5 ヴェトナム戦争
ヴェトナム戦争に関わった5人の大統領たちは、自分たちが失敗しているという多数の証拠があったにもかかわらず、国益に反する行動を追求した。これは、愚行の典型的なパターンである。
フランス植民地
ルーズヴェルト大統領は強固な反植民地主義者だったため、太平洋戦争が終わっても、フランスにインドシナ再占領はさせないと考えていた。
しかしトゥルーマンが大統領となり、ソ連の脅威が懸念事項になると、フランスを同盟国としてつなぎ留めておくために、フランスのヴェトナム再占領を支援することになった。
アメリカは、フランス軍のインドシナ輸送や、フランス軍の武装を支援した。この事実によって、ヴェトナム人やベトミン(ホー・チ・ミン率いる独立運動)のアメリカに対する信用は低下した。
アメリカは、国の成り立ち上、古色蒼然たる植民地主義には抵抗があった。
しかし、ソ連の拡大から欧州を守るためにはフランスの機嫌を取らなければならなかった。
情報機関や国務省からは、フランスによる再征服はおそらく不可能だという分析報告が届いていた。しかしアメリカは、自らの信用を失う政策を続けた。
1946年にフランスとヴェトナムとの間で第1次インドシナ戦争が始まった。このとき、フランス側司令官のルクレール将軍は次のように言った。
この任務を遂行するには、50万の兵隊がいるだろう。それでも、成功しないかもしれないな。
この予言は20年後にアメリカが実現することになった。
……外交政策に関係した大部分のアメリカ人には、植民地時代は既に終わり、その復活はハンプティ・ダンプティを塀の上に戻す作業に等しいことがわかっていたからである。
自己催眠
ソ連の拡大主義、朝鮮戦争、中国の独立が、アメリカに恐慌状態を招き、インドシナは共産主義による陰謀の拠点とみなされた。
バオ・ダイ政府が全く国民から支持されておらず、フランス将校が率いるベトナム兵も意欲に欠けており、今後、フランスの覇権回復の見込みもないという報告が現地からなされた。
しかしアメリカは政策を変えなかった。
アメリカは冷戦思考にはまっていき、国務次官ディーン・ラスクやジョン・フォスター・ダレスの「自由世界のために戦うフランスを支援しよう」という主張が受け入れられた。
アイゼンハワーの時代、フランスへの軍事援助は増大していった。1954年、ディエンビエンフーでフランス軍が大敗するまでに、アメリカは戦費の8割を負担していた。
アメリカは対共産主義という視点でしか戦争を見ることができず、フランスが絶対にヴェトナムの自治権・主権を認めないという事実を直視することができなかった。
1954年にフランスの撤退が決まっても、アメリカ政府は介入方針を変えなかった。
カトリックのゴ・ジン・ジェムという傀儡を見つけ出し、かれに南ベトナムを統治させようとしていた。
現地報告や軍のレポートは、ベトナムへの軍事介入に成功の見込みが低いことを伝えていた。
しかし、ドミノ理論に自己洗脳されたホワイトハウスには響かなかった。
介入
アメリカは、フランスとは異なる友人としてベトナムを非共産化できると考えていた。
自分たちが少し前までフランスの再征服を支援していたことは忘れていた。
1960年、ケネディが大統領に就任したとき、ベトナムではNLF(民族解放戦線)が結成され、内戦が始まっていた。
失敗
ケネディ政権は、マクナマラ、ディーン・ラスク、マクジョージ・バンディ、アドレー・スティーブンソン、ジョン・マコーンなど、軍やエリート大学出身のタフな人間、能力者たちを登用した。
かれらは危機管理を楽しみ、「ベスト・アンド・ブライテスト」と呼ばれた。かれらもまた、状況に支配された。
ケネディ自身も、否定的な報告や、介入失敗の可能性を認識していたにもかかわらず、軍事顧問団増派を続けた。
