明門(じょうめいもん)

 『年中行事絵巻』

  日本絵巻大成では、じょうめいもん、

  ウィキペディアでは、しょうめいもん

 承明門(じょうめいもん)は、平安京内裏の内郭門の1つ、または京都御所の門の1つ。 「南面内門」とも。

 

承明門(じょうめいもん)(国語大辞典) 

 内裏(だいり)紫宸殿(ししんでん)の正面にある内門。
 内郭の南面中央にあり、外郭の建礼門に対する。
 
 ※内裏式(833)上卯日献御杖式「開承明門〈相対開之〉先共北面立門内檀下
 
 
承明門(じょうめいもん)の屋根は、檜皮葺(ひかわぶき)  『年中行事絵巻』
 
 
檜皮葺(ひかわぶき)  (日本大百科全書)
 
 檜(ひのき)の樹皮、すなわち檜皮を葺き材料とした屋根葺き方法をいう。
 
 垂木(たるき)の上にこれと直交する方向に一定間隔で桟を打ち、その桟に釘(くぎ)や縄を用いて止めていくが、檜皮は密に重ねられ、その総厚が30センチメートル以上に及ぶことも珍しくない。
 
 棟は普通の瓦(かわら)葺きと同じく棟瓦(むながわら)、のし瓦、鬼板を使って収めることが多い。優美な外観となるが、同じ植物性材料とはいいながら、茅(かや)や藁(わら)に比して高価につくので、宮殿、神社、仏寺などに広く用いられても民家ではめったにみられない。
 
 檜皮葺きをもつ著名な建物としては京都御所の紫宸殿(ししんでん)、清涼殿などの主要殿舎があるが、同じ御所内でも付属屋にはむしろ瓦葺きが多用されている。
 
 これは、貴人の住居には中国風の瓦を避け、植物性材料を用いる古代以来の風習によるものと思われる。
 
 なお仏寺では吉野山蔵王(ざおう)堂が檜皮屋根をもつ最大の建物である。

 檜皮葺き屋根の耐用年数は15年程度とされるが、檜皮の採取や葺き上げには特殊な技術を要し、かつ森林資源保護の見地からも今後その供給が危ぶまれ、巨大な遺構の修理に支障のおこることが懸念されている。
 
 ただし可燃性材料であるので、市街地における一般建築への適用は法規で禁止されている。[山田幸一]
 
檜皮葺(ひかわぶき)
 
 神社や寺をお参りすると、檜皮葺(ひかわぶき)を見ることが多い。
 
 春日大社などの様に、檜皮の寄付を募っておられる所を度々見かける。

 

平安京内裏の内郭門  (日本大百科全書)

 宮城(大内裏)の中で天皇の住む一画。

 皇居。

 難波(なにわ)宮、藤原宮、長岡宮、平城宮などは発掘調査されているが、平安宮はほとんど未調査である。

 しかし各種の古図や江戸時代の有職故実(ゆうそくこじつ)家裏松光世(うらまつみつよ)(固禅(こぜん))が残した詳細な考証書『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』などによって殿舎の配置・規模などはある程度わかる。

 内裏は平城宮までは朝堂院(大内裏の正庁)の真北にあり、長岡宮、平安宮では朝堂院のやや東に移された。

 これは公的な朝堂院と、天皇の私的な居所を分離したものであろう。

 しかし、律令(りつりょう)体制の変質によって、この平面の変化がかえって内裏を政治の中心的な場とし、朝堂院は儀式の場としての性格を強めることになった。


 平城宮の内裏として確認されているのは、宮城東寄りの壬生(みぶ)門――朝堂院の北に位置し、第二次内裏といわれた所である。

 築地(ついじ)回廊に囲まれた、1辺約180メートルの正方形の地域で、南側には東西9間、南北5間の正殿(平安宮の紫宸(ししん)殿にあたる)などを回廊で囲んだ一画があり、公の宴などが催されたりした場所である。

