2.アルゼンチンの情熱のハーモニカ奏者ウーゴ・ディアス

不思議な音色のハーモニカ。ハーモニカ奏者ウーゴ・ディアスに関する多くの資料を日本で目にしません。とにかく興味を持ったことを調べていこうと思いました。自分が興味を持ったことを皆さんシェアできたらまた世界が広がるかなあと思う次第です。

 

子供時代

 ディアスは、サンティアゴデルエステロの小さな町の貧しい家族に生まれました。  5歳の時、サッカーボールを打つと視力を失い、ハーモニカを弾くようになりました。  2年後、手術で視力が回復した後、彼はすでに地元のラジオで定期的に演奏していました。

よく盲目の音楽家と目にすることがありましたが、子供時代の一時であったのです。

 

 

ハーモニカ奏者としてのウーゴ・ディアス

ディアスは音楽家として成功しましたが何度もレコーディングしたアバロス兄弟やパーカッショニストのドミンゴ・キュラなど、彼の昔からの仲間を大切にしていブエノスアイレスでデビュー。  1944年には、オデオンレコード、TKレコード、ジョッキー、そして後にRCAレコードと一連のレコード契約が結ばれました彼はタンゴ演奏で主に知られていますが、彼の音楽は、とりわけ彼が育った地方の民俗音楽、チャカレーラ、サンバ、ミロンガカンペラの影響を受けています。

1953年ヨーロッパツアー中に、ディアスはベルギーで有名な二人のハーモニカ奏者,ラリーアドラートゥーツ・シールマンスに出会いっています。

 

※ディアスのジャズの演奏を見つけましたので動画を見つけたので載せておきます。

 彼はまた、米国ではルイ・アームストロングとオスカー・ピーターソンと共演し、ミラノのラスカラではレナータ・テバルディとマリオ・デル・モナコと共演しました。

 

 ディアスは1970年代に彼のタンゴ音楽の遺産の最も重要な部分を記録しました。 彼の最初の3枚のアルバム(Hugo Diaz en Buenos Aires)は、1972年、1973年、1974年まで録音されず、1975年に最後のタンゴアルバム(HugoDíazparaGardel40AñosDespues)を作成しました。

 彼は19771023日に亡くなりました。

 

そしてここにもう一つディアスの生きた時代、すぐ近くアルゼンチンにはアストラ・ピアソラがいました。ピアソラが1921−1992年。ディアスが1927ー1977年の生涯だったのです。

 

ピアソラに関して詳しくはここで書きませんが2人の幼少期にはアルゼンチンにはたくさんのバンドネオンがドイツから輸出されたのです。

 

ピアソラといえばまずタンゴ音楽が頭に浮かぶと思います。アルゼンチン。タンゴは踊りが先にありそこに音楽が取り入れられた。どんどん形式や編成が時とともに変わっていきましたが、ハーモニカ、バンドネオンなどリード楽器が脚光を浴びていた時代に多感な子供時代があったのかと想像できます。その時代の波に二人は乗ったのかと思ったのでした。

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。これからも気がついた事補足していく予定です。

※ウーゴ・ディアスの情報はアルゼンチンでもそれほどあるわけではないみたいですが”A los Cuatro Vientos”という映画がありこれは彼を讃えての映画(スペイン語)のようです。

HITOCO

 

 

 

 

 

 

 

 

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