織田信長の年表ちょっと詳しめ 元亀3年の大和動乱

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織田信長の年表ちょっと詳しめ 元亀3年の大和動乱
  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572 6.) 当該記事
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

この年表の見方

  • 当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている
  • 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字
  • 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン
  • 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン
  • 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1日で1つ歳を取る
  • 太陽暦、太陰暦がある。当サイトでは、他のサイトや歴史本と同じように、太陰暦を採用している。中には「」なんていう聞きなれないワードがあるかもしれないが、あまり気にせず読み進めていってほしい
  • キーとなる合戦、城攻め、政治政策、外交での取り決めは青太文字
  • 翻刻はなるべく改変せずに記述した。そのため、旧字や異体字が頻繁に登場する。しかしながら、日本語IMEではどうしても表記できない文字もあるため、必ずしも徹底しているものではない。
  • 何か事柄に補足したいときは、下の備考欄に書く

元亀3年(1572)

39歳

奇妙丸元服し勘九郎信重と名乗る

この頃

信長嫡子奇妙丸、元服か。
勘九郎信重と名乗る。

1月14日

石山本願寺門跡の顕如、武田信玄(徳栄軒)へ信長の背後を脅かす旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

厥後兎角打過様候、連年異于他申談之儀、今以彌御入魂本懐候、仍太刀一腰吉包、腰物兼光、黄金五拾両推進之候、聊表音問計候、就中今般信長働無其隠事候歟、對當寺條々無謂次第、不能申展候、今春令上洛攝河表可出馬之由其聞候、随而彼軍兵等被相支之、其上當寺屬本意様御調略、可爲快然候、委細難盡紙而候、長延寺龍雲齋可申入候、偏御思慮之外無他候、猶上野法眼可令申候、———
   正月十四日   —御判無之

   徳榮軒

※他にも同日付の顕如書状で上杉謙信に対する対策を記したもの(信玄宛)、今後とも昵懇に願う旨(四郎勝頼宛)の書状あり。

 (備考)
武田信玄は公家の三条家の息女を正室にしているが、その妹を顕如が娶っていた。
そうした繋がりから、本願寺は信玄に依頼したと考えられる。
しかし、当時の信玄は織田家との友好関係を保っており、武田家は本願寺-織田間の和睦に奔走することとなる。(元亀3年9月10日付顕如書状参照)
なお、信玄からも越後や能登・加賀の一向一揆門徒衆の蜂起を依頼している。

1月19日

明智光秀、吉田神社の吉田兼和(兼見)を訪れ、念頭賀使をする。『兼見卿記』

1月21日

吉田兼和、近江坂本に下り明智光秀を訪問。『兼見卿記』

同日

信長、飯川信堅と曽我助乗に宛てて、大坂への派兵を伝える。『実相院及東寺宝菩提院文書(尊経閣文庫所蔵)』四

中嶋、高屋表調儀之子細候間、為行柴田修理亮差上候、御出勢之儀被仰出、各無弓断可被相働事簡要候、為天下候間、各軽々与出陣可然存候、此等之旨可被達上聞候、恐々謹言
  正月廿一日    信長(朱印)

   飯河肥後守殿
   曽我兵庫頭殿

(書き下し文)
中嶋・高屋表調儀の子細候間、てだてとして、柴田修理亮しゅりのすけ(勝家)差しのぼせ候。
御出勢の儀仰せ出され、おのおの油断無く相働かれるべき事簡要に候。
天下のために候間、おのおの軽々と出陣然るべくと存じ候。
これらの旨、上聞に達せらるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
昨年末、細川昭元は足利義昭に降った。
河内若江城主の三好義継・大和多聞山城主の松永久秀らは、安見新七郎(河内畠山氏の被官)の河内交野かたの城を攻撃する。
そこで信長は、大坂の中嶋・高屋地域を平定するため、柴田勝家(修理亮)を派遣したことを将軍足利義昭に伝えた。
加えて幕府側からも兵を出すことを催促している。
宛名となる飯河信堅(肥後守)は幕府申次衆・曽我助乗(兵庫頭)は幕府詰衆である。

1月23日

佐久間信盛、近江高野荘の一向宗坊主および地侍らへ、親類の者が六角氏に味方しないように起請文(誓詞)の提出を求める。『福正寺文書』

佐々木承禎父子、一向之僧侶をかたらい、三宅、金森之城ニ立籠候、就夫南郡一向之坊主、地子長之輩、一味内通致間敷由、此度信長より被仰出畢、依之面々誓署、請書御取収可有之旨、御治定間、被得其旨、親類之物共たり共、一味内通仕間敷由、御請書之連署可被具見参候、猶違之輩ニおゐては、急度御仕置たるへし、此趣可承引候也、

           佐久間右衛門尉
 正月廿三日         信盛(花押)

  南郡高野庄
   坊主中
   地士長等中

(書き下し文)
佐々木承禎じょうてい父子、一向の僧侶をかたらい、三宅・金森の城に立て籠もり候。
それに就きて、南郡一向の坊主・地士長のともがら、一味内通致すまじきの由、このたび信長より仰せ出されおわんぬ
これにより、面々の誓署・請書を御取り収め有るべきの旨、御治定の間、その旨を得られ、親類の者どもたりとも、一味内通仕るまじきの由、御請書の連署をつぶさに見参せらるべく候。
なお違のやからにおいては、急度御仕置たるべし。
この趣き承引すべく候なり(以下略)

 (備考)
この信盛の要請により、彼らが起請文を提出にしたのは本年3月19日のこと。
その60通は勝部神社に納められ、別当寺の天台宗三光院宝勝寺に残っているようだ。『栗太志 十三』
信盛らが金ヶ森城・三宅城を攻め降すのは7月のことである。

1月28日

信長、伊勢亀山の関盛信(安芸守殿)へ返書を発給。『関文書(一月二十八日付織田信長黒印状)』

 (端裏ウハ書)
「関安芸守殿 信長」

為年甫之祝儀、太刀一腰・馬一疋祝着之至候、寔慶事珍重
候、猶柴田修理亮可申候、恐々謹言
  正月廿八日     信長(黒印)

   関安芸守殿

(書き下し文)
年甫の祝儀として、太刀一腰・馬一疋祝着の至りに候。
誠に慶事珍重に候。
尚柴田修理亮(勝家)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
関一党の神戸友盛が和して信長三男を養子に迎えたこともあり、関本家の関盛信も信長に臣従することになった。
盛信は亀山城主で、近江の蒲生定秀女が後妻になっている縁もあって、先に信長に属した蒲生氏の説得もあったという。
これは、関盛信の年頭礼に対する信長の返書である。

[参考]

元亀二辛未かのとひつじ年正月、神戸蔵人友盛公隠居し玉ふ、其子細ハ初神戸家男子なき故、兼而関盛信の子息勝蔵殿を養子にせんと約有しに、引替て三七君を名跡ニ居玉ひ候程に、関も神戸も其趣意有て三七君心よかざる仕方等相聞へける故、信長公憤り、蔵人友盛公年賀を申上ん為安土参勤有しを留置、国へ帰らしめず、日野蒲生左京太夫秀賢に預らる、則三七君を継目立られ、神戸三七信孝と号す、此節可夕入道に可奉仕よし進メ給へども、年老たりと称じて不奉仕、嫡子五郎右衛門甥の次右衛門を召出されん事を乞ひ、奉仕して使番と成、黄母衣七騎の列と成る、又信孝公は高岡の城を守りし山路弾正に腹切らせ、高岡の城を三七君同母の舎弟小嶋兵部少輔に渡さる、それによりて神戸の諸士、信長公を恨て信孝公に帰服せす、百弐拾人浪人せし也、残りし侍四百八十人衆と言て信孝公へ仕へ諸事一味せり、其侍ニ者城治郎左衛門・川北喜兵衛・太田丹後・太田監物・矢田部掃部・高野五郎右衛門・佐々木隼人・片岡平兵衛・正田助右衛門等なり、

