幕末という時代は、

「日本の危機をどう乗り越えていくか」

という問題に対する意見分裂から起こりました。



外国人を追い払えと主張する「孝明天皇」の許可を得ず、

幕府が諸外国と勝手に条約を結び「開国」を進めたことが、


動乱の世のはじまりです。





議題は大きく2つです。

まずは外国に対する考え方で、
「鎖国」vs「開国」って部分。



次に、天皇を頂点とする日本で、
政治の実権を握るのが「幕府」か「薩長」か「公家」かという部分です。



そんな混乱の世に、



「国難を乗り切るためには、幕府ではなく新しい体制の世を作ることが大切」だと主張する者と、



「朝廷と幕府の協力体制を強固にし、改めて幕府の政治を立て直そう」と主張する者

が現れました。




両者は、

外交と国内状況、両方の問題に目を向け、

現実的にどう乗り切るかという大局的な見方をしている点と、

それが我欲ではなく日本のためと考えている点は同じでした。




外交問題の前に、

まずは「日本の世を立て直すこと」が大切だと
同様に考えますが、相反する答えを導き出します。




前者は「日本のためには、古い考えや体制は足を引っ張る。ゆえに幕府(忠義)は切り捨てる」という道。



後者は「ピンチの今こそ、幕府の恩に報いるために一層支え、幕府と一緒に国難を乗り切る」という道です。




このほか、様々な人が、様々な観点で、様々な思惑を持ち、様々なことを主張します。



例えば、

天皇のご意思にとにかく賛同する人
(ピュアな尊王の精神。勤皇派ともいう。天皇がどのような意図で発言したことなのか深く読み解いたり、現実問題などは考えてない。)


や、



元々幕府に不満を持っていた者で、この好機に「天皇」の名のもとに実権を奪おうと考える者
(本音は自分たちが頂点に立ちたい。天皇はそのための大義名分。)、



討幕派に扇動され、国内の混乱に乗じて「ええじゃないか」と踊り狂う民衆たちなど。






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▼幕末の思想
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お題①
「外国との付き合い方をどうする?」


・開国派
「鎖国を廃止し、諸外国と取引すれば良いじゃない。」

・攘夷派
「いままでの鎖国を維持し、すぐに追い出せば良いじゃない。」

・遠方攘夷派
「今の日本では太刀打ちできないから、まずは開国。諸外国と取引して知識を吸収した後、本当の攘夷を行えば良いじゃない。」


[解説]
攘夷か開国で揺れた鎖国問題は、敵味方関係なく、最終的には全てが「開国派」となりました。ただし新政府側と幕府側で意見が対立したのは、開国するにあたり「どの国と手を組むか」という部分です。戊辰戦争では、それぞれが、外国勢力を後ろ盾につけて戦うことになります。


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お題②
「幕府についてどう思う?」


・勤王派
「天皇・朝廷のために働きます。幕府?とにかく天皇の言うことをききます。」

・倒幕派
「徳川幕府は頼りないです。だから、古い体制の幕府はこの際倒しましょう。」

・佐幕派
「徳川幕府が頼りないのは承知してます。ただし守り抜きます。それが道理です。幕府を立て直すことこそ、日本の危機を乗り越えることに繋がります。」



[補足]
このほか、当時の殆んどの日本人に共通する思想があります。それが「尊王」です。新撰組や会津藩を含む佐幕派(幕府に忠誠を誓う)の者ももちろん尊王の考えがベースにあります。

・尊王派
「天皇がいる日本は神国です。1番は天皇を敬っています。」


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お題③
「これからどうしていきたい?」


・公武合体派(尊王+佐幕)
「とりあえず仕切り直しましょう。幕府の権威を回復するための対策として、幕府と朝廷が仲良くすれば良いじゃない。諸藩の意向も取り入れましょう。」


・尊王攘夷派(尊王+倒幕+攘夷)
「天皇・朝廷を奉り、天皇の意思どおりに攘夷(外国人廃絶)を押し進めます。今まで天皇に代行して幕府が政治を動かしてきましたが、それもやめて、天皇中心の国づくりにしましょう。」


[解説]
結果的には公武合体派の失敗により、時代は倒幕の流れに一気に傾きます。倒幕を推し進めていた「尊王攘夷派」もやがて、「攘夷」を捨て「開国」へと思想を変化させました。

他にも、「尊王+開国」や「尊王+佐幕+開国」、「尊王+佐幕+攘夷」など色々なミックスがあり、同じ派閥同士の中でも意見が割れたり、実に多種多彩な思想がありました。




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▼幕末の人物・藩の思想
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・井伊直弼
黒舟来航時に、幕府の大老を務めるこの人が「開国」か「攘夷」で揺れます。勅許(天皇の許可)なしに勝手に外国と条約を結び、「開国」を強行しました。さらに、意見の会わない「攘夷派」を弾圧したため(安政の大獄)、「幕府」と「朝廷」と「諸藩」が分裂を起こします。最終的には、反感を持った人たちに桜田門の前で殺されます。井伊直弼の死後、最終的には彼が主張していた通りの流れとなりました。このことから、井伊直弼はそもそも殺されるべき人じゃなかった、ただ徳川300年の太平の世に平和ボケした人々には、彼の主張は先鋭的過ぎて受け入れられなかっただけということです。


