歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

2023-09-25 | どうする家康
徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。

山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実だとも主張しました。

司馬さんという人はイデオロギーが嫌いで、要するにバランスのいい人でした。司馬さんにとって山岡が描いた家康は「戦前の皇国史観の亡霊」のようなものでした。そこで司馬さんは山岡家康に対する批判として「司馬流家康像」を作りあげました。神君は人間となり、聖人はたぬき親父となりました。ただしそれが史実というわけでもなさそうです。
司馬さんには家康自身を主人公とした「覇王の家」という作品もあります。主人公なので「美化」するのですが、不思議な美化の仕方をします。それは「凡人のくせに自分を空、解脱した人間とみせかけることができる芸当を持っていた」というもの。ほめているのか、けなしているのか分かりません。

「どうする家康」はいうまでもなく「山岡荘八系」です。私は「徳川史観を打破するのか」「山岡史観を超えるのか」と期待していたのですが、結局は「山岡家康の現代バージョン」というべき作品です。一見すると「神の君」という言い方で、家康を馬鹿にしているようにも見えるのですが、最後は神の君となる。本質は「山岡家康と全く同じ」と言っていいでしょう。最初から聖人君子であるわけではない、というのが唯一の違いと思われます。

ただし、徳川家康を「いい人」にするには、いくつか乗り越えなくてはいけないハードルがあります。史実としての家康は正妻と嫡男を殺しています。これはかつて信長の命令とされてきましたが、今は嫡男とその家臣によるクーデーターに起因するという説も出ています。「妻殺し、子殺し」をいかにクリアして「いい人にみせかけるか」。これがまず第一番のハードルでしょう。

1,第一のハードル、築山殿殺し

山岡荘八の場合、築山殿を悪女とし、武田と通じさせ、浮気も行わせ「こういう悪い女だったから殺さざる得なかった。逃がさなかったのは信長の命令もあったからだ、嫡男は逃がそうとしたが、信康があえて死を選んだ」という「作戦」を取りました。

しかし「ど家」の場合、本当は離婚状態だった築山殿と「夫婦円満にしないといけないという現代のオキテ」があります。夫婦仲が悪く側室ばかり作ったのでは「現代のお茶の間的価値観」に合わないからです。「夫婦仲はよく、嫡男とも良好ないい家庭の主だったのに、家康がその二人を殺した」という「大きな矛盾」を乗り越えなくてはならないのです。そこで「あれこれ無理な嘘」を重ねることになります。
築山殿は聡明な女性で、浮気もせず、武田とも通じない。側室は築山殿が推薦(コントロール)する。武田と「通じたように見える」のは「築山殿には武田との共同による、関東独立連合平和国家という壮大なビジョンがあったからだ。そして家康は生涯を通じて愛する築山殿、瀬名のためにその平和ビジョンを実現していく」、、、このように山岡より「さらに、いりくんだ嘘」になったのは、築山殿を「悪女、浮気女」にできないという条件があったからです。しかしその結果。約半年をかけて「築山殿物語」を繰り広げるはめになりました。なお嫡男は山岡と同じで、自ら死を選びます。

2.第二のハードル・側室が多い

大河「葵徳川三代」では、60を超えて側室を何人も持ち「ウハウハ」の家康が描かれました。御三家の初代は3人とも関ヶ原後、アラ還暦にできた子ですから、実態はこれに近い。しかし今回はコンプライアンスの問題?なのか、不倫を極端に嫌う価値観の産物なのか、そういう家康はNGのようです。最初の側室のお万は家康を誘惑する妖女として描かれます。まだ二代目秀忠の母である西郷の方、於愛、広瀬アリスは、最初の夫に殉死しようとするような女性、古典的な良妻賢母、ただし近視でしばしば家康を他人と間違える愛すべき失敗をする女性として描かれます。於愛は家康を敬ってはいるが、慕ってはいないという設定です。「家康が生涯愛したのは瀬名だけ」という妙な「縛り」が、作品を変な感じで歪めています。今度も側室は幾人もできますが、おそらく登場すらしないでしょう。

3,第三のハードル・秀吉の妹、旭を不幸にしたらいけない

旭というのは、秀吉の妹で、無理やり離縁させられ、家康の正妻とされました。人質でもあります。大河「功名が辻」では松本明子さんが演じて「けっこう不幸な感じ」でした。でも「いい人家康」は、旭を不幸にしてはなりません。山岡大河「徳川家康」では、秀忠と「実の親子ではないが、大変深い愛情を結んだ」とされました。だから「不幸ではない」という設定です。「どうする家康」では、表面上明るいキャラとして設定されました。最初は嫌がった家康も優しく接し、正妻のまま京都の豊臣家に戻すという設定です。実際はこの頃、既に病で寝たきりに近い状態だったはずです。

ここまでは女性関係ですが、実はもっと大きな障害もあります。「あの織田信長の協力者」だったことです。史実はともかく、ドラマや小説では織田信長は戦好きです。「平和構築」とはほど遠い印象がある(実際は信長にも平和志向は存在します)。そういう魔王みたいな男の協力者であること。これをいかに乗り換えるか。

4、第四のハードル、織田信長の協力者だった

協力者どころか、武田問題では「信長よりずっと好戦的」だったのが家康です。家康は平和主義者などではありません。これはまずい。

織田信長への協力について山岡大河「徳川家康」はこんな感じでした。「自分は必ずしも信長のやり方を支持しない。しかし今乱世をおさめられる可能性があるのは信長殿しかいない。従って多少の問題には目をつむり、天下泰平という大目標の為、自分は信長に協力する。しかし言うべきことは言う」、、なにかというと家康はこう言っていました。

「どうする家康」はそれを踏襲しました。信長を変な感じで描いて、家康は必ずしも信長に好意を持っていなかったことにする。しかし信長が「愛ゆえに」家康を離さない。家康はいつも信長と喧嘩。築山事件をめぐって最後はとうとう「本能寺で信長を殺そう」とする。

つまり家康は信長に鍛えられたものの、基本的には敵対していたと描いたのです。これで「一向一揆虐殺の信長の協力者だった史実」をごまかせます。一向一揆の虐殺は作品に登場しないと思います。

