石ころ

イエスに愛された私

 

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピりピ2:6~7)

 

疲れを覚えるとき思い出すのは、イエスさまが、嵐の舟で熟睡してしまうほどに疲れておられたこと。世では「枕するところもない」(マタイ8:20)方であったこと。それは完全に人となって、私のすべての弱さをも知っていてくださるということ。

 

自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピりピ2:8)

 

神が、人に面倒をみてもらわないと生きられない赤子として世に現れ、十字架で殺されるという弱さにまで味わってくださった。いのちの造り主なのに。

 

嘲笑する人々に十字架を降りて復讐することをなさらず、彼らのために祈り、人の救いを完成してくださった。
私は、聖霊に拠って御救いに与った日に、それらすべてのことをとても個人的に「私はイエス・キリストに愛された」ことだと知った。
だから、何時もヨハネのように自分に向かって言っている「イエスに愛された私」と・・

 

神が愛されない人はひとりもいない。すべての人を愛して、御子キリストの命をたまわったのだ。ただ、そのことを信じて神の愛を受け入れない人には、キリストの十字架が救いの実を結ぶことは無く、神の悲しみが残る。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 

「イエスの愛」を知ることは神の喜びとなる。信仰による救いはとても個人的であり、国家に依らず、組織でもなく、家系でもない。
神は一人ひとりの名前を呼んで救ってくださる。「我々」でもなく「私たち」でもなく「私の神」であり、「私にたまわった愛」なのである。一人ひとりを百パーセント愛する神の愛である。

 

そのイエスの愛は、老いることも経験してくださった。わずか3年の間に10年も20年も・・。30代のイエスさまが、
「あなたはまだ五十歳になっていないのに、・・」(ヨハネ5:57)このように見られていたのだ。肉体的な苦難と、誰一人理解する者の無い世で、完全な人の心をお持ちの精神の疲弊は、どれほどのものであったろう・・。

 

このイエスのゆえに私たちは、病むことも、気落ちすることにも、死の苦痛にも慰めがある。主が知っていて下さるゆえに、すべての助けを備えていてくださるという平安である。

そう、人の誰もが通る死も、イエスさまは最悪の苦痛を通ってくださった。
精神的には、愛する人間からの拒絶の蔑みと罵りであり、最後には御父から捨てられる究極の孤独であった。肉体的には、十字架の言うも恐ろしいほどの苦痛であった。

 

だから愛の主は、私たちの死の恐れを知っていてくださり、その時を共にいて力を与え慰めてくださる。それが人にはどのように見えようとも・・、
そう、ペテロのように逆さ十字架の殉教であろうとも、信じる者はその時キリストと共にいて、慕わしいみことばを近しく聴いているのだ。

 

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピりピ2:9~11)

 

今は御前にひれ伏して、キリストにたまわった我が身の幸を捧げる時、賛美と感謝、平安の喜びを・・これ以上のものを持たないから。
日々のすべての問題を退けて、思い煩いを忘れ、キリストの御救いに感動しつつ、いのちをたまわった父なる神をほめたたえており、いつも何時も霊に在っては礼拝しているのだ。


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