石ころ

十戒⑤ (出エジプト20章)

 

殺してはならない。(13)

 

命令の対象は、虫や動物に対してではなく人間に対してである。人は神が愛の対象として造られたものであり、それゆえ殺してはならないのである。それが創造主の命令であるから殺してはならないのだ。

 

真の神に服従しない所では、なぜ人を殺してはならないのか分からないだろう。世の法には例外が多くあり、国を守るためなら勧められることであり、犯罪の抑止力としてなら許され、自分の家族を守るためなら・・。
例外が時に応じて国に応じて存在し「殺してはならない」は絶対ではないのである。

 

聖書にも人を殺す箇所は沢山出て来る。それが神から出たことなら正義である。人は神に創造されたものゆえに、罪に汚れて回復不可能とされた作品を造り変えるのは、作者が責任を持ってのことである。

 

人は神に従順する時にこそ完全な正義にある。創造主の生殺与奪の権威に対して異議を申し立てることは罪である。それは被造物が創造主の権威を否定することであり、神を神としないことこそ最も重い罪である。
このような反抗は善悪知識の木の実を食べたことから始まって、人が自己の善悪によって神を裁くのである。

 

 しかし、神は人のいのちを惜しんで、ひとり子イエス・キリストを十字架にかけて、滅びに定められるべき人の命をあがない、信じる者に永遠のいのちを与えられた。それは、すべての権威を持つ神は殺す神ではなく、愛して永遠までも生かす神だからである。

 

「殺してはならない」との命令は、命を奪うことだけを指すのではなく、憎むことは心の中で殺すことと主は言われ、それは御救いを失うことである。

 

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。(1ヨハネ3:15)

 

この兄弟とは教会の霊の家族のことであり、その関係はキリストの愛によって結ばれ、御霊の一致による永遠の家族である。もし、そこに憎しみが入り込むなら、逃げ場のない永遠のゲヘナとなってしまうのだ。

 

ノアの時代には大洪水によって、地上にノアの家族8人だけが生かされ、神を信じる望みなき不毛のものは全滅した。


それは、御子を遣わして神を信じる者が生かされる後の世のためであった。神に造られたものは神の御用を成す為に存在するのであり、その目的を成さない者は滅びるのである。

 

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。(ローマ8:13)

 

反抗する肉的な思いの罪を治めて神に従順させるなら、永遠のいのちをたまわって生きる者となる。
神に従いたいと願う者には、助け主なる聖霊が来てくださり、お迎えした心のうちに聖い支配をもって、罪を治めることを助けてくださるのである。

 

被造物の生き死には創造主のうちにあり、造られた者の幸いは神を喜びほめたたえつつ、永久まで続く神の愛のうちに安らいで生きることにある。 これこそ、みこころに叶ったことなのである。


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