   『高野家譜』より抜粋

 (備考)
永禄11年(1568)の信長の北伊勢侵攻によって、関一党の神戸友盛は合戦の末和睦し、信長三男信孝を神戸家の養嗣子とした。
関本家盛信の子・勝蔵盛清を養子にするはずであっただけに、友盛も内心不満であったらしい。
元亀2年(1571)に信孝が家督を嗣ぐ事情や旧臣たちが帰服しない様子を述べている。
高野可夕は神戸具盛の三男、高島政光は具盛二男でともに分家した。
のち、政光の孫が神戸友盛の養子となって神戸外記政房と称し、蒲生氏郷に仕えた。
ちなみに、のちに神戸政房・良政父子は『勢州四家記』『勢州軍記』を編述している。
この史料は家譜として書かれたものではあるが、他書にない事情も述べているので無視できない。

同日

甲斐の武田信玄、信長側近の武井夕庵せきあんへ北条氏政と和睦したことを伝え、今後も織田家とは懇意にしたいとする旨の書状を発給。『武家事紀 三三(国立国会図書館所蔵文書・武田信玄書状写)』

依遼遠之堺、無音意外候、如露先書候、甲・相存外遂和睦候、就之例式従三・遠両州可有虚説歟、縦扶桑国過半属手裏候共、以何之宿意信長へ可存疎遠候哉、被遂勘弁、佞者之讒言無油断信用候様、取成可為祝著候、仍近日者輝虎甲・相・越三国之和睦専悃望候、雖然存旨候之間、不致許容候、委曲市川十郎右衛門尉可申候、恐々謹言
  正月廿八日  信玄(花押を欠く)

     夕庵

(書き下し文)
遼遠の堺(大阪府)よりの無音ぶいん意外に候。
甲(武田信玄) 相(北条氏政)は存外に和睦を遂げ候。
これに就きて礼式に従い、三(三河国) 遠(遠江国)両州、虚説あるべく(候)か。
たとい扶桑国過半が手裏に属し候とも、宿意(前々からの恨み事)何れも以て信長へ疎遠に存ずべく候や。
勘弁を遂げられ、佞者ねいじゃ讒言ざんげん、信用油断無き候様、然りといえども、存じ旨候の間、許容致さず候。
委曲、市川十郎右衛門尉申すべく候。恐々謹言
  (元亀三年)正月二十八日 信玄 (花押を欠く)

          夕庵(武井夕庵)

 (備考)
北条との和議が成立した旨を伝え、例え日本の過半が敵になろうとも、信長のことを決して疎意にはしないと誓っている。
その上で、妄者の讒言に惑わされてはならないと信長を安心させつつ、脅しともとれる文言が書き連ねられているのが面白い。

1月30日

信長、腫物を患う松井友閑のために、近江芦浦観音寺に滞在する耶蘇会宣教師の医師を招致する書状を発給。『観音寺文書』

正月晦日付け織田信長朱印状+釈文

『観音寺文書(正月晦日付織田信長朱印状)』

 (備考)関連記事:【古文書講座】信長が病の家臣を気遣い、わざわざ宣教師の医者を呼んだ時の書状

1月

横山城在番の木下秀吉、参賀の挨拶で岐阜へ赴く。
その隙をつき、浅井勢が横山城を攻撃するも、竹中重治(半兵衛)によって撃退される。
『北畠物語』『柏崎物語』

 (備考)
一次史料にはこのことについての記述がなく、『原本信長記(信長公記)』にも存在しない。
※以降『信長公記』と記す。

閏1月4日

遊佐信教が河内高屋城の畠山秋高を生害させようとしたが未遂に終わる。『多聞院日記 十八』


一、遊佐殿高屋ニテ屋形ヲ生害サセ、ソンシノカレ了ト、

   『多聞院日記 十八』閏正月四日条より

閏1月13日

足利義昭、毛利・浦上・宇喜多三氏の和約を斡旋する旨の書状を発給。
取次は柳沢元政である。『柳沢文書 四』

 (備考)
同年4月5日付で、織田信長も和約を斡旋する旨の書状を発給。『吉川家文書 一』
さらに義昭は4月13日付で改めて同様の書状を発給している。 『吉川家文書 一』

閏1月20日 暁

大和国奈良で大地震が発生。
「火神動」との風聞が立つ。『多聞院日記 十八』


一、廿日ノ暁大地震了、火神動云々、人民死日損ニ當ル歟、
 (一、二十日の暁、大地震おわんぬ。火神動くと云々うんぬん。人民死に日損(ひそん=日照りのために田畑が乾いて損害を受けること)に当たるか。)

一、近般サル澤ノ池へ天照太神御移トテ、團粉シテマイラスルコトヽ申、万方ヨリタンコマイラスル由也、池水赤土ヲコ子タルやうニ色カヘルト申、如何、凶事ト云々、
 (一、近般さる沢の池へ天照大神あまてらすおおみかみ御移りとて、団子(?)してまいらすることと申し、よろず方より団子(?)まいらする由なり。池の水赤土(ヲコ子タルやうニ 申し訳ありませんがここわかりません)色変えると申す。如何いかが、凶事と云々。)

  『多聞院日記 十八』閏正月二十二日条より

閏1月22日 黄昏時

謎の未確認飛行物体が奈良中を飛ぶ。『多聞院日記 十八』


一、昨夕入逢ノ時分ニ、アカリ障子程ナル光リ物、南ヨリ北へ飛行、ナラ中各ヽ見了ト、希代ノ凶事如何、心細キ者也、去五日ノ夜モ飛了、近日大地震了、凶事打續いかゝ、信長數万ノ人數ニテ上ル由申、爰元可相果前相歟、抑々、
 (一、昨夕入相いりあいの時分に、明り障子ほどなる光り物、南より北へ飛行。奈良中各々見をばと、希代の凶事如何いかが、心細きものなり。去五日の夜も飛びおわんぬ。近日大地震をば、凶事打ち続き如何。信長数万の人数にて上ると申す由、爰元ここもと相果てる前相(ぜんそう=前兆)か。抑々。)

  『多聞院日記 十八』閏正月二十三日条より

閏1月28日

織田の臣当以、美濃立政寺へ宛て制札銭の件について書状を発給。『立政寺文書 一』

 尚々、我等へ百疋如何之義候、則返進申事候、今度御用ニ立候て、我等大慶不過之候、寺僧同前之事候、御隔心ハいわれさる義候、少取乱候間、浅筆候、猶追而可得其意候、いまた其許不相静之由、万々無御心元候、

尊札本望之至候、仍御制札銭之事、具令披露候処、当寺之儀者、不混余事候条、御両殿前久太郎より御澄有へき由候、先以可御心易候、併御両僧令談合、三百疋之通持参之躰、申聞候、御懇情之旨、自我等可申達ニ候、猶御両僧、爰元之様子御物語有へく候、扨々、近日ハ無音背本意候、御床敷奉存迄候、必々以参可申上候、恐惶謹言
    後正月廿八日      当以(花押)

     立政寺
        尊報

(書き下し文)
尊札本望の至りに候。
仍って御制札銭の事、つぶさに披露せしめ候のところ、当寺の儀は、余事を混せず候条、御両殿前(信長と奇妙丸カ)久太郎(堀秀政)より御済まし有るべき由に候。
先ず以って御心安かるべく候。
しかし、御両僧談合せしめ、三百疋の通り持参のてい、申し聞かせ候。
御懇情の旨、我等より申し達すべきに候。
なお御両僧、爰元(ここもと)の様子御物語有るべく候。
さてさて、近日は無音(ぶいん)本意に背き候。
御床敷く存じ奉るまでに候。
必々参を以て申し上ぐべく候。恐惶謹言
    後(閏)正月二十八日      当以(花押)
     立政寺
        尊報

 尚々、我等へ百疋如何の儀に候。
則ち返進申す事に候。
今度御用に立ち候て、我等大慶これに過ぎず候。
寺僧同前の事に候。
御隔心はいわれざる儀に候。
少しく取り乱し候間、浅筆候。
なお、追ってその意を得るべく候。
未だ其許(そこもと)相静まらざるの由、万々御心許無く候。

