面白く、そして下らない

私は批判をして何かを為した気になっている大衆の一人に過ぎないが、何か少しでも波紋を起こす小石になれればと書いている。

皇位継承を安定的なものにするには旧宮家復帰しかない

2020-04-15 23:20:15 | 皇室
~~引用ここから~~

<独自>皇位継承で「旧宮家復帰」聴取 政府が有識者ヒアリングで 論点整理への明記が焦点に

政府が安定的な皇位継承策の検討に向けて実施している有識者への意見聴取で、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の復帰に関する考えを尋ねていることが15日...

産経ニュース

 


 政府が安定的な皇位継承策の検討に向けて実施している有識者への意見聴取で、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の復帰に関する考えを尋ねていることが15日、分かった。安倍晋三首相は皇位の男系継承維持の重要性を主張しており、政府が今後まとめる予定の論点整理に皇位継承策の一つとして旧宮家の復帰が初めて明記されるかが焦点となる。

 関係者によると、意見聴取は内閣官房の職員が個別に複数の有識者を訪ねて実施。皇位継承者が(1)秋篠宮さま(2)悠仁さま(3)常陸宮さまの計3人と戦後最少である現状を踏まえ、現行の皇位継承資格や婚姻に伴う皇籍離脱制度に関し維持・見直しなどの意見を尋ねた。

 旧宮家の復帰については▽旧宮家の未婚の男子が内親王と結婚▽現存する宮家に養子に入る▽皇籍取得-などの考えを聴いたという。伏見宮家など11宮家の51方は昭和22年10月に皇籍を離脱している。

 旧宮家の皇籍復帰は、小泉純一郎政権だった平成17年の「皇室典範に関する有識者会議」で保守派が主張したが、皇籍離脱から長い時間が経過し、旧宮家と現在の皇室との共通の祖先が600年以上前にさかのぼることなどを理由に具体策として明記されなかった。

 菅義偉官房長官は2月10日の記者会見で、皇位継承策に関し既に有識者への意見聴取に着手したと述べていた。政府は、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣(こうし)」となられたことを示す「立皇嗣の礼」の後に議論を本格化させる方針だ。
~~引用ここまで~~


産経新聞の勇み足かもしれない。産経新聞は以前から旧宮家の皇室への復帰を主張していた。それは正しいのだが、願望は往々にして目を曇らせる。

それに産経新聞の記事にしてもあくまで聴取しただけのことだ。論点整理に明記されるかはわからない。

しかし皇位継承を安定的なものにするには旧宮家の方々に復帰していただくより他にない。

>皇籍離脱から長い時間が経過し、旧宮家と現在の皇室との共通の祖先が600年以上前にさかのぼることなどを理由に具体策として明記されなかった。

とあるが、旧宮家が今上陛下と血の繋がりが薄くても、旧宮家には皇位を継承する資格がある。それが伝統というものだ。これは戦前は問題視されることがなかった。

明治天皇には御子がたくさんおられたので傍系の旧宮家の方々が継承する可能性はあまり考えられなかったことと、旧宮家の男系男子皇族は明治天皇の皇女と結婚し、女系ながら血の繋がりを濃くしたことがあるのかもしれない。

そして旧宮家の男系男子の方々が皇室に復帰されてもその方々が皇位を継承する可能性はまずない。悠仁親王殿下がおられるからだ。悠仁親王殿下より歳上の旧宮家の男系男子の方々が皇位を継承する可能性はまずあり得まい。事故や病気の可能性はあるにしろ。

旧宮家の男系男子の方々が皇室に復帰されてゆっくりと皇室に慣れていけば良いのだ。時間はある。そして皇室に復帰された旧宮家の男系男子の方々の子や孫が皇位を継承することがあるかもしれない。それは問題ない。「生まれながらの皇族」だからである。

皇位継承には旧宮家の復帰を - 面白く、そして下らない

しかし気になる話をネットで見た。悠仁親王殿下の歴史のご進講をあの「半藤一利」がしたというのだ。

~~引用ここから~~

悠仁さまが秋篠宮家の「家庭教師」半藤一利に問うた難しい質問 | FRIDAYデジタル

『日本のいちばん長い日』の著者であり、昭和史研究家でもある作家・半藤一利(はんどうかずとし)氏。秋篠宮悠仁親王の"家庭教師&quo...