あとは石川数正とか豊臣秀吉の朝鮮侵略の問題とか色々ありますが、とにかく家康をいい人にする為には、嘘が絶対に必要です。その典型が山岡荘八であり、一見山岡を継承していないように見える「どうする家康」は確実に継承しており、同じように嘘を重ねて重ねて、家康を造形しています。

「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

2023-09-05 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。

朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。

ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。

鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「儀礼や祈りや文章創作とは違う、現実に根差した政治」を行うように「ちょっとだけ」なっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。

律令制国家は、天智天武の時代に、つまり700年前後に、白村江の戦いの敗北を受けて成立しました。「唐」が攻めてくるという緊張感が豪族連合としての「日本」を生み出すわけです。「日本」という国号もその時誕生します。

ところが唐との関係はあっという間に改善します。そして同時に日本国の統合も徐々に緩んでいきます。桓武天皇の時代、794年の平安遷都以降、桓武天皇は東北に敵を作ることで、新しい国家統合を模索しますが、そうした軍事的な動きも次代の嵯峨天皇の時代にはなくなっていきます。

10世紀になると、気候が変動したり、地方が無政府状態に陥ったりします。こうした中、朝廷は「日本をこうしよう」という高い政治意識を失っており、つまりは地方から税収が入ってくればいい。現地の支配者や親分に税の取り立てを任せ、その税収を確保できればいいという態度に終始します。「政治」と言えば主に「祈ること」を意味していたわけです。さらに文章経国と言って、芸術的文(漢詩、和歌)を作ることで「天を動かす」という政治?を本気でやっていました。桓武天皇の孫である仁明天皇などは文章経国に熱中し、国家財政を傾けました。文章経国は宴会(歌会)を通して行うので、べらぼうな「むだ金」が必要だったのです。文章経国は儒教政治の重要事項です。本気で儒教政治をやろうとすると、現実はほぼ見えなくなっていくようです。日本は中国にかつて存在したと言われる幻の儒教理想国家「周」を手本としたので、朝廷の政治は、やることなすこと現実からは乖離していました。

こうした中でも京都政権に一定の税収があったというのは不思議なことです。こういう政府にどうして人々は税金を納入したのか。ほとんど奇跡なのですが、それは今は考えません。

やがて律令制は形骸化し、律令制に代わって荘園公領制という形に移行していきます。12世紀のことと考えられています。公領と言っても実態は荘園で、要するに上皇天皇や中央貴族が地方の有力者や国司とタッグを組んで地方からの税収を確保しようとしたわけです。単に荘園制でもいいように思えます。公領は「公共の土地」ではないので、まぎらわしくなります。

この荘園において実際に荘園を経営したり、税収を確保していたのが「武士」らです。つまりそれまでの日本政府は長きにわたって地方政治を全部「丸投げ」して、京都で祈り、税金だけを収奪していたわけですが、ここに中央政治(主に鎌倉,そして鎌倉を通す形で京、または直接的に京)とつながった(タッグを組んだ)地方政治というべきものが発生します。それはライバルである朝廷の意識改革を促し(といっても少しですが)、地方に「金の源泉」以外の興味を持ったようです。いや金の源泉なんだが、どうやれば源泉であり続けてくれるのか、ということかも知れません。そして長い時間はかかるものの、江戸時代も後半になって武家政治の結晶として撫民政治と言われるものの発生してきます。ただし初期段階では、武士地頭は撫民など頭にもなく、むしろ朝廷よりひどい収奪者として登場します。泰時の撫民と言っても、そんなたいしたもんではありません。

源頼朝は朝廷に対しては遠慮がちであり、地頭の暴走を抑制する側に回ります。同時に朝廷改革を促します。要するに「ちゃんと政治をしようよ」と朝廷に働きかけるのです。この場合「政治」というのはそんな大したことではなく「祈ったり、和歌や漢詩を作って天を動かそうとか馬鹿なこと言ってないで、現実を見ようよ。少しは地方の秩序の構築、うまい税金の取り方を考えてみようよ。ほんの少しだけでいいから」ということです。そしてこれが「天下草創」の中身ではないか。何もしていなかった0の状態から1ぐらいはやろうということ。この点からも「朝廷が政治を担い」「武士はその治安活動を行った」という歴史観は、史実と矛盾していると思われます。「朝廷に権威があったから」などというのは観念論で、頼朝がそういう態度をとったのは「朝廷天皇が同じ荘園制というシステムに依存した共同経営者(収奪者)だったから」です。また「幕府とは何か」と同時に「王権とは何か」を考える必要も感じます。「王」という言葉は多義的でなかなか議論が成立しません。少なくとも「幕府は王権の守護者に過ぎない」の「過ぎない」の部分は間違っているでしょう。王権と幕府を上下関係で考えること自体、非科学的なのかも知れません。

