デ某さん コメントありがとうございます。
お話したいことが止まらなくて・・、長くなってしまったのでこちらに書かせていただきます。
「遠藤周作の深い河を辿る」を教えて下さって感謝しています。とても考えさせられました。楽しむとは言ったのですが、楽しいだけではありませんでしたが必要なことを知ることができました。
「信仰とは知ることではなく生きること」まったくその通りです。オニオンスープの美味さは信じて口に入れないと、その美味さをどんなに論じてもわかりません。栄養にもならないし命も与えませんね。
残念なのは、遠藤周作さんのフランス留学での寄宿舎が、キリスト教に根ざしたものであったとしたら、そのような差別的な言葉が在る学び舎は、聖書も神のことばも知らない人の場所だと思います。それはその人の罪が言わせた言葉であって、神の教えとは真逆です。
修道院も、キリストの花嫁として(キリスト者は皆キリストの花嫁です)みことばへの純潔を保つために集まっている組織だと思いますが、(乏しい知識です)キリストは世の罪の中に来て、罪びとの医者となってくださったと書いてあります。
もし、罪の無い場所を掲げるなら、キリストとは無関係な場所です。また、世と同じ罪があるというなら、その施設は無意味だと思います。
差別的な言葉を聞いてもそれは人の言葉であり、神のことばではないのですから、その言葉によって何かを決めることは違うと思います。そんなことをしたら、愚かなことばに拠って導かれることになります。クリスチャンなら、すべてを神のことばに基礎を置きます。
国籍による差別は何処にでもあります。日本にも様々な差別があります。人はアダムに罪が入って以来、善悪、優劣などなど・・常に比較して生きるようになり、他を見下すことで安易な平安を得るからです。
それゆえ、罪の無いキリストが人の罪の中に来てくださり、すべての国の救のために、すべての罪を負って死刑となってくださいました、これ以上に重い罰はないので完璧なあがないです。
それによって、キリストを信じる者の過去、現在、未来の罪を神は完全に赦されました。天国に迎え入れられ神の子とされる救いです。それは、死んでからのことではなく、神は約束を変えることが出来ないお方なので、キリストの十字架のあがないを信じた時から神の子なのです。
それは、人が何も付け加えられない聖なる完成です。でも、人は自分のプライドによってあらゆるもの、善行や学問や思想などなど・・を付け加えようとします。
それは人の目に良いことと見えても罪です。キリストの聖なる御救いに付け足すものは、十字架を汚すものです。信じた者は、だた、感謝をして完成された救いを喜ぶだけです。救いがあまりに嬉しいのでみんなに教えてあげるのです。
日本人のためのキリスト教なんてありません。神は唯一、救いも一つです。慣れ親しんだ石地蔵を作って親しませようとすることは、キリストの救いに対する蛇足であり、それは別物の宗教です。第一、神の十戒に対する反逆です。これは聖書の基本的な教えです。
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。出エジプト20章4節
私はキリシタン迫害の地にある石仏に、小さく秘められた十字架の形には、神の憐みと慈しみがあると思っています。それは命懸けで印された、信仰の証による十字架だと思うからです。
それは日本人の情緒にすり寄って造られた石仏とは、真逆だと思います。
私はキリストの奴隷です。罪ゆえに永遠の炎に焼かれ続ける私に、キリストが来てくださって、私を天に上げて身代わりに死んでくださいました。私はキリストの命によって買い取れた奴隷です。
神の命で買い取られた奴隷は、神のみことばを一点一画たりとも、意図的に自分の都合や、考えによって変えたりはしません。
罪が赦されたことで、それまで見たことも聞いたこともない平安を知りました。神の御前で責められることなく、安息している生き方です。キリストが信じる者にくださった救いは此処にありました。
御救いを受けた者には安らぎがあるのですが、戦いがあるとすれば、それはキリストの御わざを否定したり、反抗したり、捻じ曲げる教えとの苦闘です。
キリストは愛ゆえに、憎むという武器も、陥れるという計略も、諦めという方法もありません。キリストからあふれ出て来るのは、死ぬほどの人への愛と、忍耐と、赦しによる救いの熱心です。このキリストの経験を、この、オニオンスープの美味しさを伝えたいのです。
なんだか長々と書いてしまいました。どうぞ、これに懲りずにこれからもよろしくお願いいたします。
短歌などのお励ましを頂いて、私の味気ないブログにもお交わりの楽しみをくださり感謝しています。また、書きますのでどうぞよろしくお願いしたします。