FRIDAYデジタル

 


「昨年、当時の天皇陛下の侍従から、『秋篠宮悠仁(ひさひと)殿下に、太平洋戦争はなぜ起こったのかを、わかりやすく話してください』という依頼があった。ですが、私は最初断ったんです。だって相手は小学校6年生の坊やですよ。そんな幼い子に単純明快に話せるようなことじゃない、無理です、と。だけど何度もお願いされて、じゃあさわりだけでも話しましょう、と出かけていったのが、8月15日でした」

秋篠宮悠仁親王は、まさに次代の天皇家を背負って立つ。その進講役として白羽の矢が立ったのが、昭和史研究家でもある作家・半藤一利氏(89)だ。秋篠宮家の”家庭教師”になったのが「終戦記念日」だったのは、偶然ではないのだろう。平成から令和へと新時代を迎えた今、半藤氏がその日のことを本誌に明かした。

「最初に秋篠宮父子にお会いしたときに言ったんです。私は東京下町生まれなものですから、”ひ”と”し”が上手く発音できません。だから悠仁っていう御名前はすごく言いづらい。『しさしと』になっちゃうんで、今日は殿下、と呼ばせていただきます、ってね。

持ち時間は2時間半だったんだけど、太平洋戦争についてさわりの部分で1時間話しました。

私が話したことのひとつは、私たちの国は、”内陸に乏しい”ということです。北の北海道から南の沖縄まで、長〜い海岸線を持っていて、海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。

そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。

要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。

こう話したら、同席していた父の秋篠宮が、幼い殿下に『地政学』とはこう書くんだよ、と紙に書いて教えてあげていましたね」

休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。

「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。細かいことは忘れてしまいましたが。

あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています」

父・秋篠宮からも質問が

悠仁さまへの説明を終えた時、今度は父の秋篠宮が「私からも、質問をいいでしょうか?」と切り出した。

「彼は私の著書を読んでいて、統帥権(とうすいけん)について、もう少し詳しく教えてください、と言われたんです。

統帥権は非常に難しい概念です。日本国憲法施行までの大日本帝国憲法は、明治22年に公布されています。ですが、『軍人勅諭』の原形ができるのは明治11年。憲法より11年も前なんです。そこには大日本帝国陸海軍は大元帥である天皇直属の軍隊である、とあり、大元帥(=天皇)の指揮権を統帥権と言ったのです。

つまり、軍隊は後から成立した憲法の埒(らち)外にあると、少なくとも一部の軍人どもは考えた。明治から戦前の時代は、一人の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があり、これが日本という国を非常に難しくしていたんです。

統帥権にまつわるややこしい話、当時のさまざまな事例を理解してもらうため、結局、後半の1時間半は、私と父宮との会話になりました。

それでも殿下は、居眠りもせずじっと傍らで聞いていましたよ」

このように秋篠宮父子が近現代史の教師役として半藤氏を招いた背景には、半藤氏が戦争体験者として過酷な少年時代を過ごしたことも影響しているだろう。

半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。

昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。

「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」

半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。

「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。

防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。

そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。

だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。

話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。

旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。それで言い返すようになった。

『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。

戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。

私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。

あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」

半藤氏は自戒をこめて、こう語る。

国際連盟を脱退して以来、日本には外交なんて一度もない

戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。

「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。

昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。

北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。

『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。

榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。榎本が行ったことこそが外交というものです」

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。

「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。

『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? ①アメリカ ②ドイツ ③旧ソ連 ④オーストラリア』

そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。しかもその一人が手を挙げてこう言った。

『で、どっちが勝ったんですか?』

こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」
~~引用ここまで~~


「半藤一利」は知性がないわけではないが、その思想が問題だ。「戦勝国史観」にどっぷり浸かっている。当時の日本、大日本帝国が置かれた立場を考慮することがない。その半藤一利に次代を担う悠仁親王殿下の歴史教育をさせて良いものか。悠仁親王殿下は当時小学6年生であったようだ。

このフライデーの記事を読んだだけでも危うさが伝わってくる。子供の頃の教育というものは良くも悪くもその人を形作る。その人格形成に「半藤一利」を持ち出して良いものか。

天皇陛下の侍従が依頼したらしいが、宮内庁はどうなっているのか。大丈夫なのか。天皇陛下の皇室の「藩屏」となり得ないのではないか。汚染されていないか。

米国が広島と長崎に原爆を投下したのは戦争の早期終結のためではない。戦後を睨んでソ連を牽制するためであり、開発した原爆の威力を確かめるためであり、トルーマンが大統領に再選するためだった。トルーマンは副大統領からの昇格なので目に見える実績が必要だったのだ。

