針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

孔明の最後 (4)

2020-08-29 10:14:26 | 漢詩・古典・エトセトラ

 建興12年春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田・開墾を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。

しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。

 孔明は魏軍は遠路行軍しており、必ずや食料不足になると考え、必ずや蜀の食糧庫を狙ってくると考え、食糧庫の谷に硝煙・火薬を山のように埋伏させておきます。司馬懿仲達ははたして此処を攻略して、食糧確保出来たと安堵しますが、守備兵のいないのに罠と悟り脱出を図りますが、既に時遅し、入り口は火の山。山の上からは硝煙・火薬が雨あられと降り注ぎます。流石に仲達も覚悟をきめますが、天は無情にも雨を降れせて鎮火してしまいます。これを葫蘆谷の戦いと言います。

           

諸葛亮は病に倒れ、秋8月(8月23日)、陣中に没した。享年54。諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、孔明は死にあたって自分の亡骸を椅子に座らせて仲達が来たら見せるようにします。孔明既に亡き者と確信した司馬懿は追撃を仕掛けたが蜀軍が反攻の構えを見せ、孔明が現れると慌てて撤退した。この事から当地の民衆は死せる孔明、生ける仲達を走らすと言い合った。

           
                     五丈原

この時の模様を土井晩翠氏が詠っています。かなり長い歌なので一番だけで以降は割愛させて頂きます。針外し「秋風、星落つ五丈原」と間違えて覚えてましたよ。とほほ。
星落秋風五丈原    土井晩翠
      一
  祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて        清渭(せいい)の流れ 水やせて
  陣雲暗し 五丈原(ごじょうげん)、       むせぶ非情の 秋の聲(こえ)、
  零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして    夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて 
  草枯れ馬は 肥ゆれども            暗(やみ)に迷ふか かりがねは
  蜀軍の旗 光無く               令風霜の 威もすごく
  鼓角(こかく)の音も 今しづか。        守る諸營(とりで)の 垣の外。

  丞相(じょうしょう)病 あつかりき。      丞相病あつかりき。

 
  帳中(ちょうちゅう)眠(ねむり) かすかにて  風塵遠し 三尺の
  短檠(たんけい)光 薄ければ         劍(つるぎ)は光 曇らねど
  こゝにも見ゆる 秋の色、          秋に傷めば 松柏(しょうはく)の
  銀甲(ぎんこう)堅く よろへども       色もおのづと うつろふを、
  見よや待衞(じえい)の 面(おも)かげに    漢騎十萬 今さらに
  無限の愁(うれい) 溢(あふ)るゝを。     見るや故郷の 夢いかに。

  丞相病 あつかりき。           丞相病 あつかりき。

  夢寐(むび)に忘れぬ 君王(くんのう)の   四海の波瀾 收まらで
  いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて      民は苦み 天は泣き
  心を焦(こ)がし 身をつくす        いつかは見なん 太平の
  暴露のつとめ 幾とせか、        心のどけき 春の夢、
  今落葉(らくよう)の 雨の音        群雄立ちて ことごとく
  大樹(たいき)ひとたび 倒れなば      中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも
  漢室の運 はたいかに。         たれか王者の 師を學ぶ。

  丞相病 あつかりき。                                     丞相病 あつかりき。

  末は黄河の 水濁る
  三代の源(げん) 遠くして
  伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ、
  道は衰へ 文(ふみ)弊れ
  管仲(かんちゅう)去りて 九百年
  樂毅(がっき)滅びて 四百年
  誰か王者の 治(ち)を思ふ。

  丞相病 あつかりき。

 諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。よく王侯が死ぬと殉死するのが常であったが孔明はその代りに皮で土を包みそれを埋葬させたとあり、これが饅頭の始まりとされています。

『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であったとあります。

  

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