★インチキ弁護士・佐藤博史(二審から菅家さんの弁護を担当)
↑こいつは大嘘吐きのペテン師である。
元東大全共闘のアカ(共産主義)の手先の戯言に
(DNA型再鑑定&再審時の)裁判官をはじめ、
多くの日本国民がまんまと騙された。
万弥ちゃん事件を菅家さんが「自白」するまでの一一年間は、
事件当日の午後二時半頃が万弥ちゃんが最後に目撃された時刻とされていました。
万弥ちゃんの自宅がある八雲神社の近くの食堂で働く男性が
「正午から午後一時までの昼食時を回った午後一時過ぎに出前の電話を受け、
注文を届けて店に戻った午後二時半頃、店の前で、万弥ちゃんが同い年くらいの
男の子と渡良瀬川のほうへと賭けていったのを見た」と供述していたのです。
男性は、「万弥ちゃんの自宅や祖父母の家に出前に行くこともよくあり、
万弥ちゃんは自分になついていた、事件の前日にも万弥ちゃんを見ていて、
見間違えることはない」と供述していました。
そして、万弥ちゃんを見た時刻についても、出前の伝票が存在し、
しっかりと裏付けが取れていたのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p46)
しかし、その日(一九七九年八月三日)は、金曜日で、平日でした。
そして、菅家さんは、皆勤で、その日も当時勤めていた
B保育園に出勤していたことは動かし難い事実でした。
そこで、菅家さんに可能な犯行時刻は、自宅に戻って食事をした一二時から
午後一時までの昼休みしかなかったのです。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p47)
ともあれ、菅家さんが万弥ちゃんを殺すことは時間的に不可能でした。
(菅家利和・佐藤博史『尋問の罠』p48)
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(1991年12月25日付『下野新聞』1面より)
(1991年12月22日付『下野新聞』1面より)
万弥ちゃん殺害で菅家被告
勤務時間中に犯行?
足利市の三幼女殺害事件で、真実ちゃんを殺したとして殺人罪などで起訴された同市家富町、
元幼稚園バス運転手菅家利和被告(四五)は二十三日までに万弥ちゃん事件について
「殺したのは万弥ちゃんと会った日の昼過ぎ」と犯行日時を供述した。
足利署の捜査本部は「万弥ちゃんと会った日」は
失跡した一九七九年(昭和五十四年)八月三日とほぼ断定。
捜査本部は、当時勤めていた同市本城一丁目の本城保育所関係者の供述などから、
同日は菅家被告が同保育所で仕事をしていた裏付けを得ており、
勤務時間中の犯行だった可能性が高いとみている。
捜査本部は引き続き、万弥ちゃんの遺体を詰めたリュックサックの入手経路、犯行時間、
場所の特定を進め、一両日中に殺人容疑で再逮捕する方針を固めた。
一両日中にも再逮捕
捜査本部は万弥ちゃん事件を中心に調べを進めているが、
菅家被告はこれまでの調べに対し、日時は特定できないものの
「万弥ちゃんに会った日の昼過ぎ。仕事をしていた日」と供述した。
捜査本部は、失跡した一九七九年八月三日から後には、
万弥ちゃんの目撃情報が全くないことから、
菅家被告の供述した日時は同年八月三日でほぼ間違いないとみている。
捜査本部で当日の行動について裏付け捜査を進めたところ、
当時勤めていた本城保育所ではパート勤務だったため勤務日誌などはない。
しかし、菅家被告が欠勤すると、代理で送迎バスを運転する人が必要で、
関係者は「当時、欠勤や遅刻はしていないはず」と証言。
勤務時間は午前七時五十分から同九時が迎車運転、
同九時-午後零時が給食調理の手伝い、
同零時-同一時が昼休み、
同一時-同三時が寺などの清掃、
同三時半-同四時半が送車運転となっていた。
同園関係者の証言によると、
寺の清掃は義務付けられていたことではなく「雑用があればやる時間」のため、
捜査本部は昼休みを含めた八月三日午後零時から同三時半の間が犯行時間とみて、
更に絞り込んでいる。(後略)
(1991年12月24日付『下野新聞』2面)
★万弥ちゃん事件当時、菅家さんの昼休みを含めた自由な時間は
正午から午後3時半まで、実質的に3時間30分もあったので、
菅家さんが万弥ちゃんを殺すことは時間的にじゅうぶん可能だった。