架空小説「豊臣秀吉の遺言」

2023-08-29 | 戦争ドラマ
架空の世界の、架空のお話。

慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。
「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。
「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」
「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」
「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」
「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」
「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わしでは豊臣を統率できねえ。うるせえ奴らがたんといる。秀頼がもうちっと大きくなるまで、這ってでも生きろや」
「秀頼か」と、秀吉はつぶやいた。そして続ける。
「あんな赤子に天下様がつとまるかよ。無理に無理をして明日関白にしても、誰もついてこねえわ」
「といってどうする。秀次もお前の考えに反して死んでしまった。お前は許す気でいたんだろ。なにも切腹するこたぁなかったよな。あれでお前の計画も狂ったわけだ」
「まあ天下なんてものは回り持ちよ。わしゃ、わがまま放題に生きた。でっけいこともやった。正直死んだ後のことはどうでもいい。新八幡様にでもしてくれ。それでいいわ」
「といって、天下様をお前に譲ると言われても、なかなか難しいぞ。もう秀頼には派閥がついとる。茶々もあの通り気位が高い。お前が何を遺言しようが、徳川の天下なんて許せねえ。そういうやつらがたんといる」
「おめえもわしも、人望がねえの。誰がお前になんぞ譲るか。おめえももうじじいではないか。譲るとしたら秀康じゃ」
「あのわしの息子に。オギイに。織田信雄と同じぐらいのぼんくらだぞ」
「秀康はぼんくらなんぞじゃねえ。そもそもおめえは息子に対して厳しすぎるのよ。人の情がねえのは信長様だけじゃあねえ。いや信長様は息子に甘かった」
「そうじゃったの。信長殿は家族には妙に優しかった」
「家康よ、わしゃほんにわがままでな。正直、死んだ後、わしの偉業が世に伝わればそれでいいのよ。わしが作った天下じゃ。わしの名が上がればそれでいい。それには天下を崩さんことよ。秀頼は生きて暮らせればそれでいい。それにしても朝鮮のことは余計じゃったな」
「今頃気が付いたか。あれは異国だと言っただろ。日本じゃねえ。」
「わしが死んだら、すぐ引き上げだ。家康、朝鮮にはお前から詫びを入れてくれ」
「損な役回りは全部わしじゃの。それは分かった。早速引き上げ計画を立てるわ。しかし天下をオギイにというのは、誰も納得しねえぜ」
「オギイはお前の息子じゃねえ。長い間ほったらかしにしやがって、おめえは父親じゃないわ。人でなしが。オギイは羽柴の子じゃ。わしを継いでも大義名分は立とうが」
「無理だとは思うがな。まあやってみる価値はあるか。いずれにせよわしが後見じゃ。そうなると宇喜多、石田、小西あたりが黙っていまい」
「いや毛利よ、毛利には小早川秀秋がいる。一応わしの縁者じゃ。毛利が黙っていまい」
「いろいろ難しいが、結局はなるようになるだけだ。わしも頑張ってみるわ。秀吉よ。わしのわがままが分かるか。」
「分からん」
「わしゃ、のちの世に立派な人だったと言われてえ。その為には秀頼を殺すわけにいかんし、死なすわけにはいかん。そこは何とか頑張ってみるわ。信長殿、筑前、それにわしの3人で築いた天下じゃ。乱世に戻してなるものかよ」
「まあ、頼むわ」秀吉は初めて微笑んだ。

戦争抑止のため、今こそ「戦争責任論」が必要だ。

2023-08-16 | 歴史と政治
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。

私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。

例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」もまた責任を問われるべき問題です。勝つに決まっていた以上、勝った後を考えるのは政治家として最も大切なことです。100年後を考えて政治家は行動すべきなのです。

個人責任が問われるという国際同意を形成する、それをもって戦争の抑止をはかる、、、私はそう言っているわけです。

日本において「昭和天皇の戦争責任」が問題となっていたのは、1945年から1980年代の半ばまででしょうか。昭和天皇が亡くなられてからは、ほとんど議論は起きなくなったと思います。あの戦争ではメディアも国民もこぞって戦争に向かいました。日露戦争の勝利後からのナショナリズムの高揚と世界恐慌が招いた深刻な社会矛盾が背景にありました。したがって「天皇一人の責任を問うことはできない」という理屈は成り立つとは思います。しかしもし「国民全員に責任がある」なら、「最高指導者としての天皇」、、「にも」、、当然責任があることになります。天皇自身は「私に責任がある」ともマッカーサーに言いました。

また日本にのみ責任があるわけはない、という理屈も十分に理解しています。だから「日本にも責任がある」と私個人としては考えます。当然「米国」「ドイツ」「イタリア」「フランス」「イギリス」「ソ連=ロシア」等にも責任があります。「日本にのみ責任があるわけではない」ということは「日本にも責任がある」ということを意味しています。もっと広げるなら「中国」「朝鮮」の責任だって考えていいと思うのです。ただこれはいかにも誤解を生む言い方です。中国・朝鮮・東南アジアに責任があると私は言いたいわけではなく、この国々が「どういう動きをしたのか」を深く知るべきだという意味で言っています。実際は私だって東南アジアの動きなどはよく知りません。

「昭和天皇に戦争責任はあるのか」、、、昭和天皇を責めるためでなく、どうすれば戦争を起こさないで済むかを考えるため、これは考え続ける必要のある問題です。例えばそれを高校生が考え、ある者は「ない」と考え、ある者は「ある」と考える。その思考過程そのものが「戦争を深く考えること」につながると思うのです。

例えば今、プーチンに戦争責任があることははっきりしています。では、ゼレンスキーはどうか。彼は自国民の「親ロシア独立派」にドローン攻撃をしかけていました。ヨーロッパもロシアも「戦争になるからやめろ」と警告したのにやめませんでした。だからゼレンスキーにも責任があることは私の中でははっきりしています。ゼレンスキーがプーチンを強く刺激したのです。このことは次のことを意味します。台湾が現状を維持し、極端な独立行動をとらない限り、習近平は戦争を起こすことない。または起こすことはできない。要は「きっかけ」を与えない、作らないことです。独立行動が過激化しない限り、台湾有事は永遠に起きません。起こせば中国だって深い傷を負うからです。ウクライナ問題と台湾問題は違う問題なのです。

しかしこれには異論もあるでしょう。ひたすらプーチンが悪いのだ。彼がかぎりなく悪で、ゼレンスキーはかぎりなく善なのだ、、こう考える人もいるでしょう。習近平は何もなくても戦争起こすのだという人もいるはずです。そういう人に私個人の(さして国際情勢に詳しいわけでもない私ごとき人間の)意見を押し付ける気はありません。

ただ「いかにすれば戦争を抑止できるか」ということを考える、いわば一つの教材として「ウクライナ戦争」を考えていく必要を感じているのです。今こそ「戦争責任論」が必要だと思います。
最後にぶっちゃけると、私自身は「昭和天皇の戦争責任を考える」というテーマのもとに大学時代、戦争についていろいろ本を読みました。平成になって就職してからは、ほぼ考えてきませんでした。
私はただ自分の体験を普遍化しているだけなのかも知れないな、とも思います。

黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

2023-08-15 | 権門体制論
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。

中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。

これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。

戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)

天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。

黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。

私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。

「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

2023-07-23 | どうする家康
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。

話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」というのは、どんな下手な脚本家が描いてもそれなりに「絵になるもの」だなあと思います。最後の「家康ー」「信長ー」と呼び合うところなど、破綻など忘れて、一種「感動的」ですらありました。

信長も信長でどうやら「家康が俺を殺すなら仕方ない」と思って本能寺に入っている。一種の自殺願望というか「破滅願望」ですね。で、信長は当然息子の「信忠」が500ほどの兵しか持たずに二条新御所にいることも分かっているのですが、逃がさない。「嫡男を生かしておいては家康の天下が来ない」から「嫡男もろとも自殺」しようとしていることになります。どういう心理なんだろ?