 (備考)
当以の詳細は不明だが、堀秀政の臣だろうか。
年次についても断定できないが、「後正月廿八日」とあることから元亀3年(1572)である可能性が高いか。

2月8日

本年1月30日付の芦浦観音寺へ薬師の派遣を要請した件で、武井夕庵せきあんが改めて薬師派遣を催促する。『観音寺文書』

友閑腫物煩ニ付て、其方ニ候外教くすし早々被遣之様ニと殿様直々御折帋被遣候、于今其御返事無之、くすしも不被越候、如何なる御事候哉、早々御越あるやう、夫丸、馬之事ハ佐甚九へ成共、貴所御馳走候て成共、被仰付候て、早々御越待申候、恐々謹言
  二月八日     夕庵
             爾云

   あし浦
    観音寺
      玉床下

(書き下し文)
友閑(松井友閑ゆうかん腫物はれもの煩いに付きて、その方に候外教げきょうくすし、早々遣わさるるの様にと、殿様直々御折紙おんおりがみ遣わされ候。
今にその御返事これ無く、くすしも越されず候。
如何なる御事おんことに候
早々御越しあるよう、夫丸ぶまる・馬の事は、佐甚九(佐久間信栄)へなりとも、貴所御馳走候てなりとも、仰せ付けられ候て、早々御越し待ち申し候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
夫丸(ぶまる)とは人夫・人足のこと。
折紙・折帋(おりがみ)とは一枚の紙を半分に折ったものを指すが、ここでは単に書状という解釈で良い。
佐久間信栄(甚九郎)は佐久間信盛の嫡男。
松井友閑ゆうかんと武井夕庵せきあんは信長の祐筆兼側近である。

「今にその御返事これ無く、くすしも越されず候。如何なる御事に候哉。」としていることから、芦浦観音寺からの返事がなかったようである。
当時、芦浦観音寺には耶蘇会(カトリック教徒の一教団)の一団が滞在していた。
恐らく外教げきょうくすしとは彼らのことだろう。
この時代の日本医学は、それなりに内科は発達していたものの、外科では進歩が遅れていた。
宣教師は布教の方便として医療にも従い、弟子も養成していた。

2月21日

正親町天皇、伊勢の周養上人へ綸旨を下す『慶光院文書』

 (包紙ウハ書)
「伊勢国住人
    周養上人御房  左中弁晴豊」


大神宮仮殿造替事、任清順上人例、以諸国之奉加、可致其沙汰由、尤神妙被思食畢、然者、弥凝無弐之丹心、早可遂造畢之成功之由、
天気所候也、仍執達如件
   元亀三年二月廿一日   左中弁(花押)


 伊勢国住人
   周養上人御房

(書き下し文)
 (包紙ウハ書)
「伊勢国住人
    周養上人御房  左中弁晴豊(勧修寺晴豊)」
大神宮仮殿造替の事、清順上人の例に任せ、諸国の奉加を以て、その沙汰致すべきの由、もっとも神妙に思し召されおわんぬ
然らば、いよいよ無二の丹心を凝らし、早くこれを造り遂ぐべく功を為すの由、天気候ところなり

仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
「天気候ところなり」は所謂綸旨の決まり文句。
他にも「天気かくの如し」などがある。

江北の浅井領へ出兵

3月3日

織田信長、永田景弘(刑部少輔殿)へ来たる3月7日に江北小谷口を攻めるので、鋤・鍬を持参して参陣するようにと通達する。(近江永田景弘宛織田信長朱印状写)『武家雲箋』『武家事紀』二十九

急度申遣候、来ル七日於江北小谷口相働、不違時刻、不寄老若、彼表江可打出候、仍執出可相構候間、鋤、鍬以下申付、可令持候、為其廻状差越候、恐々
   三月三日    (信長朱印)

 天正元也
    永田刑部少輔殿

(書き下し文)
急度申し遣わし候。
来たる七日、江北小谷口に於いて相働き、時刻を違えず、老若に寄らず、かの表へ打ち出でるべく候。
仍って砦を相構うべく候間、すきくわ以下申し付け、持たしむべく候。
そのために廻状まわしじょうを差し越し候。恐々(以下略)

 (備考)
永田氏は近江八幡永田の土豪。
永禄11年(1568)に信長が六角氏を攻めた際、後藤・進藤・永原・池田・平井・久里とともに信長に内応した。
この文書は鋤・鍬を持参するようにと命じているのが興味深いが、年次を天正元年(1573)としているなど疑問が残る。
天正元年(1573)だと信長は江北へ出陣できる余裕はないため、この書状が本当であるならば元亀3年(1572)だろう。
単なる写しを作成した者の認識違いか。
なお、同様の内容を記した書状は大和の松永久秀にも発給されているが、こちらも疑問。(宛名が山城守ではなく弾正)『願泉寺文書(七月一日付織田信長書状案)』

3月5日

信長、浅井長政討伐のため岐阜城を発す。
その日は美濃赤坂に着陣。『信長公記』

3月6日

木下秀吉の横山城に入る。『信長公記』

3月7日

小谷と山本山の間に野陣を張り、余呉・木ノ本辺りを放火。
浅井長政を挑発する。『信長公記』

3月9日

浅井長政は出撃せず、信長は横山城に帰る。『信長公記』

3月10日

近江常楽寺に泊まる。『信長公記』

3月11日

信長、志賀郡へ兵を出し、和邇わにに着陣。
木戸・田中に砦を築き、明智光秀(十兵衛)・中川重政(八郎右衛門)・丹羽長秀(五郎左衛門)を入れ置く。『信長公記』

3月12日 未刻

信長、兵700を率いて上洛。
妙覚寺に寄宿する。『信長公記』『兼見卿記』

同日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督さえもんのかみ殿)へ援軍の祝儀として進物が届いたことを謝す旨の書状を発給。 『顕如上人御書札案留』

就縁邊之儀、只今太刀一腰長次馬一疋鴾毛十種十荷誠以喜悦至候、長久可申断事勿論候、委曲下間上野法眼可申入候、穴賢
   三月十二日

   朝倉左衛門督殿

○同時新門主へも一腰、一疋、十種十荷代萬疋、織物三端、引合十帖被進之候、上野法眼まで披露在之、これは上野わたくしより返事を申也

(書き下し文)
縁辺に就きての儀、只今太刀一腰(長次)・馬一疋鴾毛つきげ)・十種十荷誠に以て喜悦の至りに候。
長久に申し談ずべき事勿論に候。
委曲下間上野法眼(下間頼総)申し入るべく候。穴賢あなかしく
   三月十二日

   朝倉左衛門督殿(朝倉義景)

○同時に新門主(本願寺教如)へも一腰・一疋・十種十荷代万疋・織物三端、引合十帖これをまいらされ候。
上野法眼(下間頼総)披露これあり。
これは上野わたしくより返事を申すなり。

3月14日

伊勢国司北畠家の一族である坂内顕昌さかないあきまさ、元服か。『御湯殿上日記』

「いせのさかない子けんふくとて、源顕昌、従五位下、同侍従の事申、ちよつきよ」

 (備考)
坂内具貞(具信)の子である可能性が高い。
坂内氏はもともと、北畠一族の木造氏を祖としているが、その後もたびたび北畠本家からの養子を迎え、当主としている。
特に戦国時代初頭は、坂内房郷が国司の舎弟として手傷を負いながらも活躍する姿が『大乗院寺社雑事記(文明九年五月二十六日条)』に見える。

その後も、北畠庶流として忠節を誓い、織田信長とも戦うが、のちに三瀬の変で北畠一族が悉く成敗された際に、坂内父子も討ち取られている。「坂内入道父子其外国司ノ一族トモ不□(残カ)可誅ト也、」『木造記(諸学聞書集本)』

具貞にはもう一人の子があり、その人物が坂内亀寿丸である。
彼が三瀬の変で、一族が不慮の出来事に見舞われたことを物語る史料がいくつか存在する。『坂内文書(天正五年)九月十二日付武田勝頼書状(坂内亀寿殿宛)』・『坂内文書(天正四年)十二月十八日付六角承禎書状(坂内亀寿殿宛)』・『(天正五年)三月六日付真木島昭光書状(坂内殿宛)』など。
これらの翻刻は『三重県史 資料編 近世1』に所収されている。

