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熊本から気ままに山と自転車のブログ

北原松右衛門ぜき

北原松右衛門ぜき
2021/10/1(金) 晴

今日の最高気温予報31°週間予報を見ると32°33°と続く。ならば31°は好日と、午前9時半からポタリングに出る。目的地は、和水町の町指定文化財北原松右衛門堰とする。

今日は、熊鹿ロード終点まで2時間、平均時速15km/h超で走れた。終点からは、国道443を走る。和水町で県道6と交差するが、ここを左折して十町川の左岸側から堰と川下側(写真1参照)を見る。


傍に大正時代に建立された「北原松右衛門翁頌徳碑」(写真2参照)がある。
説明板が堰の彼岸に見えるので移動する。


十町川の右岸側から堰と川上側(写真3参照)を見る。


堰の守護神か祠(写真4参照)がある。


説明板(写真5参照)には、「北原松右衛門(きたはらまつえもん)は、寛延元年(1748)玉名郡南関手永平野村の農家に生まれました。若い時から人望があり、一八歳で頭百姓、ニ八歳で手永横目、そして三七歳で庄屋となり、八五歳で職を辞するまでの四八年間を庄屋として勤め、弘化元年(1844)九七歳で亡くなりました。
当時の平野地区は、農業用水に恵まれず、水田が少なくて村民の生活は、非常に苦しいものでした。そこで松右衛門は、農業用水の確保を目指して平野井手の構築を思い立ち、享和三年(1803)に郡代の許可を得て、和仁川と十町川の合流点のすぐ下流で井手の構築に嫡子まし、幾多の困難と妨害を克服しながら、六年の歳月をかけて文化六年(1809)に完成させました。「せき」の近くにには、水の量を調節する水門を設け、川の対岸にはサイフォンの原理を応用して、川底に松の木で作った管(底樋)を通して水を送り、堰本体の水たたきや川床を保護するために大きな石を敷詰めるなどいろいろな工夫が凝らされています。また、洪水の際、菊池川本流からの逆流での被害を防ぐため、山腹に「真府」と呼ばれるトンネルを文政十三年(1830)に完成させたのは、次の庄屋の緒方勘左衛門です。
この「せき」の完成により、以後一三九〇間余(約2.7km)の水路が巡らされ、開田は、一三町歩余(約13万㎡)にも及び、村民の生活は次第に豊かになっていったと伝えられています。」とある。


説明板の下流に、復元された樋門(写真6参照)がある。


その説明板(写真7参照)には、「平野井手の樋門享和三年(1803)・・・文化六年(1809)に平野堰を完成させた。・・・渇水は解消された。
取水量を調節する樋門、より遠く、より広範囲に送水するためにサイフォンの原理を応用した水路、トンネル状の水路である真府、堰堤水たたきや川床を保護するために敷きつめられた石畳など現代の土木工事に引けを取らぬような技術が施され、長年にわたり利用されていた。しかし、河川改修の実施に伴い、昭和六十二年度に水路を含めた上部工事が施工され、百八十年もの間堤防の下に隠れていた樋門が、そのままの姿でこの場所に復元された。」とある。


帰路は、和水町「菊水ロマン館」で弁当を買い、北側の江田川河川敷広場(写真8参照)の緑を見ながら昼食とする。隣では、デイキャンプの親子4人連れも楽しく食事をしていた。


午後4時帰宅した。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)39km→北原松右衛門堰35km→熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計74km 走行累計43,059km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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