見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

飯田覚兵衛の墓・放牛石仏(地蔵)16・9・13・39・24体目

飯田覚兵衛の墓・放牛石仏(地蔵)16・9・13・39・24体目
2021/10/23(土) 晴

夏の暑い間ほっておいた家周りの手入れもしなければならないが、明日は自転者には乗れないので、最高気温予報22°の秋日和に今日も午後13時半からポタリングに出る。
目的地を細工町阿弥陀寺の「飯田覚兵衛の墓」、崇禅寺の放牛石仏16体目、春日3丁目の放牛石仏9・13・29・無番号3体、護藤町の放牛石仏24体目とする。

新幹線側道を南進し、先ずは崇禅寺(写真1参照)を訪ねる。山門横に一町一寺の説明板と案内地図がある。


放牛石仏は、境内入って右側の本堂横(写真2参照)に鎮座する。


「放牛石仏16体目台石」(写真3参照)とあるので、石仏は復元されたものか?


崇禅寺を後にして阿弥陀寺(写真4参照)に移動する。
「豪潮律師建立の宝篋印塔」の標柱があるが、沢山の石塔がありどれが宝篋印塔かわからなかった。(参照:玉名の豪潮式宝篋印塔


本堂横を奥に行った正面に沿革を記した石碑(写真5参照)がある。
碑文は、「阿弥陀寺は、大寳三年(703年)行基菩薩の開基になるもので、その後鎌倉時代に浄土宗鎮西派の蓮阿上人が肥後へ入国したときに再興した。万日山頂から白川岸(下川原公園)を経て慶長年間の度慶誉上人のときに現在地に移転した。その間「東」「西」「紺屋」の三阿弥陀寺町を町名に残している。
昭和二十八年の熊本市全域に及ぶ大水害の被害にあい白川からの流水のため墓碑の一部が倒壊し埋没した。さらに、近年は数ある大木で墓碑が破壊される状況となった。このため工事に従事し、埋没した墓碑を掘り起こし、佛の供養のためここに無縁供養塔を建立した。」とある。


本堂裏手に格式の高そうな石塔(写真6参照)がある。


その内一際大きい石塔が「飯田覚兵衛の墓」(写真7参照)との標柱がある。


説明文(写真8参照)には、「幼少の頃より加藤清正の竹馬の友として育ち、天草志岐氏の攻略や朝鮮の役にて活躍し、加藤家三傑の一人といわれています。また、土木普請事業においても才腕を振るっており、熊本城の飯田丸(写真=熊本地震以前)は覚兵衛が築いたものといわれています。清正の死後、加藤家を退身して黒田家に仕え、後に京都に移り住んで寛永九年(1632)九月十八日に亡くなりました。この墓は供養塔です。」とある。


阿弥陀寺を後にして春日3丁目放牛石仏(写真9参照)に移動する。
春日神社と背中合わせの位置にある。


名札には、「放牛石仏九・九十三・七十九体目」、「放牛石仏無番号三体」(写真10参照)とある。


石仏七体(写真11参照)が鎮座する。一番大きいものに「九」の字が読める。他は、光背に「他力放牛」と読めるものがあるが、詳細は分からない。


次に護藤町に移動する。石仏は、龍王神社(写真12参照)の道向かいに鎮座する。


「放牛石仏24体目」(写真13参照)は、ブロック造りの小堂に鎮座する。ここの「放牛さん」も地域に大切にされているようだ。


現在時刻13時、自宅まで1時間の帰途に就く。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)28km→龍驤館→熊本(自宅)
所要時間2.5時間(実2時間) 総計28km 走行累計43,513km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「放牛石仏(地蔵)探訪記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事