アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメを“書く” ーグーテンベルクの比較的小さな銀河系の中でー

近所の町の本屋がおしゃれスーパーになっていた。また一つ,町から活字文化が姿を消した。

…というのはやや感情的に過ぎるノスタルジーかもしれない。以前と比べれば電子書籍の比率は(当初の予想より限定的とは言え)増しているだろうし,そもそもニッチ分野の書籍ならネットで買う方がはるかに便利だ。一般的な町の書店が減少し,店主の趣味を全面に押し出した超個性的な書店だけが生き残る,というのは必然的な流れなのだろう。そう言えば,かの槙島聖護だって「紙の本を買いなよ」とは言ったが,「町の本屋で買え」とは言わなかったのだ(もっとも,読書の感覚体験を重視する彼は,そのように主張してしかるべきなのだが)。

とは言え,現代文化から文字のプレゼンスが相対的に低下しているかのように感じることは確かだ。読むよりも見る,書くよりも撮る。そしてブログよりも動画。かく言う僕も,YouTubeでアニメのレビューをしようかと考えたことがある。だが5秒考えてやめることにした。性に合わないというのもあるが,やはり〈書き言葉〉という媒体にこだわりたいというのが一番大きな理由だ。

ひょっとしたらYouTube等を使って,身振り手振りを交えた話し言葉で語った方が,アニメのような映像文化を伝えるのに適しているのかもしれない。そしてその方が,現代のネット世界ではアピール度が高いのかもしれない。アニメという媒体の性質上,“読者”よりも“視聴者”の獲得に注力すべきなのかもしれない。でも僕は,あえて〈書き言葉〉で伝えることを選択した。

実は,僕は当初ブログの文体を敬体(です・ます調)で書いていたのだが,後に常体(だ・である調)に変えたという経緯がある。おそらくマジョリティであろう敬体のブログから一線を画したいという気持ちと,このブログにあえて〈書き言葉〉性を付与するという意図があってのことだ。

アニメレビューでは必要に応じて主要なカットの画像を補助的に引用しているものの,書き言葉,特に常体の書き言葉でアニメを語る際には,いろいろな制約が生じる。画像の特定の部分を指で差し示したり,声のトーンで感動を伝えたりすることができない。場合によっては「マジやばいっす」の一言が最適解であるような場合にも,常体の書き言葉ではその都度それなりに適切な表現に置き換えなければならない。

しかし制約があるからこそ,あるカット,あるシーンの面白さや魅力を伝えるべく,語彙や表現を試行錯誤する。同じカットを何度も何度も観直しながら,何度も何度も思考をめぐらす。自然,1つのカットやシーンについての“分析解像度”も増していく。観ながら書き,書きながら観て,推敲してはまた観直す。先日書いた『ぼっち・ざ・ろっく!』の記事では,第1話から第3話までを5回は観直しただろうか。部分的には10回以上観返したカットもある。そのようにして出来上がった言葉が,ジェスチャーや声のトーンよりも的確に伝えられる何かがあると僕は確信している。書き言葉固有の説得力があると確信している。その“何か”や“説得力”の実体については,ひとまず当ブログの読者の皆さんに判断を委ねておこう。

このブログではしばしば主張していることだが,古いメディアよりも新しいメディアが優れている,あるいはその逆である,という考え方は,それ自体が“古い”。古いメディアと新しいメディアが共存できる状況が“新しい”のだ。だから現代の音楽視聴シーンでは,ストリーミングとCDとカセットとレコードが共存している。アニメを語る言葉も同じだ。「ブログはもう古い。これからは…」と言われるようになって久しいが,ブログが映像発信に完全にとって代わられるといった思考は,かつてのCD全盛時代の「レコードは終わった」的思考と同じくらい安直だ。ブログの相対的な存在感が縮小したことは確かだが,その存在意義が減退したわけではない。いやむしろ,映像文化時代だからこそ,〈書き言葉〉媒体としてのブログのユニークな意義はクロースアップされてしかるべきなのだ

だから僕は今後も〈常体の書き言葉〉でアニメを語る。

思えば,アニメを“語る”という言い方はするのに,アニメを“書く”という言い方はしない。だからこそ,ここではあえて言おう。このブログはアニメを“書く”ブログであると。