それにもかかわらず日本が悪いとは「半藤一利」思想の偏りは戦勝国の歴史観そのものだ。

>あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています

と明言しているのだから。

宮内庁の職員も皇室に忠誠篤い者達で固めるために何らかの変更が必要ではないか。

畏れ多いことではあるが、上皇陛下の歴史認識もあまり日本と日本人にとって良いものではないからだ。

上皇陛下の歴史認識 - 面白く、そして下らない

話が逸れてしまったが、旧宮家の皇室への復帰は期待したい。

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2 コメント

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Unknown (通りすがり)
2020-07-09 12:15:17
旧宮家復帰の事を検索してここに辿り着きました。

旧宮家復帰派の方は、大抵は「旧宮家の方々は、敗戦さえなければ今でも皇族でいられたんだ!アメリカが悪いんだ!」と喚きますが、大正時代に天皇から男系で血縁の遠い傍系宮家は段階的に臣籍降下させる事を大正天皇が裁可した事は絶対に触れないですよね。

それといくら「アメリカが悪いんだ!」と喚いても、無条件降伏をしてしまって渋々ながらも旧宮家の方は平民になったのに、今になって「アメリカが悪いんだもん!」てごねるのは、日韓基本条約で戦後賠償は手打ちにしたのに、今になって「あんな約束なんてどうでもいいんだもん!慰安婦が!徴用工が!賠償をしろ!」と日本に金をたかる半島の南の国の言い分と似てて日本人としてみっともなく見えますが。
もし、旧宮家復帰派の方が「アメリカが悪い!だから、敗戦直後の旧宮家の方の臣籍降下なんか無効なんだ!」とゴリ押しするんでしたら、サンフランシスコ講和条約を破棄して再びアメリカと敵対するのが筋だと思うのですが、旧宮家復帰派の方はアメリカと敵対する覚悟はあるんですかね?
もし、旧宮家復帰派の方が「サンフランシスコ講和条約の破棄なんかできない!でも、敗戦直後の臣籍降下なんか無効なんだもん!」て言うんでしたから、かなりみっともないですね。

それと旧宮家復帰派の方は昔の皇族復帰の例にすがってよく例えに出してきますが、何十年も前に臣籍降下した元皇族の孫やひ孫の皇籍取得の例なんかないと思うのですが?

それと私の経験上ネット上(5ちゃんねるの皇室・王侯貴族板)に、男系での皇統維持をするんだったら悠仁親王に妃をあてがって、民間でも行われている確率の高い男女生み分けで皇子をもうけてもらった方が法改正なしで一番確実だと思うと書くと、旧宮家復帰派の方は発狂するか目を背けるかだったのですが、男系での皇統維持を主張する旧宮家復帰派の方は悠仁親王に皇子をもうけられると都合が悪いんですかね?
通りすがりさんへ (ぬくぬく)
2020-07-09 14:10:45
はじめまして、通りすがりさん。コメントありがとうございます。

皇族が多くなれば現在の天皇陛下と血が離れている皇族から臣籍降下させられるのは別に騒ぐことではないでしょう。古代から行われた来たことを前例に倣って行ったに過ぎないのですから。

あまり意味はありませんが、日本は「無条件降伏」はしておりません。ポツダム宣言の内容を受け入れる「条件付き降伏」です。GHQを掣肘することができる存在はありませんでしたので、GHQはやりたい放題でしたが。

何よりサンフランシスコ講和条約に旧宮家の方々の皇室への復帰を禁じる条文はありません。旧宮家の方々を皇室に復帰させても米国に喧嘩を売ることにはなりませんし、サンフランシスコ講和条約に違反もしません。
韓国の日韓基本条約違犯とは根本から違います。

臣籍降下された旧宮家の方々の孫や曾孫の世代の復帰は前例がないかもしれませんが、男系男子の皇族の減少も前例のないことです。少し前例にないことも仕方ないでしょう。

悠仁親王殿下が御成婚され、男系男子がたくさん生まれるならそれが最善で最良です。血が近い方が良いですからね。しかし世の中に絶対はありません。産み分けをしようとも悠仁親王殿下に男の子が生まれないこともありうるでしょう。日本人がもっとも苦手とする「危機管理上」旧宮家の方々を皇室へ復帰させて「血のスペア」を多く揃えて置くべきなのです。

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