その行為はただの親切心なんだけど。

 

 

私は誰かに何かを譲ることをしたくない。

 

 

 

例えば車で道を譲ったとしよう。

 

ただの親切心だ。

北海道の冬場は特に道路を行きかうのが大変だから。

 

 

こっち側に広い地帯があったから譲った。

 

 

なぜ、クラクションを鳴らすんだ。

 

 

お礼のクラクションだと言われたところで

私にとってはただの迷惑行為でしかない。

 

 

親切心で譲ったのに嫌な思いをさせられる。

 

 

 

クラクションは危険を知らせるために鳴らすものであって

お礼で使うとか不快な音でしかないのに理解できるはずもない。

 

去り際にクラクション鳴らすのも意味不明。

誰か死んだのかよ。

 

 

なんにせよ。だから私は車で道を譲りたくない。

どうせ嫌な音を鳴らされるのなら嫌なシチュエーションでならされた方が幾分かマシ。

 

 

いい気分を嫌な音で塗り替えられたくない。

 

 

レジで並んでいる時に自分が30個だったとしよう。

 

 

自分の次の人が3個だったとしよう。

その次の人が2個だったとしよう。

そしてその次の人が5個だったとしよう。

 

 

3個と2個には譲ったのに5個には譲らなかったら結局30個待たなければならない5個が存在するわけ。

 

 

やるならとことんやれよと思う。

せめて30個分譲れよと思う。

 

 

親切をされた人と親切を逃した人では親切を逃した人の方が記憶に残るんだ。

 

 

 

 

誰かを傷つけてきた分、手の届く範囲の人を救いたい。

立派な考えだと思うし私もそう思っている。

 

 

でも、繰り返し浮かんでくる。

 

 

結局自分が過去に傷つけた人は傷つけたままなんだって。

 

 

謝ったりなんだりしたところで解決できる問題でもない。

ただ、そうやって現実から逃げているんじゃないかと苦しくなる。

 

 

だからといって何もしないよりは何かした方がいい。

でも、繰り返し浮かんでくる。

 

 

如何に人が忘れていくことで生きていけるのかと感じる。

 

 

 

物の覚え方や習得の仕方は習うけど、

物事の忘れ方は誰も教えてくれない。

 

 

時が解決してくれるとか自然と忘れるとか。

それが出来ていれば訊ねたりなんかしない。

 

 

嫌な記憶の始まりは全部ひとつなぎで覚えている。

 

 

1つを思い出すと次々と連なって出てくる。

 

 

幸せな記憶は結構簡単に忘れられるんだけどね。

 

 

 

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