神格様に出会う道のり・・・あなた無しでは世界は存在しない・・・ | ・

ありがとう
「はい、和多志たちは、今、ここにいます。ワクワク♪」
「はじめ I の祈り」「ごめんね」「ゆるします」
「愛しあいます」「ありがとう」「そうか、そういうことか〜」
※記事の冒頭と最後に記載されているこの言葉には、強力な浄化作用があります。
全ての物事の”始め”と”終わり”に使えるので、一部表現が違います。最後もご覧ください。
 

 

 

こんにちは、みつです。

ついにこのような所まで来てしまいましたね・・・ワクワク♪



 

 

本日は、【神格様】のお話です。

 

今このブログを書いていますが・・・動画の中で何を語ったのかは確認しておりません。
まずはご覧になってください。

 

【神格様と繋がる】「あなたがあなたの世界の神である」これが真実です・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

神格様のことを思うと、モーナの書籍『叡智のしずく』の中のある一節が浮かび上がってきます。

 

 

 

 
 
書籍の中から、『穏やかに話す』という物語をシェアしたいと思います。
 
 
■ 穏やかに話す
 
壮麗な建造物や、大聖堂や、一般的に聖地とされている場所に、あなたは何を感じるでしょうか?
このような物は、他の人々に対して権勢を誇り、
采配を振るい、支配し、意のままに操る為に、
人類が作り上げた単なる想像と知性の産物、
おもちゃに過ぎません。
 
決してわたしから生まれたものではありません、
なんと寂しい、悲しいことでしょう。

・・・自分の中にこのような要因があると受け入れるのは、世の人々にとり、最も難しいことでしょう。
 
だから穏やかに歩き、穏やかに話しなさい。
そうすれば世間も、世に虐げられている人々も耳を傾け、変わって行きます。
 
それも、陽がもっと十分に働く余地があるほどに、すっかり変化するでしょう。
 
あらゆる宗教関係者が求め、拠り所としている土台は不安定で、まさに今日、ウニヒピリ達を動揺させ、同胞に対しての恐れ、罪悪感、反感をつのらせる原因となっています。
 
人は自分が信じているものは、他の人が信じているものよりも優れていると考えるものですが、人類は何回も生まれ変わる人生の中で、様々な信仰に触れ、自分で選択をする体験をしなくてはなりませんでした。そのような経験を重ねることはわたしに触れ、わたしに出会うための通り道だからです。
 
ある人々は、断続的にわたしに触れ、わずかながらも真の光が差し込むのを受け入れました。
それは彼らが時折でも内なる”わたし”を受け入れ、導かれることを良しとしたからです。
 
しかし、人類が宗教や儀式を超えてわたしを見出すなら、初めてわたしは顔をその人に向けます。
何故なら、かれはその贈り物を受け取るにふさわしい者だからです。

わたしはこれまで、モーナ以外、誰にも自分の顔を見せたことがありません。
しかし、わたしの衣に、あるいは足に触れた者はあります。
 
これまでわたしは自分の手を差し出したことはありますが、顔を向けたことはありません。
 
もし、誰か、わたしの顔を見たことがあるという者が居たら、それはわたしの顔を見たわけではなく、わたしの影か徴(しるし)を見たか、想像したということに他なりません。
 
 
この話を読んだ時、モーナと同じ様に顔を見たいという思いになりました。「穏やかに話す」を読んでみて、これは、『今のこの時勢にどのように伝えていくのか』という指針を示していることに改めて気付きました。
 
 
そして、神様の顔を観たいという願望が起こり、それと同時にモーナが見た神様の顔が、自分にはわかってしまったのです。

創始の原始からの人類が、未だに誰も神様の顔を見たことが無いことの意味を理解しました。
 
僕もまだ、見たことがありません。

しかし、「モーナに見せた顔は、誰だったのか?」ということが、今ははっきりとわかります。
 
フナの教えである和オ・ポノポノを日常の中に取り入れていくことで、理解を超えた理解が、少しずつ・・・螺旋階段を登って行く様に、理解となっていくことなのです。
 
 
 
和オ・ポノポノの中で、自分を信じるということをお話しする様になって、信仰する対象が自分の内側に向いてしまいました。
 
理解を超えた理解の至る道を辿るのに、何か特別なことをしなければならないのでしょうか?
それは、日常の中にフナの教えである和オ・ポノポノを取り入れていけば、可能であることがわかりました。
 
 
答えはすべて自分の中にある・・・
 
 
 
その鍵を開けるのが、和オ・ポノポノのワクワク・プログラムだったのです。
 
 

 

 

 

 ある時から、神格様を表すのに敬称を略す事をしなくなりました。

 

畏敬の念と敬意を示す最も大切なことであると同時に、『様』・・・サマをカタカムナで読み解くと、サ(差)は神様のそのものの御姿であり、マ(間)は空間を表し、神様が座されるところとなります。

 

敬称を付けずに、呼び捨てる行為は、常々あいさつをしておる者にとって、慎みたい行為であると思います。

 
 
 

最後までお読みただき、ありがとうございます。

 

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最後までお読みくださった皆様に、マナがあふれますよう。ワクワク♫

 

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ご興味があったら一度訪れてみてださいね。ワクワク♪

 

 

 

 

 

「和多志は愛に生きます。

和多志たちと 和多志たちの家族、親類縁者、先祖代々に遡り、平和が永遠とともにありますように」

「終わり 愛の祈り」

「はい、和多志たちは、今、ここにいます。ワクワク♪」

「ごめんね」「ゆるします」「愛しあいます」「ありがとう」
「そうか、そういうことか〜」「すべて完了しました」


ありがとう