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・薩摩藩
尊王だけど「徳川幕府」も大事。「開国」思想だけど、天皇の「攘夷論」も解るし~とか揺れていたら、井伊直弼に弾圧されました。井伊直弼の死後に「公武合体」を提案へ。朝廷と幕府、双方が仲良くしましょうってことです。「公武合体」が失敗した後、幕府を見限り「倒幕」急先鋒へ。


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・長州藩
最初は幕府の弱腰姿勢を非難するだけで、倒幕までは考えていませんでした。後に「もう幕府には任せておけない」という「倒幕」思想に変化。鎖国問題は「攘夷」から「開国」へ。


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・会津藩
「尊王」だけど「徳川幕府」にも「忠義」があります。「公武合体」が良いと思います。「倒幕」には反対です。


[解説]
会津藩は太平の世にあっても、日新館や「拾の掟」など、武士としての心構えを脈々と受け継ぎ、古い武士道を重んじ、独自の王国を作り上げていました。会津藩はそれゆえに幕末の情勢の変化などには全然ついていけてなかったそうです。その中にあって、世の中を見越して動いたのが「八重の桜」でおなじみの山本覚馬です。覚馬を輩出した山本家は、戦国時代の名軍師・山本勘助の直系でありながら、先駆けて銃を取り入れた指導をしていた為、会津藩では中々周囲に理解されず不遇な扱いを受けていたそうです。会津藩からは、山本覚馬を含む2名が佐久間象山の塾に入門したそうですが、覚馬は故郷に帰ると、古いしきたりや考えに囚われ、先が見えていない会津の人々の意識を変えようと奮闘します。しかし容易なことではなかったようで、1年間の禁足処分を命じられてしまいます。しかし川崎尚之助などの理解者と共に、常に会津藩のさきがけとして幕末のづ乱の世を生き抜きます。


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・坂本龍馬
こういった様々な「思想」が飛び交う中、志士たちの中には脱藩し、藩などの「派閥」や「思想」に囚われず、どんどん個人で思考を変えていった人たちがいました。坂本龍馬などです。



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▼幕末の思想家①「佐久間象山」
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佐久間象山(さくましょうざん)、ぞうざんとも読みます。幕末の思想家および教育者として、勝海舟や吉田松陰、八重の最初の旦那・川崎尚之助や兄の山本覚馬らにまで大きな影響を与えました。

若い頃は朱子学を学んでおりましたが、藩主・真田幸貫の命令により洋学研究の担当となりました。佐久間象山は西洋兵学を入り口に、西洋学問の第一人者となり日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発まで成功させました。

ペリー来航時は攘夷論を主張しておりましたが、のちに和親開国論者に立場を変更します。

そのような矢先、門弟であった吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こりました。象山も事件に連座して伝馬町に入獄することとなり、更にその後は1862年まで、松代での蟄居を余儀なくされました。

1864年、幕府の命令により上洛。当時、上洛していた一橋慶喜に公武合体と開国の必要性を説くことになります。

しかし当時の京都はわらわたち京都守護職が必須なほどに尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点であり、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には大変危険な場所でした。しかも彼は、京都の街を歩く時にも供の者すら連れませんでした。結果、1864年7月11日に三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺されました。享年54。

象山を斬ったうちの一人、河上彦斎は幕末四大人斬りと呼ばれております。

象山の門下生、象山の影響を受けた人物たちは非常に多く、山本覚馬や秋月悌次郎、吉田松陰をはじめ小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など幕末の中心を担った傑物ばかりでした。

象山は和歌・漢詩にも優れており、

好きな象山の言葉は

謗る者は 汝の謗るに任せ 嗤う者は 汝の嗤うに任せん。天公 本我を知る 。他人の知るを覚めず


(そしる者はそしるままにしておこう、笑う者は笑いたいままに任せよう。天が本当の私を知っている。他人の理解を求めようとは思わない。)


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▼幕末の思想家②「吉田東洋」
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1816年(文化13年) - 1862年5月6日(文久2年4月8日)土佐藩士。父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。室は藩士後藤正澄の三女。号は東洋。幼名は郁助。通称は官兵衛、元吉。諱は正秋。後藤象二郎は義理の甥にあたる。


吉田家は、藤原北家の奥州藤原氏・俵藤太秀郷の支流に出る。土佐国長岡郡江村郷の吉田城を本貫として氏と為した香美郡夜須城主の吉田備後守重俊の孫の吉田俊政(孫助)が直接の先祖である。

戦国時代は、長宗我部元親に仕えた。土佐在郷の名家ゆえ山内一豊の入国後は、一豊から三顧の礼を以って仕官を勧められ、土佐藩の上士として迎え入れられた吉田正義(市左衛門)の嫡流の子孫にあたる。剣術は、一刀流・大石神影流を学んでいる。

高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎などの若手藩士に教授するが、やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。


1857年(安政4年)12月に赦免された吉田は、新知150石役高300石を給され、翌年1月には参政として藩政に復帰する。

法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行する。

しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、1862年5月6日(文久2年4月8日)、帰邸途次の帯屋町にて土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。

享年47歳。この時、遺児の吉田正春はわずか11歳であった。2年後母も病死して孤児となった正春を後藤象二郎が父親代わりとなって育てた。

暗殺直前、吉田は城内にて藩主山内豊範とともに『信長公記』を聴講したが、内容は織田信長が殺害される本能寺の変の段であったことが、のちに吉田暗殺との因果がうかがわせる。