エレーヌ・ペイゲルス「ナグ・ハマディ写本」は良書
ここのところ、エレーヌ・ペイゲルスという宗教学者&グノーシス主義研究家の「ナグ・ハマディ写本」という本を読んでいます。
1979年に出版された本で、日本では1996年に翻訳。少し古い本になりますが、非常に学びの多い著書なんですね。
ザックリいえば、「正統を自称するキリスト教」と「グノーシス主義」を対比することで、キリスト教の本質がわかることと、グノーシス主義の特徴がわかるようになっている本なんですね。
で、キリスト教の本質がわかると、現代の文明(欧米の文明の本質)もわかるようになっていて、優れた啓蒙書であり、知見の得られる書だったりします。
グノーシスとは真我(本当の自分)に気づく教えと実践のこと
ちなみにグノーシス主義とは、ザックリわかりやすくいえば、インドの「ヨーガ」のことです。ほぼ同じです。
真我(神意識、誰の心にもある神意識)に気づいて、そこに溶け込みましょうという教えと実践です。仏教から解脱を除いた戒律と瞑想ということもできます。
グノーシス主義とは何か?~キリスト教徒が理解できなかった知識の総称
グノーシス主義ではアイオーンとは梵天の神のこと
キリスト教とグノーシス主義の違い一覧
で、キリスト教とグノーシス主義を比較すると、次の通りです(スマホは横にワイプしてください)
グノーシス主義 | キリスト教 | |
理解の仕方 | 言葉の向こうを理解する。 非言語領域への理解 | 言葉通りに理解する。 文字通り以外の理解はNG |
評価の基準 | 行為そのものもさることながら、 その人の動機(善心なのか悪心)を重視 | 行為を重視。 (洗礼を受けたのか、献金をしたのか などの行動行為)を重視 |
組織 | その人の内面性、霊的成熟度が大切。 真の教会とは霊的成熟を遂げた「人」のこと。 司教などの組織的ポジションは二次的なもの。 | 教会が大事で神の代理機関。 司教は誰であっても神の代理人。 中身より形が大事。 |
行動様式 | 言語化された基準は二次的なもの。 組織化、統一化、全体主義化には否定的。 各人の霊的成熟度を重視。 いたずらにつるまない。時に独りになる。 | 誰にでもわかる客観的な基準を重視。 組織化、統一化、全体主義に向かう。 |
社会性 | 国家、企業とは馴染みにくい。 社会に適応しにくい人も出てくる。 | 国家、企業と馴染みやすい。 宗教の装いをした会社組織。 |
方向性 | 高い精神性、霊性を重視。 お金やモノは幸福となる二次的な要素。 時に物質性を否定。 | 観念的・抽象的な精神性。 世界は神が作った被創造物なので、 肉体、お金、モノは大切。 物質性を否定することは神への冒涜。 |
こういうことなんですね。
非常にわかりやすい。
ちなみに、こちらでは、キリスト教とグノーシス主義との違いを別の切り口から一覧表にしています。
グノーシス主義はなぜ異端なのか?正統派教会とは違いすぎる驚きの内容
ここでは、エレーヌ・ペイゲルスの著書に基づいてまとめました。
キリスト教は人間社会の縮図
結局、正統を自称するキリスト教って、会社組織、人間生活そのものであることがわかります。人間社会の縮図。組織そのもの。
てか、もっといえば、、、、いえ、言うのは控えます^^;
でも、想像がつきますよね?