3月19日

南郡高野庄・坊主中・地士長等中ら、佐久間信盛に六角氏へ内通しない旨の起請文(誓詞)を提出。『勝部神社文書』

  敬白天罸霊社起証文之㕝、

一、金森、三宅江出入、内通一切不可仕㕝、
右之両城江自然出入之輩在之者、任御高札之旨、雖為六親、見隠不聞隠、御注進可申上㕝、

一、万一従当郷出入、内通之輩、聞召於被出者、親類、惣中共、可被加御成敗之事、

右此旨於偽者、我心ニ奉願御本尊幷霊社起請文之御罸、深厚可罷蒙者也、

元亀三年三月廿四日   駒井さわ村惣代
              兵衛五郎(略押)
              甚左衛門(略押)
            集村惣代
              駒井兵庫介(略押)
              同左近六郎(略押)
              源太郎兵へ(略押)
            進堂村惣代
              源太郎(略押)
              右近四郎(略押)
            大萱村惣代
              磯部修理之進(略押)
               勝俊式内
             浄翁(略押)
             了慶(略押)
            穴村惣代
              直六郎(略押)
              兵衛五郎(略押)

  御両三人
   御奉行中旨

(書き下し文)
  敬白けいびゃく天罰霊社起証文きしょうもん前書の事、

一、金森・三宅へ出入、内通一切仕るべからざるの事。
右の両城へ自然出入りの輩これ在らば、御高札の旨に任せて、六親ろくしんたりといえども、見隠し聞き隠さず、御注進申し上ぐべきの事。

一、万一当郷よりの出入り、内通の輩を、聞こし召し出さるるに於いては、親類・惣中どもに御成敗を加えらるべきの事。

右、この旨偽るに於いては、我心に願い奉る御本尊ごほんぞん並びに霊社の起請文の御罰を、深厚に罷り蒙るべきものなり(以下略)

 (備考)
本年1月23日に佐久間信盛が求めた起請文が、このたび提出されたものである。
本状は牛王宝印ごおうほういんの神符を裏返して記されている。
同起請文の前書で三月十九日付のもの、二十一日付のものがあるのを確認している。

駒井さわ村は現在の草津市駒井沢町
集村は現在の草津市集町あつまりちょう
進堂村は現在の草津市新堂町
大萱村は現在の大津市瀬田南大萱・草津市北大萱
穴村は現在の草津市穴村町

上京の信長御座所 着工が始まる

この頃

将軍足利義昭、信長が京都に邸宅を構えないのを不憫に思い、上京の武者小路の地を信長の御座所として宛行う。『信長公記』『兼見卿記』


三月十二日 (闕字)信長公直尓御上洛、二條妙覺寺御寄宿、迚も細々御参洛の條 (闕字)信長公御座所無之候てハ、如何之由にて上京むしやの小路尓あき地の坊跡在之を、御居住尓可被相構の旨、被達 (闕字)上聞候の處、尤可然之由、被仰出、則従 (闕字)公儀御普請可被仰付之旨の御斟酌被及數ヶ度候、頻 (闕字)上意之事候間被應 (闕字)御諚、尾濃江三國之御伴衆者御普請被成、御赦免不仕候、畿内之面々等在洛尓て候、

  『原本信長記』巻五 むしやの小路御普請の事より抜粋

(書き下し文)
三月十二日。
信長公は直に御上洛。
二条妙覚寺に御寄宿。
とても細々御参洛の条、(公方様は)信長公御座所これ無く候ては、いかがの由にて、上京武者小路に空き地の坊跡これ有るを、御居住に相構えらるべきの旨、上聞を達せられ候のところ、尤も然るべきの由、仰せ出され、すなわち公儀より御普請仰せ付けらるべくの旨の御斟酌、数ヶ度に及ばれ候。
しきりに上意の事に候間応えられ、御掟おんおきてを尾・濃・江三国の御伴衆は、御普請御赦免なされ(作業を)仕らず候。
畿内の面々等、在洛にて候。

 (備考)
信長は京都に自身の邸宅を構えず、上洛の際は妙覚寺や本能寺、医師半井氏の屋敷などを臨時で借りていた。
義昭はこれを不憫に思い、義昭は信長に上京の武者小路徳大寺邸の跡地を宛行った。
従来の研究では、義昭は反信長陣営と繋がりつつ、信長とも懇意に接していたとされていたが、近年は見直されつつある。

この頃

大坂の石山本願寺、信長に万里江山の一軸と白天目茶碗を贈る。『信長公記』

この頃

細川昭元(六郎殿)と石成友通(主税頭ちからのかみ)、初めて信長と面会。『信長公記』

3月21日

信長、山城国狭山郷を押領した御牧みまき摂津守へ、紛れもなく同地は石清水八幡宮領であり、田中長清に重ねて信長の朱印を与えたことを伝え、改めて違乱を停止するように通達を出す。『田中家文書』『石清水文書』三 (元亀三年三月二十一日付織田信長朱印状案)

狭山郷之事、依申掠、被捕給所候シ、八幡領無紛上者、更競望不可有之候、最前田中門跡江重而朱印進之候シ、以其筋目、自門主雖被申断候、無承引由、無是非候、早々可被停止違乱候、不然者可為曲事候、恐々謹言
  元亀三
    三月廿一日    御朱印
               信長

     御牧摂津守殿

(書き下し文)
狭山郷の事、申しかすむるにより、せられ給う所候し。
八幡領に紛れ無きの上は、更に競望これ有るべからず候。
最前田中門跡へ重ねて朱印これをまいらせ候し。
その筋目を以て、門主より申し談ぜられ候といえども、承引無きの由、是非無く候。
早々違乱停止ちょうじせらるべく候。
然らずんば、曲事たるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
御牧摂津守は山城狭山郷の隣地に住む土豪。
信長が御牧摂津守の不法行為を禁止したのは、昨年9月27日である。
元亀2年(1571)12月17日付の佐久間信盛書状には、「信長は明春早々に御上洛たるべきの条、その筋御本意の如くに相済ませらるべく候」
としているが、どうやら御牧摂津守は横領を続けたままだったと見える。
記録にはないが、もし摂津守が過去に狭山郷安堵の朱印を受けていたならば、当知行ということになり、一応の正当性ができる。

同日

筒井順慶上洛。『多聞院日記 十八(3月21日条)』

一、筒井順慶京へ上了、

3月24日

足利義昭主導による京都の信長御座所普請の御鍬始が行われる。
御普請奉行は村井貞勝・島田秀満・大工棟梁の池上五郎右衛門であった。『信長公記』

3月27日

三淵藤英と細川藤孝が京都の信長御座所の築城普請を奉行する。『兼見卿記』

 (備考)なお、この邸宅は完成を見ずに翌年、信長が上京を焼き討ちした際に延焼してしまう。(史料から姿を消す)

上京信長御座所の位置

上京信長御座所の位置

三好義継・松永久秀が挙兵

3月

織田信長、摂津尼ヶ崎長遠寺へ全7ヶ条の条書を下す。『長遠寺文書(摂津長遠寺宛織田信長禁制案)』

摂州尼崎内市場巽長遠寺法花寺、建立付条々、

一、陣執幷対兵具出入停止之事、
一、矢銭、兵粮米不可申懸之事、
一、国質、所質幷付沙汰除之事、
一、徳政免許之事、
一、敵方不可撰之事、
一、棟別幷臨時之課役免除之㕝、
一、不可伐採竹木之事、

 右任御下知之旨、不可有相違者也、仍執達如件、

  元亀参年三月日   弾正忠(朱印)

