主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。(1)
主が、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出されるのは、主に仕えるためである。
キリスト者も主に使える者として世から救い出されたのであり、個々の目的を達成するためではない。万民祭司としての勤めを負っているのだ。
もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。(2)
なぜ、蛙なのだろう・・と、ちょっとユーモラスに感じたけれど、家中に蛙が満ちて食器の中まで入って来るのにはぞっとする。それは蛙に住まいを乗っ取られた状態であり、蛙好きでも限度を超えると恐怖となる。
何の危害も与えないと思ったいたものであっても、神のみこころ一つで、人の生きる場所を奪う凶器となるのだ。
アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。
呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。(6~7)
此処で笑ってしまった。呪法師は神の真似をすることしか出来ず、彼らのわざはエジプトに神の罰を二倍にしたのだ。神の偽物を恐れる必要が無いと良くわかる。神の知恵は彼らをも用いる。
ついにファラオは出て行くことを承諾したが、その心は絶えず揺れ動いて定まらない。
ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。(10)
災いの中に在る時は心の中で理屈を言うのを止めて、主を恐れて御前にひれ伏し、赦しを求めて祈る時である。そうするならすべてが益となり、神を悟って永遠のいのちの祝福を受ける時となる。
主は、モーセのとりなしの祈りによって蛙をすべて死なせた。
人々はそれらを山のように積み上げたので、地は悪臭で満ちた。
ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。(14~15)
人は喉元過ぎれば熱さを忘れて本来の性質が現れ、信頼がなければ神の憐みを軽んじる。神はファラオのやりたいことを用いて、神の民にご自身を現わし、御力を記憶に刻み込んでくださる。
ファラオやエジプトにも、逆の立場で真の神を記憶させる時となる。
主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」
呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。
呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。(16~19)
呪法師はあくまでも神の許しの範囲でしか動けない。彼らはついに神を悟って証しをした。
神はアブの群れをエジプトに送ったが、神の民が住む地を区別してアブから守り、アブが神から出たことであると証された。
わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。
わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」(22~23)
今も神はキリストに信頼する者を特別に扱ってくださる。彼らは死んでも滅びることのない永遠のいのちを持つ神の子である。
また、世に在る間も些細な祈りも聞いていてくださり、声にはならない思いさえも顧みてくださることを、時に叶った助けによって経験するのである。
ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」(25)
神の御力を経験したモーセは、ファラオの提案をはっきりと否定した。口が上手くなったのではなく神に信頼する者に成長していたのだ。
私たちは、主が私たちに言われたとおり、荒野へ三日の道のりを行って、私たちの神、主にいけにえを献げなければなりません。」
ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」(27~28)
ファラオの口から初めて「祈ってくれ」という言葉が出たのだ。神がファラオを頑なにされる中で、彼のうちにも変化が生まれつつあった。
神は忍耐強い愛をもって導いてくださる。その忍耐の中で神を愛することを学ぶならその人は神の喜びとなるのだ。
しかしファラオは条件を付け、なを神の民を支配しようとしており、願い通りにアブが死んだ時彼はまたも心を硬くした。「祈ってくれ」と言ってはいても、心の王座に神を迎えることが無かったからである。