信長と家康の国家観の違いもよく分かりません。「武力で抑える世から和をもって貴しとなす世」なのかなと思いますが、「天下をとって」家康は何をしようとしているのか。

基本的には個人的復讐なんですが、それを「天下をとる」と言うと、この家康が何かを考えているようにも見えてしまうわけです。

で、家康は天下をとるために急遽堺へ行く。堺?、、。そこで堺の会合衆と会う。「会合衆と会えば鉄砲だってわしらのもんじゃ」とか家来の誰かが言います。なんでだ?会うとそうなるのか?史実として堺にいたので、堺に行くしかないわけですが、「堺に数日滞在すると天下をとるための人脈が作れる」という話なわけです。無茶にもほどがあります。

無茶苦茶もいい加減にせいよ、、、と思っていたらそこへ「お市の方」が登場。「この世に兄の友は家康殿だけです」とか言う。で家康は心変わり。やっぱり「決断できない」と言います。
家来は喜んで「いつか天下をとればいい」とか適当なことを言い並べます。

で結局の明智が信長を討つことに。でも「待てよ」。物語の構成上では「明智と信長の仲を切り裂き、明智に乱を起こさせたのは家康」だということになります。まあ家康はただ明智が用意した「鯉が何か臭うから腐っているのでは」という行動をとっただけです。それが「本能寺の変の明智側の要因」ということになります。プラスさっき書いた「信長の破滅願望」「家康に殺されたい願望」です。

いろんな下らない陰謀論を見ましたが、ここまで無茶苦茶な説はみたことがない。鯉が腐っていたという話は本能寺の変の100年後に出された「武辺咄聞書」(ぶへんばなしききがき)という1680年ごろの文章集にあるようです。一応史料がないわけではない。ただそれを「家康の陰謀」というか「信長と明智の引き離し作戦」として描くわけです。よくよく考えたら「本能寺の変は、徳川家康の陰謀、明智失脚作戦の予期せぬ結果」となっているわけです。一応「本能寺陰謀論」ですね。大河が本能寺陰謀論を採用したのはおそらく史上初ですが、随分とせこい作戦、陰謀です。しかしそれもまた荒唐無稽なドラマとしては、一興なのかも知れません。

最後のシーンはいいと思うのですよ。結局自分を「たくましく」してくれたのは信長だと気が付いて「ありがとう」と言う。「友情もの」としては良いと思います。
でも見終わってしばらくすると何も残らない。壮大なる空虚話です。その時だけの友情話、、、何も残りません。よくここまで空虚な話を嘘ばかりついて作るものだなとは思います。

最後に真面目な話を書くと、「信長の死は本当にみんなが望んでいたこと」なのか。物語ではそうなっています。本人すら望んでいたとなっている。そこは史実から考えてみたいとは思いました。

織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

2023-07-19 | どうする家康

そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。

でもここは織田信長のお話。
織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。

そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。

謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は自分から人を裏切ったことはほとんどなく、むしろ裏切られてばかりで、不義の人とはとても言えません。柴田勝家は若い頃信長の弟を担いで謀反を起こしましたが、許しています。前田利家は信長の近衆を殺して出奔しましたが、許しています。晩年の林や佐久間の追放にしても、殺してはいないのです。松永久秀が明確に裏切った時も、一回は許しています。息子の織田信雄が勝手に伊賀を攻めて、しかも負けた時も、許しています。信長が戦争において多くを殺したことは事実ですが、それなら他の大名も変わりません。どっから信長が「不義の人」という間違ったイメージが生まれたのか、実はそこには興味はあります。間違ったイメージが流布する理由です。まあ比叡山焼き討ちと一向一揆の根切りのせいでしょうが、それには「それぞれの理由」があるのです。特に一向一揆では信長は大切な親族を何人か殺されています。だから殺していいとは言いませんが、信長にとって「最大最強の敵」が一向一揆であることを考えれば、大名に対するより過酷な戦いとならざるえない理由は分かります。一向一揆との戦いは大名との戦いより一段上の「真剣勝負」だったのです。信長自身が手傷を負ったのも一向一揆との戦いの場面だけです。おそらく戦国最強は一向一揆であり、それとの戦いや殺人をもって不義とするのは、違うように私は思います。信長が「いいことをした」とはとても思いませんが、、、というか、私は信長に歴史的興味をもっていますが、別に好きなわけではない。英雄とも偉人とも思わない。むしろ残虐な殺人者というのが私にとっての信長です。

一向一揆との戦いに比べれば、謙信との関係など、まるでおとぎ話のように穏やかであり、手紙のやり取りは頻繁で、実に仲が良かったのです。謙信が49歳で亡くなったのは天正6年、1578年ですが、二人が「破局」に至ったのはその2年前、1576年、もしくは1577年のことです。その前の10年以上、二人は蜜月と言えるほど仲が良かったことは現存する手紙から明らかです。

理由は信玄という共通の敵がいたせい、ではありません。信玄と信長は同盟しており、信玄の死の直前まで、つまり信玄が信長を裏切って徳川を攻める直前まで、信長は幕府を代表して信玄と謙信の関係を「調停」していました。武田が「共通の敵」となったのは信玄の裏切りの後であり、裏切りとほぼ同時に信玄は死んでいるので、武田勝頼の時代です。

そのあたりから、武田討伐を優先する謙信と、武田、つまり関東ばかりに気を使ってはいられない信長との齟齬が少しづつ生じてきます。具体的には信長は武田討伐を何回か口約束しますが、信長には京都、義昭問題があったり、越前の統治がうまくいかない問題があったり、なにより本願寺問題があり、なかなか約束を守れません。その上、武田勝頼はかなり好戦的で「強き武将」であり、山を越えて東美濃に侵攻したり、徳川の高天神城を狙ったりと、勢いがありました。信長は武田に関しては相当な用意が必要と思っていたわけです。しかし謙信は「攻めよう」の一点張りです。動かない信長に謙信のイライラが募っていきました。

