歴史とドラマをめぐる冒険

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「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

2022-08-18 | 鎌倉殿の13人
北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。

開発領主
奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。
北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開発領主」と言われました。上皇などの権力者も大規模な荘園開発を行っていました。開発領主が地方の小さな企業とすると、上皇などの荘園は大企業。開発領主は、上皇など大企業の傘下になることで生き残っていました。
北条時政は父の名すらきちんと伝わっていません。比較的新興の開発領主で、もともとは、つまり二代ぐらい前は富豪農民(土地開発人・管理人です。一般農民とは違います。)だったのでは私は思っています。(まだ自信はありません)

在庁官人
国の役所を国衙というのですが、この頃になると長官である受領は現地にいません。代わりに「目代」を派遣していました。国衙の役人を総称して国司と言います。国の役所として機能していたかは疑問です。で、現地勢力が国衙に「たむろ」して、いわば「国衙を乗っ取って」運営していました。国衙というのは開発領主にとっては、「土地をとりあげるいやな奴ら」なのですが、自分が「国衙に入りこめば」、土地の管理権は安定します。そういう人たちを在庁官人と言います。(鎌倉武士は字が読めたのかという疑問がここで生じますが)。名目だけの存在でも良かったのでしょう。
北条時政は開発領主であって在庁官人。らしいのですが、「在庁官人」の方は諸説ありです。もともと後年の護良親王(14世紀前半)などが、倒幕にあたり、「北条なんて在庁官人の子孫じゃねえか」と悪口を言ったのが、証拠の一つなんですが、誤った情報の可能性もあります。「在庁官人」と「下げた」つもりなんですが、北条時政がもっと低い階層だったとすると、「上げてしまった」可能性も残ります。

北条時政はよく「伊豆の豪族」と言われます。ドラマでもそうです。「豪族」というのは便利な言葉なんですが、曖昧です。「開発領主で在庁官人で、かつ武士」とか言ってもわけがわからないので、結局「豪族」ということになるのでしょう。

しかも「小豪族」です。ドラマ上、三浦とは刎頸の友らしいのですが、三浦や畠山は大豪族です。源頼朝と結びつくことによって、小豪族が大豪族と肩を並べるようになったわけです。



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