(書き下し文)
摂州尼崎の内市場の巽長遠寺(法華寺)建立に付きての条々、

一、陣取り並びに兵具を帯しての出入りを停止ちょうじの事。
一、矢銭・兵糧米を申し懸くべからざるの事。
一、国質(くにじち)所質(ところじち)並びに付け沙汰を除くの事。
一、徳政免許の事。
一、敵方を選ぶべからざるの事。
一、棟別並びに臨時の課役を免除の事。
一、竹木を伐採すべからざるの事。
 右御下知おんげちの旨に任せて、相違有るべからざるものなり。
仍って執達くだんの如し。(以下略)

 (備考)
『尼崎市史 一』によると、長遠寺は信長の後援で海辺に建立された寺院のようだ。
門前に市場があることから、信長はこの地の発展に着目していたのではないかと記されている。
この禁制には軍勢が宿泊したり、武装して出入りしたり、矢銭(軍費)や兵糧を賦課することを禁じている。
「御下知の旨」や「仍って執達くだんの如し」があることから、これは足利義昭の意向に沿うものだろう。
なお、長遠寺へは天正2年(1574)に荒木村重も同様の禁制を発給している。

3月

信濃国更科郡唯念寺の一向門徒衆、顕如の檄に従い信長に対して兵を挙げる旨の起請文を提出。『唯念寺文書』

  誓詞一札之事

 一、私共 先祖代々御帰依申上候上者、御宗門之御教諭一切相背申間舗候事、

 一、今般対御本山、織田信長公反逆を企候義ニ付、諸国御門末江御急触改到来、奉驚入候、乍恐御味方申上度上坂仕候所、籠城之旨被仰付奉畏候上者、抛一命、任粉骨摧身之思、被仰渡候軍礼相背申間敷事、

 一、私共十七人之内者、御定法ニ候得者、御当流御相承之得安心、軍暇之節者、御相談仕可申候事

右之条々、雖為一事相違反、忽仏祖之御恩沢、日本神祇之冥罰を蒙り、未来者永沉奈落申候、誓詞一札仍如件、
    元亀三申年   信州更級郡氷鉋村
       三月 日          唯念寺門徒

     御本山
       御役人中様

 (後筆)
「別書之通、拙寺門徒右之人別、御味方申上度決心仕、誓詞差上候上者、聊別心無御座候、依之奥書印形仕候、以上、
                 唯念寺
                   善明 印

右之一札二通相認、壱通御本山江差上、壱通至後年為不生疑惑、当寺ニ納置者也、
              唯念寺十世
                  善明」

(書き下し文)
  誓詞一札(せいしいっさつ)の事

 一、私共 先祖代々御帰依申し上げ候の上は、御宗門の御教諭一切相背あいそむきまじく候こと。

 一、今般(こんぱん=このたび)御本山に対し、織田信長公反逆を企て候儀に付き、諸国御門末へ御急触改めての到来、驚き入り奉り候。
恐れながら、御味方申し上げたく、上坂(大坂へ上ること)仕り候ところ、籠城の旨仰せ付けられ、畏み奉り候の上は、一命をなげうち、粉骨に任せ砕身の思い、(被仰渡仰候軍礼 申し訳ありませんがここ読めません)相背き申すまじき事。

 一、私共十七人の内は、御定法(じょうほう)に候らへば、(御当流御相承之得安心、軍暇之節者、 申し訳ありませんがここ読めません)御相談仕り申すべく候事。(以下略)

4月3日

吉田兼右、信長を訪問し面会する。
信長は機嫌よく暫し雑談。
金子1枚を賜わる。
明智光秀が馳走を取りなす。『兼見卿記』

4月4日

明智光秀、滝川一益、佐久間信盛、柴田勝家が連署で河内国住人の片岡弥太郎へ書状を発給。
内容は、来たる4月14日に河内へ出兵する旨を伝え、片岡弥太郎の出勢と合城を厳命するもの。『根岸文書』

来十四日、河州へ可被出御人数相定候、然者有御出勢、合城之事、堅固ニ可被仰付之旨候、番手可被置入模様者、貴国衆被成調談、此節別而御馳走肝要ニ存候、此通可申入之旨候、不可有御油断候、恐々謹言

   卯月四日   柴田修理亮勝家(花押)
          佐久間右衛門尉信盛(花押)
          滝川左近一益(花押)
          明智十兵衛尉光秀(花押)

    片岡弥太郎殿
         御宿所

(書き下し文)
来たる十四日、河州へ御人数を出さるべく相定まり候。
然らば御出勢有りて、合城の事、堅固に仰せ付けらるべきの旨に候。
番手を置き入れらるべき模様は、貴国衆調談を成され、この節別して御馳走肝要に存じ候。
この通り申し入るべきの旨に候。
御油断有るべからず候。恐々謹言(以下略)

(備考)三好義継・松永久秀らが敵対行動をとったことへの対応である。
片岡氏は河内交野郡津田村の住人か。『姓氏家系大辞典』
石山本願寺門跡の顕如も、義継らの行動に乗じて4月14日付で朝倉義景の出馬を促し、近江国門徒を激励する旨の書状を発給している。『誓願寺文書』
また、本願寺は紀伊の門徒衆を大坂の本願寺に入城させるなど、この時期の畿内は非常に不安定な状況であった。

4月5日

織田信長、毛利家の取次を担う吉川元春(吉川駿河守殿)へ、浦上宗景(浦上遠江守)と宇喜多直家を無視している件について「外聞如何」とし、和平を促す旨の書状を発給。『吉川家文書 一』

浦上遠江守与宇喜多間之事、長々鉾楯之処、此方見除之儀、外聞如何候条、以使者申候、被遂分別、属和与候様ニ御才覚専要候、委曲三人申含候、恐々謹言
   卯月五日    信長(花押)

    吉川駿河守殿

(書き下し文)
浦上遠江守(浦上宗景)と宇喜多(宇喜多直家)間の事、長々鉾楯のところ、此方こなた見除の儀、外聞如何に候条、使者を以て申し候。
分別を遂げられ、和与に属し候様に御才覚専要に候。
委曲三人に申し含め候。恐々謹言

 (備考)
これは将軍足利義昭の意向を受けたもので、義昭は同年閏1月13日付で同様の書状を発給している。
三名とは柳沢元政・安国寺恵瓊・聖護院道澄のことである。
この義昭の和議調停は実を結び、同年10月29日付で小早川隆景・吉川元春は、毛利輝元の意思を受けて、上意やむを得ず浦上・宇喜多両氏と和し、横井左衛門に居城を破却させる旨の書状が遺されている。『萩藩閥閲録 二十五』

同日

信長、小早川隆景(左衛門佐さえもんのすけ殿)へ鴘鷹一羽が贈られたことを謝す。『小早川家文書 一』

(端裏切封)
(墨引)

鴘鷹一羽居給候、自愛秘蔵不斜候、寔御懇慮、祝着之至候、去月中旬以来令在洛候、切々可申展候、猶使僧可為伝語候、恐々謹言
   卯月五日   信長(花押)

    小早川左衛門佐殿


 (折封ウハ書)
「小早川左衛門佐殿    信長」

(書き下し文)
鴘鷹(へんたか)一羽居え給い候。
自愛秘蔵斜めならず候。
誠に御懇慮、祝着の至りに候。
去月中旬以来在洛せしめ候。
切々申し述ぶべく候。
猶使僧伝語たるべく候。恐々謹言(以下略)

同日

筒井順慶、帰洛する。『多聞院日記 十八(四月五日条)』

卅講番出了、鬼宿、庚申、マコ南へ下了、
一社頭於一切経廻廊、信讀経發願了、南井坊法用ニ雇了、巻無言幷天女毎日勤行始之、筒井京ヨリ下、

4月8日

佐久間信盛(右衛門)・柴田勝家(修理亮)・丹羽長秀(五郎左衛門)・木下秀吉(藤吉郎)が連署で、山城伏見惣中へ船舶に関する旨の連署状を発給。『三雲文書』『三雲高田家由緒書写』

(包紙)
 信長様御代之御書
     但御連判

就来十二日御動、当所船事、狐川へ相下之、従明後十、十三日迄可令逗留候、一艘も残置候者、可為曲事之由、被仰出候、不可有油断候也、謹言
   卯月八日
        藤吉郎秀吉(花押)
        五郎左衛門長秀(花押)
        修理亮勝家(花押)
        右衛門信盛(花押)

