●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
三月六日
一通りの申し送りの後 歩哨の暇には大きな声を噴出さずにはいられない有様だ。
午後零時十分中隊に帰る 班の作りが一変している 入営の為に宿営した大連の関東倉庫式のように寝台がない。支那人が表で一生懸命切っている 寝台の手すりを。
名残なく晴れた大空からは絶えず春の招きが 霞にかかった春の陽炎と共に刺し招いている。
何分外で仕事ができるようになったものだからね。点呼の掃除もするでなし 残飯を捨てるでなし静かな一日が終わった 今週は初めて勤務がないらしい うんと春休みして又経理検査の次は分遣へ
さよーならだ。
Ⅱ 広島再訪
しかし、この1年間に、原爆病院で47人の患者が死亡したのである。死亡した患者たちの統計を見れば、82歳の老婦人の肝臓がんによる死亡をはじめ、今や死者たちの年齢は67歳、64歳、55歳、と言うような老年のそれであり、彼らのほとんどの死因が癌だ。僕は去年の夏、原爆病院の一つの病室にベッドを並べていた3人の老人たちのことを思い出す。彼らは皆インディアンのように黒っぽく、カサカサ乾いた皮膚をしており、しかも消しゴムの屑みたいなものが、その皮膚一面にこびりついているのだった。彼らはもし全快したとしても、この原爆病院を出て、帰ってゆくべき場所を持たない、孤独な老人たちであった。そしてこの夏既に恐らく彼らの誰彼は、孤独な死者となってしまっている事だろう。
唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
人体標本
ヨーロッパでガラス細工の勉強をしてきた人が、ピペットやシャーレ、ホルマリン漬けの標本を入れるガラスケースのコルペン〔ガラス器具〕などを作っていました。私はこの人から、ガラス細工の小さな鳥の置物を作ってもらったことがあります。
●『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
四 細菌兵器製造の為の大がかりな鼠類収集
康徳12年龍江省畑栗鼠収集要領(1945年4月1日)
第1 方針
行政力により、本年度において軍重実験用に提供する畑栗鼠6万匹(使用目的:薬品製造原料)を確保する。
第2実施要領
4、興農合作社の買付価格は1匹1円とし、検収時に支払う。
ただし国民学校、省立中等学校、開拓団国民学校の納める畑栗鼠については、各学校に対して一括して代金を支払うか、その金額相当の学用品を支給する。
5、必要な容器及び検収後の飼料は部隊から支給する。
6、鉄道沿線から遠すぎる地区については、輸送が困難であるので、考慮するものとする。
7、捕獲成績の優秀な者については、省がこれを表彰する。
●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』 松野誠也著
第1章毒ガス兵器の製造と教育
4 毒ガス戦の訓練や教育はどのように行われたか
最初の犠牲者
当日は暑く、イペリットが蒸発して、一部は霧状になって風に流されるのが目撃されるという極めて危険な状況で演習が実施され(小柳津政雄「化学戦研究」)、演習終了後間もなく兵士たちにイペリット傷害が次々に発生し、痛みで歩けなくなったという。被毒したある演習小隊長は、陸軍病院へ搬送中に車が「揺れると10本ぐらいの針で目を刺されるような痛みが走」り、目が見えなくなって皮膚は黒く焼け爛れ、その後「目は開いたけれども、月を見ると3重、4重に見えるのですよ。それ以来乱視だよ」と後遺症について述べている(福田正記ほか「『化兵』を語る座談会ー知られざる戦記」第1回)。