國造・伴造の「造」にはミヤツコ・ヤツコ・ツコの三訓ありと栗田寛博士記せり。然れどツコ(xtuko)なる訓ありと云ふ說に贊すること能はず。
邦語「奴」を「ヤツコ(yakko)」と云ひ、ヤツコは「yaxtu+ko」なる二語より成る。邦語賤しきことを「ヤツ(yatsu)」と云ふ。ヤツコ・ヤツ何れも「奴」の字の訓なり。然れどツコなる訓と其の義何處にも見當らず證據不充分にて、ツコなる訓は不當と見て差支ない。
「ヤツコ」の語原は「家之子」ならんと云ふ。家(ya)之(xtu)子(ko)。然らばミヤツコ(miyakko)は如何に。
邦語「ミ」は「御」なること既知の如し。邦語「ミヤ」は「宮」なること既知の如し。
みやつこ(造)の本字は御+家之子(mi+yakko)又は宮+家之子(miya+yakko 變訛し miyakko)なり。
みやつこ、古代・上代前期にては宮家之子、文武和銅期にては「宮奴」、上代中期以降にては「宮公」と記せり。地方に於ては國造是假字にて、「國御家之子(くにのみやつこ)」の漢譯を以て穩當とすべし。
伴御家之子(伴造)とは「相伴+御家之子」の義ならんと察する。後世に於る貴公御相伴の原義こそ伴御家之子に相應すべしと考へるのである。
國御家之子(國造)は後世に於る律令の國司・薩長の道府縣知事に相當するものなり。畢竟、御家之子の國・國司の國・道府縣をして「國(クニ)」と云ふのである。
「久爾」なる古代邦語・漢語を以て「クニ」と云ふ義が生じたり。而して「百濟久爾辛王」も亦本邦の御家之子なりて、「百濟久爾辛王」の本字は「百濟國親王」ならん。
「久爾」「國」は「國御家之子(國造)が治る"限り"」「國司が治る藤原氏の領邑」のことなりて、おほきみの領土は「ナラ(나라)」と稱呼するものと知り得べし。
百濟の「限り」、要之、百濟の最大版圖のことを「ナラ(那羅・奈良)(나라)」と云つたのである。