1574年、天正2年はじめ、謙信は武田に出兵します。そして同盟している家康・信長に協力を求めます。信玄が死んだ時は、すぐにでも武田を攻めようと言っていたのは信長の方だったのですが、この時になると信長は口で協力を約束するだけで動きません。そして上洛して「蘭奢待」(ランジャタイ)を切りとらせたりしています。謙信は当然腹を立てます。そこで信長が贈ったのが有名な「洛中洛外図」でした。高価なモノを贈ればなんとかなるだろうと思っているあたり、信長は人の心理が本当に読めないのだなと思います。実際、謙信の心は信長から離れていくのです。

天正2年、信長の目標は長島の一向一揆でした。最大最強の敵です。武田はあと回しです。長島のせん滅が終わると、やっと武田に対して動きます。翌年、1575年、天正3年が「長篠の戦い」です。ここで武田勝頼を撃破した信長は謙信に共同での武田攻めを提案します。しかし謙信にしてみればいつまでも信長の自己都合に振り回される気持ちはなかった上に、義昭からも信長と手を切れという手紙もきています。ここで謙信は信長の「一応の支配下」(実際はうまく統治できていなかった)である越前の隣の越中に兵を向けるのです。

越前の朝倉を滅ぼした後、信長は直接統治を目指さず、あまり能力もない旧朝倉の家臣に統治を任せ、結局は失敗し、一時越前は一向一揆の国となります。このことが私は不思議だったのですが、越前を支配することによって「謙信と隣国関係になる」ことを忌避したのかも知れません。謙信が越中を支配するとそうなります。でも越前支配の失敗により、信長は天正3年、越前の一向一揆を皆殺しにし、統治を柴田勝家に任せます。同時に謙信は越中を支配下に置くのです。結局は「隣国になってしまった」(中間に加賀はあるものの)わけです。

そして謙信の最晩年である天正5年9月、柴田勝家と謙信の戦いが生じます。有名な「手取川の戦い」です。戦いと言っても柴田勝家は守ろうとした七尾城の陥落を知って兵を引き上げ、その柴田軍を謙信が追撃したというのが実態です。その途中に手取川があり、地の利のない柴田軍は川に足をとられ、多くの死者を出します。織田信長は陣中にいませんから、正確には上杉謙信と織田信長が直接戦ったことはありません。

これがたった一度の「織田対上杉」ですが、この戦いのインパクトが強すぎ、しかも現代になってからもこの場面ばかりが映像化されるので、まるで「信長と謙信はずっと敵対していた」かのような誤解を与えるのです。謙信の意図が信長を打倒するための上洛であったかは、直後に謙信が死んでしまったので分かりません。ウィキペディアを読んだら「完全に上洛前提」で書かれていますが、歴史学者の本ではあまりそんな意見を見たことはありません。ちなみに司馬さんの小説、たしか「新史太閤記」でも、秀吉は「上洛ではない」と考え、「上洛だ」とする信長に対し「これが上様の限界だ」と考えたりするシーンがでてきます。司馬さんは信長をあまり高く評価していませんでした。「国盗り物語信長編」は編集者に拝み倒されて書いたもので、司馬さん自身の自発的意思ではありません。

話戻して。
手取川の戦いのクローズアップによって、敵対関係が続いていたと誤解されている信長と謙信ですが、実際は謙信と信長はずっと同盟者であり、しかもその仲は良好で、いろいろな齟齬から戦うはめになりましたが、それは謙信の死のわずか2年前のことです。ほとんどの期間、10年以上の長い月日、信長と謙信は持ちつ持たれつでやってきたのです。

ちなみに謙信の死の後、上杉は後継者をめぐって混乱し御館の乱が起きます。謙信の姉の子である上杉景勝が後継者となりますが、謙信時代の力は上杉にはもはやありません。武田は滅亡し、信長は上杉に兵を向けます。景勝は滅亡を覚悟し、遺書めいた手紙まで書いています。しかし幸運にも本能寺の変が起き、織田(柴田勝家)が引き上げたことで、上杉は九死に一生を得ます。豊臣政権に服属し、会津への転封(越後から引き離されての鉢植え大名化)を受け入れたことで120万石。関ケ原で減封され30万石。江戸初期に後継者がなく、お取り潰しのところを、徳川秀忠の隠し子である将軍後見の保科正之(会津松平の祖)に救ってもらって15万石。「忠臣蔵」(五代、徳川綱吉時代)では、上杉当主が吉良上野介の息子だったため、上杉米沢藩と赤穂浪士・大石内蔵助は「物語上」しばしば暗闘を繰り広げます、あの時の上杉は15万石の大名でした。江戸中期には財政危機。上杉鷹山がなんとかこれを乗り切ります。江戸末期には佐幕派となって石高も19万石まで回復。明治維新後は長岡藩とともに戦った北越戦争の敗北を経て、中立または官軍寄りの立場に転身しますが、幕府に協力した責任を問われ、15万石に逆戻り。そして版籍奉還です。

「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

2023-07-17 | どうする家康
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。それは当然のことでもあります。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。史実ではないと批判しても意味はないでしょうが、「史実はどうだったか」を調べることには意味があると、私は考えます。

1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。

「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。

信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」のもとに行われました。信長の領国である美濃と信玄の甲斐は隣国です。また謙信の越後も近い国です。信玄と謙信の「承諾なし」では、信長は上洛はできません。特に信玄との関係は同盟であり、強いものでした。武田勝頼、信玄の二代目ですが、この勝頼の妻は「信長の養女、信長の妹が遠山氏との間にもうけた女性)でした。つまり信長は勝頼の「義父」なのです。この婚姻が成ったのは上洛の3年前です。この女性は1571年(信玄の裏切りの前年)に死亡しますが、武田信勝(勝頼の嫡男)を生んでいます。また信長の嫡男信忠と信玄の娘との間にも縁組が一応は成立していました。ただしこの信玄の娘、松姫は1561年の生まれですから上洛時にはまだ6歳です。実際に嫁いだわけではありません。勝頼の妻の死を受けて、実際に嫁ぐ動きが起こりますが、信玄と信長の手切れによって破談状態となります。1572年、松姫が11歳の時です。松姫は後年、徳川家康の庇護下で生き抜き、保科正之(会津松平の祖)を異母姉と共に育てます。