    伏見惣中

(書き下し文)
来たる十二日御働きに就きて、当所船の事、狐川へこれ相下し、明後(日脱カ)十より十三日迄逗留せしむべく候。
一艘も残し置き候はば、曲事たるべきの由、仰せ出され候。
油断有るべからず候なり。謹言(以下略)

 (備考)
兵を挙げた三好義継・松永久秀らに対処するための措置であろう。
狐川とは八幡・山崎地区の地名だろうか。
当時の伏見地区は巨大な巨椋池おぐらいけが淀川と繋がっており、水運に恵まれた地域であった。
同月16日に織田の将柴田・佐久間らは幕府奉公衆とともに河内表へ出陣するが、この書状によれば信長自身も出馬する予定だったのだろうか。
全ての船舶を徴用するとする文言が興味深い。

4月9日

吉田兼和、人足80余人を伴い信長御座所の築地普請に赴く。『兼見卿記』

4月10日

奈良興福寺多聞院の英俊、近日にも織田勢が兵を差し向けるとの風聞を聞く。『多聞院日記 十八』

三學院信讀経依處沙汰之、出了、同加行者瘧藥ぎゃくやく?事申間合テ遣之、近日京ヨリ尾張衆下トテナラ中以之外サワキ了、沈思ゝゝ、

4月12日

大和国奈良衆は、東大寺南大門に於いて集会を開き、近日中に織田軍が大和に着陣した際に味方しないことを決める。『多聞院日記 十八』

ナラ中衆於南大門集會沙汰之、今度京ヨリ尾張衆下、可陳取之由、無法第一之衆之間、可及難儀之間、各申合不可有同心之通也云々、雨下

(書き下し文)
奈良中衆南大門に於いて集会この沙汰、この度京より尾張衆下り、陣取りすべきの由、無法第一の衆の間、難儀及ぶべきの間、おのおの申し合わせ同心あるべからずの通りなり云々。雨下

織田軍、河内表へ出陣

4月16日

三好義継、松永久秀勢と合流し畠山秋高の部将・安見新七郎籠る河内交野かたの城を攻める。

信長、佐久間信盛と柴田勝家、明智光秀、細川藤孝、三淵藤英、上野秀政、池田勝正、伊丹忠親、和田惟長ら2万の軍勢を河内表へ派遣して救援する。
松永久秀の軍勢が立て籠もる河内騎西城を攻囲。『信長公記』『兼見卿記』

4月18日

足利義昭、柴田勝家・佐久間信盛の戦功を褒す。『寸金雑録』

(備考)私は翻刻を読んでないため未確認。

4月25日

織田信長、京都紫野大徳寺へ諸塔頭しょたっちゅう領・門前賀茂境内の所領を安堵。『大徳寺文書 二』

当寺、同諸塔頭領幷門前、賀茂境内、其外雖出棄破之朱印、不混自余之条、永令免許畢、但近年落来分除之、当知行之所寺納不可有相違、付、塔頭於退転者、可為其尤者也、仍執達如件
 元亀参
   四月廿五日    信長(朱印)

   紫野
    大徳寺

(書き下し文)
当寺・同じく諸塔頭しょたっちゅう領並びに門前、賀茂境内、その他棄破の朱印を出すといえども、自余に混せざるの条、永く免許せられおわんぬ。
但し近年落ち来たる分はこれを除く。
当知行の所は、寺納相違あるべからず。
付けたり、塔頭たっちゅう退転に於いては、その咎たるべき者なり。
仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
大徳寺と諸塔頭しょたっちゅう領並びに、その門前、賀茂境内、その他売買契約無効の朱印を出した土地でも、特例により永久に大徳寺領とする。
ただし、近年に脱落した分はその限りではない。
現在の知行分は、年貢の納入を保証する。
加えて塔頭が退転した場合には、その責任を問うとの意である。
現在の大徳寺も、京都五山の一つとして有名である。
本文書が信長の手厚い保護である点や、文中の「塔頭退転に於いては、その咎たるべき者なり」としている点を考えると、寺内でも信長・義昭派とそれを良しとしない派で分かれていたのだろうか。
実際のところはわからないが、当時の京都情勢を見るうえで重要な手掛かりとなり得るだろう。

4月28日

吉田兼和、信長より京都信長御座所の築地に板葺の覆いを命じられる。『兼見卿記』

同日

大和ツタノ付城が陥落か。
大安寺門前で松永勢と筒井勢が小競り合いか。『多聞院日記 十八』


一、昨夜ツタノ付城落居了云々、實否如何、
一、於大安寺門ノ前後多聞衆二百計出、筒ノ足輕衆合戦了、無指儀引了、

  『多聞院日記 十八(四月二十九日条)』より抜粋

4月

織田信長、京都賀茂の債権者へ、未だに徳政を求める一揆がいることを憂い、譴責使を入れて収納させる旨の書状を発給。『賀茂別雷神社文書 三』

当所徳政除之旨、去々年朱印雖遣之、于今一揆等相構之由、無是非題目也、弥買主任覚悟、入譴責使、可収納者也、猶木下藤吉郎可申届之状如件
 元亀参
   卯月日      (信長朱印)

    賀茂
     銭主・同惣中

(書き下し文)
当所に徳政を除くの旨、去々年朱印をこれ遣わすといえども、今に一揆ら相構うるの由、是非無き題目なり。
いよいよ買主の覚悟に任せて、譴責使(けんせきし)を入れ、収納すべきものなり。
猶木下藤吉郎(木下秀吉)申し届くべきの状くだんの如し(以下略)

 (備考)
賀茂とは、賀茂社境内の六郷のこと。
賀茂神社境内を徳政令の除外区域とする旨、2年前にあたる元亀元年(1570)に朱印状を発給したが、未だに徳政一揆の残党が徳政を強制しているというのは残念なことだ。
いよいよ買入主の決心で督促させて収納せよ。
といった文意である。
当時賀茂社方面へ奉行を司っていたのが木下秀吉。
宛名にある銭主とは、そこに居住する債権者であろう。
同様の書状が昨年にあたる元亀2年(1571)12月22日付で、秀吉が発給している。『賀茂別雷神社文書 三』

4月

織田信長、山城梅津長福寺へ全5ヶ条の条々を下す『長福寺文書 四』

 条々

一、山城国梅津長福寺、同諸塔頭領所々散在田畠、山林、洛中地子銭等之事、為守護使不之地、任御代々御判之旨、今度被成下御下知之上者、弥全可被領知之事、
一、殺生禁断之事、
一、諸塔頭祠堂幷廿一ヶ年永地、不可及徳政之沙汰事、
一、所々年貢於無沙汰之輩者、堅可被譴責之事、
一、臨時之課役免許畢、付、門前被官人等、守護不入之上者、為寺家可相測、不可有他之妨之事、

 右聊以不可有相違者也、仍執達如件、

 元亀参年卯月 日    弾正忠(朱印)

(書き下し文)
条々
一、山城国梅津長福寺、同じく諸塔頭たっちゅう領所々散在の田畠・山林・洛中地子銭等の事、守護使不入の地として、御代々御判の旨に任せて、今度御下知おんげちを成し下さるるの上は、いよいよ全く領知せらるべきの事。
一、殺生禁断の事。
一、諸塔頭の祠堂しどう並びに二十一ヶ年の永地、徳政の沙汰に及ぶべからざるの事。
一、所々の年貢を無沙汰の輩に於いては、堅く譴責けんせきせらるべきの事。
一、臨時の課役は免許おわんぬ。
 付けたり、門前の被官人等、守護不入の上は、寺家として相計らるべし。他の妨げ有るべからざるの事。

 右、いささかも以て相違有るべからざるものなり。仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
現在長福寺は臨済宗であるが、もとは天台宗の尼院であった。
内容は同寺所有の田畠・山林・洛中地子銭などは先例の通り安堵し、塔頭(たっちゅう=子院)の祠堂(檀家が納めた米銭これを利殖する)や土地の売買契約で二十一年のもの(二十年を経過しても契約は徳政令で無効になる先例)も徳政令が発布されても無効にしないこと、年貢は必ず納めること、臨時課役の免除と門前の被官人を支配することを認めたものである。

