森の空想ブログ

私の昭和史(六)―戦時下①/白い花の咲く頃(72)[詩人・伊藤冬留のエッセイと画人・高見乾司の風景素描によるコラボ]

私の昭和史(六)―戦時下①
伊藤冬留

 太平洋戦争(大東亜戦争)の頃私は北海道の田舎の小学生だったので、都会の子供たちのような空襲や疎開の体験はない。それでも時代の影響は多すぎる程受けた。
 太平洋戦争は1941年12月、ハワイの真珠湾攻撃で始まった。その時私は国民学校(小学校)1年生。翌年2月、マレー半島南端の英領シンガポールが陥落し、日本領になって昭南島と名が改められた。それを記念して学校ではマレー特産のゴム製品(ゴム鞠、運動靴)が全校生徒に配られた。
その後しばらくは日本軍が優勢で、破竹の勢いで東南アジアや南太平洋の島々を占領して行ったが、ミッドウェー海戦(1942年6月)で米軍に破れたのを機に形勢が逆転し、やがてサイパン、テニヤン、硫黄島、沖縄と飛び石伝いに占領され、広島、長崎の原爆投下、ソ連参戦を経て遂に無条件降伏した(1945年8月)。
 さて戦争中、登校すると先ず正門に高等科生(現中学生に相当)が木銃(銃剣術練習用の木製の銃)を手に立っていた。挨拶をして正門を潜ると、次は正面の奉安殿(御真影即ち天皇、皇后の写真と教育勅語を安置)に最敬礼し、次に二宮金次郎像に礼をして、その後校舎に入るのが決まりだった。
 当時国民学校では元日の四方拝(皇室祭儀)、二月十一日の紀元節(神武天皇即位の日)、四月二九日の天長節(昭和天皇誕生日)十一月三日の明治節(明治天皇誕生日)の四大節とその他の式典が行われ、全校生徒はその度に屋内体操場に整列して式典を守った。式典は奉安殿から運ばれてきた教育勅語を燕尾服に白手袋の校長が恭しく押し頂き、それを徐に開いて読み上げることから始まった。その間全校生徒は頭を垂れ、物音一つ立てず聴き入った。咳やくしゃみをしたりすると先生の拳骨が飛んだ。特に厳寒の時は、暖房などない体操場では長時間の起立は苦行だった。
 当時上履きなどを持つのは稀で、大抵は足袋を履くのが普通(夏は裸足)だったから、今考えるとよく我慢したと思うが、それに耐えられたのはそれだけ田舎育ちの自然児だったということだろう。

2016年10月8日 執筆


「記憶の彼方に」 墨彩 19㌢×38㌢

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