このように「縁組」関係を見ただけでも、信玄と信長の関係が深い同盟であったことが分かります。信玄の西上行動はこの同盟を破棄することなく、突然行われました。信長が最後まで武田に対して憎悪を燃やしたのはその為です。「お人好しの信長が老獪で悪賢い信玄に裏切られた」とまで言っていいか分かりませんが、ざっくり言えばそういうことになります。

2,信玄は信長と同盟を結んでおきながら、信長の同盟者である徳川家康を挑発し続けた。

さらに軍事的に見れば、、、武田信玄は信長の上洛を認める見返りに「今川侵略」を信長に認めさせます。結果、旧今川領は分割され、西が徳川家康のもの、東が武田信玄のものとなりました。なお、この今川攻めに際し、今川義元の娘を妻にしていた信玄嫡男の義信は異議を唱え、結局、信玄はこの嫡男を殺しています。信長は多くいる息子を一人も殺していませんが、信玄、家康は嫡男を殺しています。武田を継げるわけもなかった諏訪勝頼(武田勝頼)が武田家を継いだのはその為です。武田勝頼が「ほとんどの家臣の裏切り」にあって死ぬのも、正当性に大きな問題があったから、とも解釈できます。

さて「偉大なる」信玄ですが、信玄は家康との境界であった「遠江」(とおとうみ)に手を出します。同盟者が同盟している相手である家康に手を出したわけです。当時であっても禁じ手と言ってよいでしょう。今川分割時には「遠江に出兵してくれてありがとう」という手紙すら信玄は書いているにもかかわらず、です。(恵林寺所蔵文書)

もっとも実際に「手を出した」のは、信玄の国人(国衆ともいう)である秋山虎繁ら信濃下伊那衆です。信玄が積極的だったとまでは言えません。統制がとれていなかったという解釈も可能です。

しかし徳川家康は信濃下伊那衆の行動を「偉大な信玄の許可を得たもの」とみなしました。信玄が国人たちをコントロールできないとは考えなかったのです。

そこで徳川家康は信玄に対し協定違反であると抗議を行い、もちろんそのことを信長にチクり(報告)します。

3,焦った信玄はあちこちに弁明した・家康には起請文すら書いた

「どうする家康」は信玄賛美が過剰ですので「信玄を怒らすな」というサブタイトルすらつけていますが、史実としてはこの段階1569年に武田信玄が思っていたのは「織田信長を怒らすな」ということです。家康に弁明するとともに、信長に対してもわざわざ弁明の手紙を送っています。(古典籍展観大入札会目録文書)
さらに家康には起請文すら書いて家康の「誤解」を解こうとしています。(武徳編年集成)

信玄がこのように「へりくだる」のには理由がありました。信長上洛の4年後、信玄は信長との同盟を破棄する通達もせず、一方的に遠江を侵略しますが、「同盟一方的破棄」は信玄の習慣であって、この今川分割にあたっても実に「信義を欠いた行動」を信玄という男はとっているのです。それは今川、北条、武田の三国同盟の一方的破棄です。

怒ったのはむろん関東の雄、北条です。信玄の裏切りに対し、当然大きな不信感を抱きます。この北条の脅威があったため、信玄は家康・信長に対して「へりくだる」しかなかったのです。3年後、突然遠江を侵略した時(つまり三方ヶ原の戦い時)、信玄は「3年間のモヤモヤを散じた」と言っています。3年間とは、家康に「へりくだった時」からの日時です。

4,上杉謙信との関係で織田信長を頼り切っていた武田信玄

信玄と家康の関係はこの後もずっと「ぎくしゃく」です。「北条や今川氏真と仲良くしないように信長殿から家康に言ってくれ」とも信長に手紙を送っています。(神田孝平氏旧蔵文書)

しかし一方、「天下静謐」を掲げ、幕府とともに各大名の紛争の「調停」に乗り出した信長には大きな信頼と期待を寄せていました。「織田信長は上洛時点で既に侵略者ではなく調停者」ということも見逃されがちです。信長の越前侵略のイメージが強すぎるからでしょう。越前はなるほど侵略っぽいですが、形式上は「官軍、朝廷軍、幕府軍」として行動していました。上洛とともに「あっちこっちに喧嘩を売った」というのは間違いです。そもそも上洛してすぐに岐阜に引き上げてしまっているのですから、喧嘩の売りようもないのです。上洛時点では毛利とも武田とも上杉とも敵対していません。

信長は上杉謙信とも良好な関係を築いていましたから、武田と上杉の紛争を「真面目に」調停していました。1569年、つまり信長上洛、信玄・家康の今川侵略の翌年、北条には不信感を抱かれ、謙信とは対立し、家康にも「信じられないやつ」とされた武田信玄はその徳のなさから関東随一の嫌われ者となっていました。

この時、信玄は外交役であった家臣の市川十郎に対し「信玄のことは、ただいま信長をたのむの他、又味方なく候」と手紙を送っています。(武家事紀)

関東には全く味方がいないから、信長を頼るしかない。そのことを外交官であるお前は十分に理解して行動しろ、ということです。家臣に送った政治的な手紙ですから、嘘をつく理由がありません。

5,徳川家康と武田信玄は本当に仲が悪く、家康が信長を信玄との抗争に巻き込んだ

信玄は「信長に見限られたらおれは終わりだ」とまで外交官に命じているのですから、積極的に信長を裏切るわけがありません。しかし火種は存在します。それが家康です。家康・北条・謙信が善人で、信玄のみが悪人などということは全くありませんが、それにしても以上見てきたように信玄のやり口はいかにも「悪らつ」です。戦国時代にあっても「そりゃひどいだろ」というところです。むろん信玄の側に立つなら「山梨は塩がとれないからどうしても海が欲しい」とか「今川の国衆たちに今川に代わって武田が守ってくれと頼まれた」とか理由はあるでしょう。ただ私はドラマで描かれたような偉人ではないという前提で書いているため、信玄にはキツイ評価をあえて行っているのです。そういう文飾(オーバーな表現)があることを前提にしてお読みください。

信玄は信長に頼っていました。世に信長以外の味方がいないからです。上杉が挑発してきても「信長と幕府が反対している」という理由で上杉との戦闘を避けます。浅井長政が信長と敵対した時は、信長を心配する手紙を送り、姉川の戦いで信長が一定の勝利をつかんだ時は、祝電を送っています。(徳川美術館所蔵文書)