5月2日

信長、大友宗麟が上洛を望んでいることについて、小早川隆景(左衛門佐殿)へ書状を発給。『小早川家文書 一』

 (端裏切封)
(墨引)

先度使僧被差上候、殊鴘鷹居給候、自愛不少候、仍大友宗麟、累年京上望之由候、此比も雖被覃案内候、其方与別而申通半候条、令遠慮、未能返答候、可有如何候哉、天下之儀信長加異見刻、遠国之仁上洛之事、且者為京都、且者為信長、尤候歟、被遂御分別示給候者、豊州へ可申送候、さ候とて、対其方毛頭無疎意候、不可有隔心候、無人之躰にて、可被越境候処、自然聊爾之趣も候てハ、外聞不可然候間、旁以申届候、猶日乗、夕庵可申候、恐々謹言
   五月二日    信長(花押)

    小早川左衛門佐殿


 (折封ウハ書)
「小早川左衛門佐殿    信長」

(書き下し文)
先度使僧を差し上せられ候。
殊に鴘鷹(へんたか)居え給い候。
自愛少なからず候。
仍って大友宗麟、累年京上の望みの由に候。
このごろも案内に及ばれ候といえども、其方そなたと別して申し通ずる半ばに候条、遠慮せしめ、未だに返答能わず候。
如何あるべく候
天下の儀信長意見を加うるきざみ、遠国のじん上洛の事、且つは京都のため、且つは信長のためもっともに候か。
御分別を遂げられ、示し給い候はば、豊州(大友宗麟)へ申し送るべく候。
さ候とて、其方に対して毛頭疎意無く候。
隔心有るべからず候。
無人ていにて、越境たるべく候のところ、自然じねん聊爾の趣きも候ては、外聞も然るべからず候間、かたがた以て申し届け候。
なお日乗(朝山日乗)・夕庵せきあん(武井夕庵)申すべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
安芸の毛利氏と豊前の大友氏は積年の敵対関係にあった。
その大友氏が信長を通して上洛したいとたびたび申し入れている。
信長は毛利氏との関係もある手前、大友氏に対してまだ返答できていない。
天下の儀について、信長が意見を加えている時期に、遠国の人物が上洛することは、京都のため、信長のために最善だと思うので、毛利氏は分別してくれれば、大友氏に申し送ると述べている。
さらに少人数で上洛させてもよいが、その場合の悪い影響も考えて申し届けるといった文意である。
毛利氏と大友氏の講和には足利義昭も熱心で、元亀2年(1571)4月には久我宗入を大友宗麟のもとへ派遣して和約を督促している。

同日

織田信広(信長の庶兄)が病に伏しているところを吉田兼和が見舞う。『兼見卿記』

同日

興福寺多聞院の英俊、織田家からの使者が来ると報せを受ける。『多聞院日記 十八』

一、尾張衆爰元へ可來由沙汰在之、
 (尾張衆ここもとへ来たるべきの由の沙汰これあり)

同日

朝倉義景が三好義継に送った密使の僧侶二人を捕らえ、京の一条戻り橋で焼き殺す。『年代記抄節』

5月3日

興福寺多聞院の英俊の元へ織田家より使者が入る。『多聞院日記 十八』

三日、月待了、奉拜之、懃行如常、
一、奈良中へ信長衆ヨリ公事申來、諸方道具ヲ隱了、

 (三日。月待ちをば、これを奉拝、勤行常の如く。
一、奈良中へ信長衆より公事申し来たり。諸方へ道具を隠しおわんぬ

5月4日

大和国奈良中、一両日中に織田軍が到来するという風聞に接し、大騒動となる。 『多聞院日記 十八』

一兩日中尾張衆打越由、以之外物忩也、咲止々々
 (一両日中に尾張衆打ち越すの由、もってのほか物騒なり。笑止笑止)

同日

吉田兼和、施薬院全宗と共に妙覚寺の織田信長を訪問。
木下秀吉が吉田持参の菓子を披露。『兼見卿記』

5月5日

織田軍先発隊が大和国西京に着陣。
多聞院英俊は多数の山木が枯れたことを「建久ノ御詫此比ニ当、一寺頓滅ノ期至歟」と嘆き、「武家入国旁々心細者也」との心境を記す。『多聞院日記 十八』


五日、社参了、尾張衆勢既ニ西京へ著了、右往左往咲止々々、消入計也、筒井ヨリ種々噯(あつかい)在之、此間山木數多枯槁(ここう=草木がしぼみ枯れること)、除(ママ)本宮ハカレス、余ハ過半枯了、中ニモモミ・トカノ分一圓枯了、建久ノ御詫此比ニ當、一寺頓滅ノ期至歟、武家入國旁々心細物也、節供如常、咽(むせぶ)ニムセフ者也、アヽ如何可成行哉覽

(五日。
社へ参りおわんぬ。
尾張衆の勢、既に西京(大和国)へ着きおわんぬ。
右往左往笑止笑止。
消え入るばかりなり。
筒井(筒井順慶)より種々扱いこれあり。
この間、山木数多枯槁(ここう=草木がしぼみ枯れること)、除?(ママ)本宮(興福寺)は枯れず、余は(多聞院)過半が枯れおわんぬ。
中にモモミ・トカノ分一円が枯れおわんぬ。
建久の御詫この頃に当たり、一寺頓滅の期に至るか。
武家入国、かたがた心細きものなり。
節句(端午の節句)は常の如し。

咽びにむせぶものなり。
ああ、如何成り行くべきなりや覧。

  『多聞院日記 十八(五月五日条)』

5月7日

織田勢ら、三好義継・松永久秀・それに組する勢力へ降伏を呼びかける。『多聞院日記 十八』

既數万ノ人數悉西京表へ打越了、明日可打入之由也、種々噯在之、
 (既に数万の人数悉く西京表へ打ち越しをば、明日打ち入るべきの由なり。種々扱いこれあり。)

5月8日

織田軍が大和国奈良へ攻め込む前に、奈良中より銀子320枚、興福寺より銀子100枚、東大寺より銀子50枚が上納され、多聞院の英俊は「先以安堵了」という感慨を記す。『多聞院日記 十八』
この時の織田方の責任者は氏家行広であったようだ。『春日社司祐国記』
なお、法隆寺もこの時兵粮米用として銀子十枚を差し出していたようだ。『元亀三年御月日付網封蔵沙汰人銀子借用状(尊経閣文庫文書 編年文書辺之部所収)』


八日、噯不調、既ニ打入迄ノ處、ナラ中ヨリハ銀子三百廿枚、寺ヨリ百枚、東大寺ヨリ五十枚ノ礼ニテ調了、先以安堵了
 (八日、扱い調わず。
既に打ち入るまでのところ、奈良中よりは銀子三百二十枚、寺より百枚、東大寺より五十枚の礼にて調いおわんぬ。
まずもって安堵おわんぬ。)

  『多聞院日記 十八(五月八日条)』

同日

吉田兼和、織田信広より明日の朝食の招待を了承した返答を受ける。『兼見卿記』

5月9日

織田軍、大和国大黒カ尾から多聞山城の北側までを包囲。
筒井順慶が東大寺南大門に布陣。『多聞院日記 十八』

午の刻頃

松永久秀籠もる大和多聞山城に攻撃を仕掛ける。『多聞院日記 十八』
久秀降伏か。

九日、筒井順慶ハ南大門ニ陣ヲ陶了、尾張衆衆(行?カ)大黑カ尾ヨリ多聞山ノ北ヲ取廻了、則午剋計ニ悉以打歸了、併神助迄也、大慶々々
 (九日。
筒井順慶は南大門に陣を据えおわんぬ。
尾張衆てだて(?)大黒カ尾より多聞山の北を取り廻りおわんぬ。
則ち午の刻ばかりに悉く以て打ち帰りおわんぬ。
しかして神の助けまでなり。大慶大慶。)