続くジョンソン大統領は、外交方針にあまり関心がなかったため、介入拡大を続けた。
1962年以降、ヴェトナムは宣言されない戦争となり、米軍8000人以上が派遣された。また、農民を強制移住させる「戦略村」政策が、一時的にゲリラを弱体化させたものの、ヴェトナム人のアメリカへの憎悪が拡大した。
ジェムはたびたび国民から暗殺未遂にあい、また自身の権力が弱まるため民主化にはまったく手を付けなかった。
……かつての蒋介石の場合と同様、アメリカの政策をジェムに賭けたため、役人たちは前回と同じように、ジェムの無能を認めたくなかったのだろう。
予想外にも、ジェムといとこのヌー夫妻が暗殺された。間もなくしてケネディ自身も暗殺された。
北爆
ジョンソン大統領は、保守派や右派からの反発をおそれてベトナム介入政策を変えず、北爆を開始した。ところが、北爆は大学や国民の間に大規模な抗議運動を引き起こした。また、北爆の効果はほとんどなく、大規模地上軍が必要という当初からの警告を裏書きすることになった。
さらに、大統領らの「自分の代で敗北を認め撤退したくない」という個人的利益、また閣僚や軍の「いま交渉や撤退に進めばアメリカの威信が低下する」という脅迫観念が、政策変更の足かせになった。
1965年には20万人の米兵がベトナムで戦争を開始した。それは、敗北を認めない限り抜けられない戦いだった。
マクナマラは、ヴェトナムは「限定戦争」の発達を促したと豪語した。
限定戦争とは、大統領の戦争であり、国民の知らないところで、国民の怒りを買うことなく行われる戦争である。
しかし、限定戦争が成功するのは、相手も限定戦争をしてくれる場合だけだった。
「キルカウントを行えばベトコンの数が減り北ベトナムが和平する」という論理に基づき、地上戦が行われた。
やがて「腐った戦争」におけるフランス的な側面が本国のアメリカ人にも知れ渡るようになった……ナパームや枯葉剤、農村や水道、畑などの公共インフラ破壊。
1968年、テト攻勢では、北ベトナム側は多大な犠牲者を出したが、米国国内の世論を変えることに成功した。米軍は、この攻撃のすぐ前に「北の陥落は近い」というような楽天的な主張を続けていたため、ウェストモーランド将軍らの信頼性は地に落ちた。
離脱
ニクソンは、大統領就任後6カ月でヴェトナム戦争を終わらせると宣言したが反応がないため、徐々に世論の反発が強まった。
ニクソンとキッシンジャーは、反対派をリベラルのろくでなし、雑音としか捕らえていなかった。いまやリッジウェイやブラッドレーといった軍のOB、ハーバード大の同僚学者たちも戦争が無益であると主張していたにも関わらず、ニクソンらはこれをろくでなしの騒ぎだとしか考えなかった。
こうした態度から、デモにおける州兵の学生射殺事件(オハイオ州ケント州立大学)や、ウォーターゲート事件の萌芽が生じていった。
大統領が気にしていたのは、米軍の威信や名誉を保ちつつ撤退することだった。
一方、北ヴェトナムがかけていたのは自分たちの国の運命だった。
「南ヴェトナムは存続するだろう」という宣言とともに米軍が名誉ある撤退を行った2年後に、ベトナムは共産党によって征服された。
まとめ
アメリカ政府や軍は、ベトナムに関する専門家が少なく、文化などの情報がなかったと言い訳しているがそれは誤りである。
愚鈍、つまり「事実で私を混乱させないで」という心的傾向……
無知ではなく証拠を信用しない態度、もっと基本的には、アジアの「四流国」には才能も不動の目的もありはしないという考え方が、アメリカという植民地に対する英国の態度とまったく同じように、決定的な要因となったのだった。歴史の皮肉は冷酷なものである。
……彼は選挙区の、ヴェトナムで息子を失った夫婦と話していて、青年の死を正当化するどんな言葉も見いだせない、という明確な認識に直面させられたのであった。