一方、家康は信玄を全く信用していませんでした。尊敬していたとしたら「よくあそこまで悪らつになれるものだ」と尊敬していたのかも知れません。家康が信玄の旧臣を多く採用したため、徳川史観では信玄を尊敬していたことになっていますが、私としては全く尊敬などなかったと考えます。ちなみに1988年の大河中井貴一主演の「武田信玄」では、この信玄の「悪らつぶり」はかなり正確に描かれています。それでもこの作品は大ヒットし、40パーセントという異常な視聴率を獲得し、大河屈指の名作とされました。北条義時の「悪らつぶり」を描いて大河屈指の名作となった「鎌倉殿の13人」を考えてみても、「悪らつ」であることを描くことが、大河にとってマイナスになることはないのです。むしろ悪らつであることを改ざんし、あたかも偉人であるかの如く描くことが、大河にとってはマイナスとなるようにも思えます。

話がそれましたが、信玄の悪らつさをよく理解していた家康は、信玄と断交して謙信と同盟します。1570年10月のことです。三方ヶ原のちょうど2年前です。つまり2年間、信玄は家康と断交していました。一方で、信玄は信長しか味方がいない、わけですから、信長とは断交していませんし、同盟を続けています。家康との断交の翌年である1571年には、信長にいろいろ調停してもらったお返しなのか、今度は石山本願寺と信長の関係を信玄が調停したりしています。三方ヶ原などは信長から見れば家康と信玄の強情さが招いた私戦です。あんなに止めたのに(これは想像で止めたという史料は存在しません)喧嘩ばかりしているからこうなった。信長は家康に対しそう感じたはずです。たった3000しか兵を送らなかったのも、家康が勝手に始めた戦争と考えていたとすれば理解は可能です。実際、信長は家康とも信玄とも同盟しているのに、この二人は真に憎みあっており、喧嘩ばかりしていたのです。

6,徳川家康と上杉謙信の起請文の過激な内容

1570年に上杉謙信と同盟するにあたり、家康はこのような協定を結んでいます。

1,信玄とは真に断交する
2,家康は謙信と信長の関係をとりもつ
3,家康は信玄と信長の縁組が破談となるよう信長に進言する。(縁談とは織田信忠と松姫の婚約のこと、上記)

「3」は過激です。このころ、つまり1570年、信玄は北条との同盟を復活させていました。そうなると敵は謙信と家康です。家康としては、信玄など全く信用していませんから、謙信と結ぶことによって自国を守ろうとします。家康は信長の助けも信じてはいなかったでしょう。「信長は人が良すぎる。信玄など信用して」と考えていたかも知れません。

7、突如、信長を裏切った信玄

信長が家康と信玄の関係を調停しようとした事実はあまりないようです。喧嘩はしても戦闘までには至らないだろうと思っていたのでしょう。信長が調停したのは「謙信と信玄の仲」でした。

それは信玄裏切り、1572年10月の直前まで続いていました。信玄が遠江に「西上」するとは信長は考えもしなかったのです。

・信長は信玄の上杉への戦闘行動の抑制について、それに感謝する手紙を1572年の10月に送っている。(酒井利孝氏所蔵文書)

つまり信玄が既に徳川に向けて出兵をした時点ですら、信長は気が付かず、「上杉と武田との調停に協力して、上杉との戦闘を我慢してくれてありがとう」という手紙を信玄に送っているのです。信長が武田を助けて調停してやっているにもかかわらず「我慢してくれてありがたい」とか「お目出たいこと」を書き送っているのです。信玄からすれば「なんという善良でバカなやつだろう」ということになります。

8,信玄の行動をあわれむ上杉謙信

信玄が「信長以外に味方はいない」と家臣に手紙を送ったのは1569年でした。その3年後以内に信玄は上杉との「調停」に腐心している信長を裏切り、西上の軍を進めます。理由は上杉との調停がそれなりにうまくいき、北条との関係は改善し、家康以外に敵がいなくなったからです。

なんのことはない、信長は自らが同盟する家康と自分自身に危機を招くため、信玄と謙信の仲を調停していたようなものです。信長ほどの「お人好しはいない」と、信玄も家康も思ったでしょう。

しかし謙信の反応は違っていました。「信玄の運はきわまった」「蜂の巣に手を入れたようなものだ」と信玄の行動を半ばあざ笑っています。散々非道を繰り返し、信を失い、信長によってやっと生き延びた信玄が、ここにきて「恩人」である信長すら「利」によって裏切るとすると、もはや信玄を信じる者などこの世から誰もいなくなります。

北条も「次は我が身」と思うでしょう。また「信長と敵対する武将」ですら信玄を信じません。実際、信長と死闘を繰り返していた朝倉義景は、この信玄の行動を無視して、越前に引き上げてしまいます。信玄は「絶好の好機なのになぜ帰る」と手紙を送りますが、朝倉義景にしてみれば「到底信玄を信じることなどできない。ともに行動はできない」ということでしょう。

上杉謙信が特に「義の人」だとは思えませんが、それでもここまで「義を踏みにじれ」ば、「もはや誰も信玄など信用しない」ということぐらいは当然の理として判断できるでしょう。謙信はこの信玄の行動に武田家の衰退を的確に感じ取りました。

謙信を義の人だと思わないのは、「謙信の戦争は敵地のコメを奪うことが目的」という藤木久志さんの本を「読んでしまった」からですが、深く調べてはいないので、「義の人のはずない」とまで強くは言えません。謙信がどれほどの倫理心を持っていたのか分かりませんが、仮に多少なりとも「義の人」だとすると、その「義の人」は織田信長という武将を「不義の人」などとは思っていないことが、上記の「信玄運のきわみ」からも分かります。実は謙信と信長は10年以上親密な文通をしており、同盟関係は信玄が死んだ後も続きます。謙信が信長と決裂するのは互いの領土拡張によって越前・越中で領地が接してしまった時、つまり謙信の死(49歳)のわずか1年半前です。「義の人」であるかも知れない謙信は、信長とずっと同盟していました。信長は幕府を代表してせっせと紛争調停をやってましたから、誠実な人間とすら思ったでしょう。本願寺や浅井・朝倉、(もしかすると足利義昭)の「いわゆる信長包囲網」が成功するとも思っていなかったこと、それが正しいとも思っていなかったことは、「信玄運のきわみ」という言葉からも十分読み取れます。

