●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
三月十日
其の内また一躍進 丁度郵便局の通りと大和通りの十字路の最後の射撃に耳を破れば、歩兵突撃部隊は予備の小学生軍と共に猛然と敵に対し突撃を始める。その突撃援助の為に我重機は勿論、軽機も歩兵砲も和して天地を貫く射撃に幕を閉じる 本当にえらかった 衆人環視の中にある身故 辛抱はすれど汗びっしょりの体、高まる胸、久しぶりの演習故 中々骨が折れることおびただしい。
Ⅱ 広島再訪
日盛りの前庭で、自分自身の衰弱を賭けて、健康な人々へ挨拶をした、あの小柄なファナティクな宮本定男氏には、眼の前に迫っている死への恐怖と、ついに原爆病院のベッドに横たわることで終えるしかなかった生の無意味さへの疑惑を、解消し意味づける試みとして、唯一つの核兵器廃止運への、ごくわずかな言葉による参加と言う事があったのだろう。しかし、実際に彼故人の死が彼を訪れた時、この世界に核兵器のもたらしている暗闇は、相変わらず暗暗としたままだった。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
帰国後
1年ほどたって、私は兵隊検査を受けて甲種合格になりました。私を合格させたのは、当時の連隊区司令官村上与市、最後の帝都防衛司令官をやった人です。連隊区司令部の下に徴募官というのがいて、その人に「どこにいて何をしていたのかしゃべらんのか!」と往復ビンタをされましたが、村上司令官が「何もしゃべらなくていい。今度は海軍へ行け」と言ってくれました。
●『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
四 細菌兵器製造の為の大がかりな鼠類収集
榊原秀夫供述書(1955年5月17日)
問:部下をどのように指揮して大量の鼠捕獲とノミの繁殖を行い、731部隊に細菌兵器大量生産の原料を供給するという任務を果たしたのか。
答:・・・・1945年6月、731部隊の電報命令により、私は七夕軍曹以下7名を731部隊に派遣し、ノミ飼育の方法について学ばせた。彼らはノミ1㎏を持ち帰り、林口支隊の35㎡の地下室で、細矢少佐が七夕軍曹以下7名にノミ培養、繁殖の仕事を具体的に指導した。このほか、私が就任した際、同隊には白鼠1000匹、モルモット50匹、兎10匹、馬2頭がいるだけだったが、1945年7月までに、白鼠6000匹、モルモット100匹、兎25匹、馬2頭の繁殖を指揮した。
(1)119-2,8、1、第4号
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章毒ガス兵器の製造と教育
4 毒ガス戦の訓練や教育はどのように行われたか
危険な「実物体験主義」教育
このように、「実物体験主義」という方針に基づいて行われた日本軍の毒ガス教育は非常に乱暴で、危険極まりないものであり、後遺症に苦しめられた兵士もいたことがわかる。ここにも、兵士の人格や人権をほとんど意識しなかった日本軍の体質の一端が現れていると言える。