以前、練馬にある東京カトリック神学院の「神学院祭」に行ったとき、神学生はどういう生活をしているか、どういう科目を学んでいるかなどが、パネルに展示されていました。
 

とても興味深いもので、神学生の1、2年次(全体で6年)は、聖書や典礼の基礎とともに、哲学を中心に学ぶと知りました。

知的な思索をするためには哲学は必要でしょうし、神学の前提として、とくに新約聖書成立期の思想や古代教父の考え方を知るためには、必須のものだとわかりました。
 

科目としては、哲学史(古代・中世・近代・現代)と体系的哲学(形而上学、認識論、自然神学、論理学、解釈学、人間論など)があるようです。

ある時、「カトリックは哲学の教えを教義に取り入れている」という聖書原理主義者の批判を目にしたことがありました。もちろんこれは事実誤認ですが、キリスト教と哲学の関係を、実際にそのものによって学んでいないと、このような表面的な判断になってしまうのでしょう。

自分も哲学を学ぼうとして関連する書籍を探したのですが、なかなかこれだという本には巡り合えませんでした。入門的な哲学史の本は、とくに「中世」が手短に扱われていて、中世哲学を「神学という間奏曲」だとしている本もあったほどです。現在もその傾向が強いのですが、自分の知りたい分野を含めた哲学史の全体像を知ることはなかなか大変なことでした。

コツコツと集めて読んでいると、珍しい本に出合いました。

一つは、『哲学とは何か──存在論の視点から』(後藤平著、講談社現代新書、1982年)です。
今では滅んでしまったかのような存在論の観点で書かれた本なので貴重ですが、再版されることはなさそうです。古い本なのでAmazonでも検索にかかりません。講談社現代新書が今の装丁になってからは刷られていないようです。著者の後藤平氏はカトリック信徒です(故人、静岡大学人文学部教授)。
 目次は以下の通りです。

  プロローグ 哲学への二つのアプローチ


 I イデアと存在について
  l ギリシア哲学と悲劇 
  2 「イデア」の本質 
 Ⅱ 神と時間について 
  1 キリスト教における罪と生 
  2 アウグステヌスの時間論 
  3 パスカルのなかのキリスト像
 Ⅲ 自我と自然認識について
  1 自我の自覚と文明の危機と
  2「我思う、ゆえに我あり」
  3 カントの超越論的自我をめぐって

  エピローグ いまこそ哲学的存在論を

 

後藤平先生は、『西洋哲学史 古代・中世編 クリスト教に焦点の一つを求めて』(創造社、1967年)という本も出されていますが(近世編も出ています)、こういった本は、時勢を考えると2度と出版されないでしょう。

カトリック神学院で使われていた哲学の教科書として、ヒルシュベルガーやコプルストンの哲学通史が理想社やエンデルレ書店から出ていましたが、皆絶版になってしまっています。残念です。

中世哲学と言えば、リーゼンフーバー師の一連の著作もありますが、内容的にも価格的にも一般向けとは言い難く、入手しやすいものでは、最近では稲垣良典氏の『神とは何か 哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書)があります。かなり濃い本です。彼の『現代カトリシズムの思想』(岩波新書、絶版)も名著と言われています。


『ソフィーの世界』で始まった哲学ブームはすでに去りました。カトリック信徒としては、福音の準備としてこういった思想的な本がもっと出版され、熱心に読まれるようになればいいなと思っています。