細菌戦から核戦略へ!!

2024-04-08 11:15:43 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

731部隊展
 
 
 原爆    
ニュース257号

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)への登録に向けて、毎日新聞社、中国新聞社、朝日新聞社と広島市は15日、米国の原爆投下による広島の惨状を記録した写真計1532枚を共同申請したと発表した。日本国内での審査を経て、被爆80年となる2025年の登録実現を目指す。

 写真は「広島原爆記録写真―『きのこ雲』の下から」とのタイトルで申請された。原爆投下の1945年8月6日から同年12月末までに新聞・通信各社の記者や広島市民、調査団に同行したカメラマンら計27人と1機関が撮影した。原爆資料館の展示内容などを踏まえ、ネガかプリントが現存する写真を選定。・・・・

 

 
 
 
 
 

 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)

 

 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
 
 雑報10号(22巻、1938年)
人事異動報告 昭和13.10.4現在
発令月日   辞令            官職    氏名
9.15  依願伝染病研究所業務嘱託を解く         佐藤 金治
9.19  依願伝染病研究所業務委託を解く         小川 俊太郎
9.20  依願宣戦病研究所業務嘱託を解く         佐藤 三郎
10.1  研究生入学許可(第2研究部)         井上 幸助
〃   右同(第3研究室)              山田 實
〃   右同(付属医院)                羽田 一重
〃   陛叙高等官4等           技師   矢追 秀武
 
 
 
    
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変

 1931年9月18日夜、関東軍将校は、柳条湖付近(藩陽北部)にある南満州鉄道の線路を爆破し、これを張学良の兵士と武装した「匪賊」の暴挙であるとした。線路に損害はなかったが自作自演のこの事件を口実に、関東軍参謀板垣征四郎大佐は独立守備隊と歩兵第29連隊に、奉天〔現、藩陽〕城内に駐留する東北辺防軍の兵舎への攻撃を命じた。虚を衝かれた中国兵は逃亡し、あるいは降伏した。一時間後、旅順に駐在していた板垣の共謀者、石原莞爾中佐は本庄繁関東軍司令官に事件が中国軍の仕業であるとの虚偽の報告をした。本庄は直ちに攻撃命令を出したが、それはかなり以前から石原が周到に用意しておいたものだった。関東軍は24時間以内に租借地を越えて進駐し、満鉄沿いにある戦略拠点の支配権を掌握すると、南満州主要部への進駐に備えた。
 
 

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