 北側は正殿より少し小さめの殿舎の周囲に建物が配され、天皇が起居する私的な区画であった。

 正殿などの殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きで板敷きのものが中心となっていた。

 内郭(築地回廊が囲む区域)の外側をさらに築地で囲み、これを外郭という。

 広い意味の内裏はこの全体を含み、内郭と外郭の間に、天皇の日常生活と関係の深い官衙(かんが)(官庁)があった。
 

 長岡宮(京都府向日(むこう)市)では、朝堂院の東方に内裏が確認されている。

 平城宮と同様外郭が存在しており、内郭は1辺約160メートルの正方形で築地回廊に囲まれ、その南中央に正殿が位置していた。

 正殿などの柱は抜き取られて、平安京の造営に使用されたらしい。


 平安宮の内裏は大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東にあった。

 築地の外郭は東西113丈(約342メートル)、南北100丈(約303メートル)ともっとも大きい。

 東部に築地回廊で囲まれた内郭、その北に蘭林坊(らんりんぼう)、桂芳(けいほう)坊、華芳(かほう)坊、西に中和院(ちゅうかいん)、内膳司(ないぜんし)、采女町(うねめまち)があった。

 内郭は東西57丈(約173メートル)、南北72丈(約218メートル)で、南側中央に位置する紫宸殿と、その南にある4殿が公的な部分であり、北側に清涼(せいりょう)殿など天皇の私的な殿舎があった。

 その北が皇后・女御(にょうご)などの居所がある後宮で、建物は檜皮葺き、素木(しらき)(白木=木地のままの木材)造、板敷きであった。

 このように南北に公私を分け、左右対称に殿舎を配する形態は平城宮でもみられたが、各建物を廊で結んだのが平安内裏の特色である。
 

 794年(延暦13)の平安遷都でつくられた内裏は、約160年後の960年(天徳4)に全焼、ただちに木工寮(もくりょう)、修理職(しゅりしき)と27か国に造営を分担させ、翌年完成した。

 その後、火災の頻発により、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れ、平安後期になると天皇は日常は里内裏に住み、儀式のときに内裏に帰るようになり、初めから里内裏として造営される邸宅もあった。


 鎌倉時代も同様で、本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されていない。

 建武(けんむ)の新政で大内裏再建が計画されたものの中止され、南北朝以後は鎌倉末期につくられた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、内裏として固定する。

 ここは規模も小さく、構成なども平安内裏とはかなり異なっていた。

 近世に入って規模が拡大され、江戸後期の1788年(天明8)の火災後、紫宸殿、清涼殿などが平安内裏を復原して造営され、1854年(安政1)に焼亡したがすぐ再建され、1869年(明治2)の東京遷都まで皇居であった。

 現在の京都御所がこれである。[吉田早苗]

 

内裏

 内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。

 都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。

 

 

 

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2 コメント

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鷺舞 (SiSiです。)
2020-08-28 22:17:48
八坂神社・祇園祭の鷺舞神事「小鷺踊り」の写真ですね。
山口は津和野の鷺舞が有名です。今年は他のイベント同様、舞われなかったみたいで残念です。
最近は、カメラ片手にお祭り…ということが出来ないので、カメラのバッテリーも上がり気味です。
早く平時に戻って欲しいと思う今日この頃です。
Unknown (SiSi 様 Ranchoです。)
2020-08-29 14:24:18
山口は津和野の鷺舞ですね^^
見てみたいなぁ^^

SiSi さんのおっしゃる通り、今年は祭りも何もかも無くなってしまって、ショックですね。
ショック続きですが、二人とも12月に中国に行く為パスポート(10年)を更新したんですよ。そうしたら、今の状態で><運が悪いこと、この上ないです。損した〜!逆に息子は、中国や他にも行った後に、パスポートが切れたてコロナ騒動突入でした^^

芝居も行けないけど、どこかに行ったような雰囲気のお食事を心がけて、楽しむことで楽しんでいます。(食費がバカほどかさんでいます、笑)

ご趣味の多いSiSi さん、いっぱい楽しんで、この苦難を乗り切りましょうね!!!
コメントをありがとうございます^^うれしいです★

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