9,戦国一の悪党「武田信玄」と戦国一のお人好し「織田信長」

上記の題名はかなりデフォルメしていますが、おおざっぱに言えばそんなイメージを私は持ちます。

信玄の「西上」と言えば「正義の行動」と思う向きもあるでしょうし、「どうする家康」でもそう描かれました。しかしそれは史実とはあまりに乖離しています。

それは信長の悪行(特に比叡山焼き討ち)がクローズアップされた結果です。幕府に関して言えば、義昭は不公平な政治を行い、腐敗していましたから「義昭を助ける」などというのは、形式上は正義でも、実際には正義でもなんでもありません。信長は理想主義的な側面が強く、幕府にも朝廷にも「公平」を迫りました。正親町天皇などもその都度その都度で縁故に合わせた適当な判断をするので、何度か信長に𠮟りつけられ、息子を通じて詫びを入れています。義昭がいつも信長に叱られていたことは周知の通りです。信長は天下を担う一人として公平を重視しました。むろん信長なりの公平であって、信長が無私で公平な人だなどという気はありません。信長は天下静謐や公平という綺麗ごとを武器にして、幕府や朝廷と対峙したという言い方のほうが正確かも知れません。(対峙です。対立でも対決でもありません。信長が朝廷と対立していなかったという説は、そこそこ知っています。ただし学説は多数決では決まらないので、私は少数意見も大事にします)

ところが信玄は違います。綺麗ごとが武器になるとは考えなかったようです。信玄は遠江を狙い、家康への怒りを散じようとしました。信玄が天下国家や「公平な政治のため」動いたという確実な証拠はありません。それがないから西上は上洛なのか遠江侵攻なのかが分からず、確定した説も存在しないのです。

家康を狙えば、いずれ信長と衝突する。しかし信長は、本願寺、浅井、朝倉との戦争で弱っている。大丈夫だろう。お人好しの信長の調停のおかげで、北条、上杉とはなんかとうまくやれそうだ、ならあの憎き家康を潰し、遠江を手に入れてやろう。理想主義的な信長に対し、信玄は現実的動機から動き、そのために「信と義と恩」を軽視しました。「信長包囲網」と言っても各自が各自の理由で動いていただけで、団結行動ではありませんが、とにかく各自であっても信長は義昭とはうまくいかず、本願寺、浅井、朝倉とは戦闘状態にあった。信長が弱っているとみた信玄は、勝ち馬に乗ろうとし、でも長い目でみれば「信と義と恩の軽視」によって結局は武田家を滅ぼしました。今川を裏切らなければ、嫡男義信を殺すこともなく、勝頼のような「よそ者」が当主となることもなく、武田は生き残ったかも知れません。信長を裏切らなければ、武田滅亡がなかった確率も高いでしょう。すべては信玄の不徳が招いた結果とも言えそうです。

信玄が信長に対して敵意を持つ理由が皆無とは言いません。信長は善人でなく、信玄にも信長に敵対する大義はあったのでしょう。しかし信玄の第一の狙いはあくまで家康です。信玄がもし死ななければ、岐阜まで疲れた兵を率いて行って、岐阜城の信長5万の兵と対峙し、でも兵站は持ちませんから、にらみ合いになって引き上げ、だったでしょう。川中島の戦いも、ほとんどは「にらみ合い」です。負ける戦いを信玄は積極的にはしなかったと考えられます。もし戦えば、かなりの確率で負けていた、疲れた3万弱の武田軍と5万で地の利を持つ織田軍では、勝負にすらならなかったと思われます。信長が大軍を岐阜に集結できると私(というより多くの歴史学者)が考えるのは、朝倉義景が信玄の西上に同調せず、信玄を信用することなく越前に引き上げたからで、これも信玄の不徳が招いた結果です。(勝負にすらならない、の部分は高名な信長研究家、谷口克広氏の意見を参照しました。)

信玄がドラマで過剰に偉大視されることを批判しても何の意味もありませんが、史実を調べてみると「ドラマと史実はやはり違う」とまあ「当然のこと」を感じます。ドラマはドラマと割り切って考えるべきなのでしょう。あまり史実にこだわると、ドラマが楽しめない、と日々自らの「こだわり」を反省しています。
参考・金子拓「裏切られ信長・不器用すぎた天下人」

本郷和人論・リスペクトを込めて

2023-04-26 | 権門体制論
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。

他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。

でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。

2,先生は間違ったほうがいい時もある

中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。

3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える

私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。

東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。

まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。

最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。

戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。

さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。

黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。

そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。

これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。

武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。

黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。

あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。

儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。

金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)

これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。

あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」

この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)

さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう

全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。

朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。

東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。

権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。

本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。

即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

2023-04-25 | どうする家康
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。

金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。
帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。

「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。
「また、、、まただ、、、また殺してしまった」
帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」
信長の涙顔が怒りに変わった。
「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。人の死は多くはないはずだった。浅井が裏切った。そして朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。おれは、長政を殺さなくてはならなくなった。また殺さなくてはならないのだ。」
「信長様のせいではございません」
「おれが殺したのだ。そしてこれからも殺さなくてはならぬ。何人殺せば、何人殺せば、この世に静謐が訪れるのだ。」
「信長様のせいではございません」
「己の手を汚したことのない、おのれごときが何を言うか。おれのせいなのだ。おれの兵が死ねば、それはおれのせいなのだ。いや今やおれは天下にいる。天下で起こることは、全ておれのせいだ。花が落ちるのも、子供らが死んでも、それはおれのせいだ。天下を担うとは、そういうことなのだ」
「信長様のせいではございません!」
「まだ言うか」信長は力なく帰蝶にもたれかかり、そして帰蝶の手を握った。その手は温かかった。
帰蝶の目から堪えていた涙がこぼれた。
「帰蝶泣くな。おれの為に泣くな。これは命令だ。おれの為に、、、一滴の涙も流してはならぬ。帰蝶が支えてくれなけばおれは倒れる。お前は揺らぐな。」
帰蝶は信長の手を握り締めた。そして体を抱きしめた。

了。