あまりにもレベルがアレで^^;、なんていいますか。
実際、当時のグノーシス主義の中には、正統を自称するキリスト教に対して、「あいつらはおかしい」と言ってあざ笑っているようなんですね。
確かに、ごもっとも。
現代社会の縮図がキリスト教の本質でもあって、現代の問題はキリスト教にもあるということが浮き上がってきて、なんともため息が出るといいますか、なんていいましょうか。
「キリスト教がわかれば世界がわかる」というのは、こういうことなんだなあ、と改めて感じます。
グノーシス的なあり方で良い
で、エレーヌ・ペイゲルスを著書を読んでいて、私自身が「グノーシス」的なことを自覚しましたね。
で、グノーシス的なあり方で「いいんだ」というのがハッキリしたといいますか、確信が得られましてね。
こうした瞑想的、高次的な意識に取り組む際、社会とどう向き合っていくのかは、多くの方が考え、悩むところだと思います。
私もかつては随分と悩んだものです。が、ずっと前に答えが得られて、その後は惑うことはないんですが、グノーシス文献は、これらの課題に対するヒントや答えを出しているんですね。
で、グノーシス主義で言っていることは、「ホント、その通り」と膝を叩くことが多いですね。
ホント、ごもっとも。
言葉・文字の向こうにある意味をつかもうとするのがグノーシス的
エレーヌ・ペイゲルスの著書を読んでいて、常々私がお話ししていること、考えていること、感じていることがグノーシス的だったことがわかり、ある種の感銘も受けています。
感慨深いんですね。
たとえば、文字化されたものの受け止め方や、思考に関することなんですね。
「考える」「文字で表現する」ということに関しては、21才のときにあった見性体験(覚醒体験)以後、大きな変化があったんですね。
この体験以来、考える、文字で表現するやり方そのものが根底から変わっています。
グノーシスで言っている通りで、まさに「文字の向こう側にある意味をつかもう」とする傾向がいっそう強くなったんですね。
グノーシス的だった自分
実のところ私は、見性体験が起きる前から、10代の頃から、文字の向こう側にある何かをつかもうとする読み方、考え方をしていたんですね。
そういうモノの考え方を、いつの頃からからか覚えていませんが、ずーっとしていましてね。
で、そういう有り様で、自己観察(心を感じる、向き合う、本心本音を洞察する)ということをしていました。
で、こうした中、見性体験が起きたんですが、どうやら子どもの頃からグノーシス的なところがあったことがわかります。
で、これが見性体験を引き起こす下地になっていて、見性体験が起きた後には、「思考」そのものにさらなる変化が起きています。
グノーシスが深まると思考の仕方が変わる
一般的に「考える」となると、どこか混乱した中、なんとか考えをまとめようといった脳内活動になるかもしれません。少なくとも、21才以前の私は、そうでした。
言葉で表現したり、文字で表現する際も、どの言葉を使おうか、選ぼうかと考えながら行うことが多いかもしれません。
ところが最初に直感的なヒラメキのように答えがパっと出て、その直感的な答えに対して、適切なのかどうかをチェックしながら考える、表現するという仕方が出てきましたね。
思考、観念というのが、一つの道具として、ツールとして扱う感覚です。そういうのが21才のときに開けたというのがあります。
グノーシスと見性体験
で、この変化変容は、自分を見つめる、自分を観察するということを延々と続けていく中で起き得ることだったりします。
で、これこそがキリスト教神秘主義でいわれている「暗夜」というプロセスだったりします。つまり瞑想的なことですね。
で、キリスト教神秘主義は、実のところ、グノーシス主義的なことを含んでいる一派だったりするわけです。
なんのことだか意味不明に思われるかもしれませんが、心というのを深く深く見つめていきますと、その先に生命本来の息吹があって、そこにタッチすると、人は大きく開眼する、生まれ変わるようになります。
これが瞑想であり、本当の祈り・善行になってまいります。心を見つめるというのがあってこそ、人は変容していきます。
グノーシスとはヨーガ
エレーヌ・ペイゲルスの書を読んでいて、非常に感銘を受け、感慨深くなったものです。
グノーシス主義は、ザックリいえばインドの「ヨーガ」です。
解脱を抜いた仏教(つまり戒律と瞑想)です。
エレーヌ・ペイゲルスの書を読んで、多くの知見が得られ、洞察がまた深くなりました。
エレーヌ・ペイゲルスって、もしかして一瞥体験をして神意識を感じているのでは?そんなことを感じさせるくらい、ツボっています。的確ですね。