  『多聞院日記 十八(五月九日条)』

同日

吉田兼和、織田信広を朝食に招待。
織田信広は暮れに帰京する。『兼見卿記』

5月11日

吉田兼右、深草から帰宅し織田信長を見舞いのため訪問。
子の兼和、河内へ出陣していた軍勢が帰陣し、上洛したとする報に接する。『兼見卿記』

5月14日

信長、京を発し岐阜へ向かう。
吉田兼和、信長を路次にて見送る。『兼見卿記』『信長公記』

5月19日

信長、岐阜に帰城。『兼見卿記』『信長公記』

同日

大和国興福寺をはじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶に金銀を上納。『多聞院日記 十八』

十九日、金銀筒井迄寺門、奈良中ノ少々被遣、七畫夜出了、明禪房來、若言眼等談義了、

5月20日

甲斐の武田信玄、美濃武儀郡の安養寺への返書を発給。『安養寺文書』

珍札被読、快然ニ候、貴寺、両遠藤別而入魂之由候之間、去比染一翰候キ、自今以後者弥有相談、其表之備、可然様ニ調略 極此一事候、信玄も偏大坂へ申合候之上者、無他事可申談候、委曲従土屋右衛門尉所可申候、恐々謹言
 五月廿日 信玄(花押)

 安養寺

(書き下し文)
珍札ちんさつ被読、快然に候。
貴寺と両遠藤(本家郡上八幡の遠藤と木越の遠藤か)、別して昵懇の由に候の間、去頃一簡を染め候き。
自今以後じこんいごはいよいよ相談有りて、その表の備え、然るべく様に調略、この極み一事に候。
信玄もひとえに大坂(石山本願寺)へ申し合わせ候の上は、他事無く申し談ずべく候。
委曲土屋右衛門尉所より申すべく候。恐々謹言(以下略)

5月23日

ばん直政、石清水八幡宮狭山郷の件で清水甚介宛てで書状を送る。『田中家文書』『石清水文書』三 

石清水八幡宮領狭山郷之事、禁裏様依御祈禱所、信長御朱印雖有之、御牧横領之由、無是非存候、上山城之事、糾明申付候間、弥相尋、急度可申付候、至我等聊以不存疎意候、此等之趣宜預御披露候、恐々謹言

   五月廿三日    塙九郎左衛門尉
               直政(花押)

    清水甚介殿

(書き下し文)
石清水八幡宮領狭山郷の事、禁裏様御祈祷所により、信長御朱印これ有りといえども、御牧みまき横領の由、是非無く存じ候。
上山かみやま城の事は、糾明申し付け候間、いよいよ相尋ね、急度申し付くべく候。
我等に至っては、いささか以って疎意に存ぜず候。
これらの趣き、宜しく御披露に預かるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
ばん直政は当時、上山城の行政責任者であった。
石清水八幡宮領の山城国狭山郷は禁裏様の御祈祷所であり、重ねて信長御朱印が発給されたが、御牧摂津守が押領していることは許し難い。
上山城の件は塙直政が信長より糺明きゅうめいを申し付けたので、速やかに対処するといった内容である。

5月25日

幕臣の松田頼隆(豊前守)、諏訪俊郷(左兵衛尉)、某所へ宛てて信長の望みを承諾するように求める。『古文書纂 三十三』

今度御敷地事、織田弾正忠信長依被申請之、為替地慈徳寺幷境内等一円可被存知之旨、信長被執申之趣、被聞召入訖、弥可令進止給候由、所被仰下也、仍執達如件

  元亀三年五月廿五日  豊前守(花押)
             左兵衛尉(花押)

(書き下し文)
この度御敷地の事、織田弾正忠だんしょうちゅう信長これを申請せらるるにより、替地かえちとして慈徳寺並びに境内等一円に存知せらるべきの旨、信長執り申さるるの趣き、聞こし召し入れられおわんぬ。
いよいよ進止せしめ給うべく候由、仰せ下さるる所なり。仍って執達くだんの如し(以下略)

 (備考)
本文書は宛所を欠いている。
恐らく将軍義昭主導による信長御座所に関係することだろう。
某所を信長が申請しているので、替地として慈徳寺と境内一円を与えるから承知するようにといった文意である。

同日

甲斐の武田信玄、三河の長篠の奥平定能(美作守殿)へ書状を発給。『東京大学総合図書館所蔵文書「松平奥平家古文書写」』

近日者尾・濃・三ノ体、如何聞届度候、仍富士巣之鷂一・児鷹一遣之候、自愛尤候、委曲従山県三郎兵衛尉所可申候、恐々謹言
    五月廿五日  信玄 判

     奥平美作守殿

 (後筆)
「杉原堅帋、堅九寸四分、横壱尺五寸分」

(書き下し文)
近日は尾・濃・三のてい、いかが聞き届けたく候。
仍って富士巣の鷂(はいたか)一・児鷹一これを遣わし候。
自愛もっともに候。
委曲山県三郎兵衛(山県昌景)所より申すべく候。恐々謹言
    五月二十五日  信玄 判

     奥平美作守(奥平定能)殿

 (後筆)
杉原堅紙、縦九寸四分(約35.72cm)、横一尺五寸(約57cm)分」

大和国で地震発生

6月1日 巳刻終頃

再び大和の国で地震が起きる。『多聞院日記 十八』

一、巳刻終ニ大地震兩度在之、當月地震ハ天下人民多死、五穀不熟云々、咲止々々
 (一、巳の刻終わりに大地震両度これあり。当月の地震は天下人民多く死に、五穀は熟さず云々うんぬん。笑止笑止。)

6月2日

島田秀満、京都妙心寺へ長らくの無沙汰を詫び、仏心寺と竜安寺の普請夫丸の免除を認める旨の裁許状を発給。『妙心寺文書 六』

  尚々、久不罷向上、御床敷存候、永々在京不弁、可有御推量候、普請取乱無音候、以上、

尊札重而拝見仕候、仏心寺・竜安寺伇人共夫丸免除事、則折帋調、進覧候、村民も同前之由承尤候、我等猶以如在不存候条、相応御用可蒙仰候、不可有疎意候、委細御使僧申入候間、不能巨細候、恐惶敬白
   六月二日    秀満(花押)

    妙心寺
      尊塔


 (懸紙ウハ書)
「        嶋田但馬守
尊塔          秀満」

(書き下し文)
尊札重ねて拝見仕り候。
仏心寺・竜安寺役人共夫丸免除の事、則ち折紙を調べ、進覧候。
村民(村井貞勝)も同前の由承り、もっともに候。
我ら猶以て如在に存せず候条、相応の御用仰せ蒙るべく候。
疎意有るべからず候。
委細御使僧に申し入れ候間、巨細に能わず候。恐惶敬白
   六月二日    秀満(花押)

尚々なおなお、久しく罷り向上せず、御床敷く存じ候。
永々在京して不弁、御推量有るべく候。
普請取り乱し無音ぶいんに候。以上

 (備考)
本年3月24日に始まった信長御座所普請奉行で、島田秀満と村井貞勝は奉行にあたっていた。
大規模な普請事業で、畿内各所から資材や人足の動員が行われていた。『信長公記』『兼見卿記』
恐らく各所の社寺からは、その負担の免除を申請していたことだろう。
仏心寺と竜安寺もその一つだと考えられる。
島田と村井はこれを諒承し、信長の裁可を得、この書状を以て免除が成ったと考えてよいだろう。
竜安寺は今日も右京区に存在する臨済寺妙心寺派の寺院だが、仏心寺は今日京都市内にはない。
かつては一条大宮にあったようだ。

6月8日

織田信長、河内高屋城主の畠山秋高へ、三好義継・松永久秀に関する旨の書状を発給。『伊予古文書 二十二(六月八日付織田信長書状写)』

各以恕判承之通遂披見候、義継・久秀前行企不能分別候、□存分ニ昭高(ママ)江啓達之条、不覃再説候、信長一点無疎意候、当城堅固ニ可被相拘之事専要候、猶柴田可申候、恐々謹言
   六月八日    信長(花押)

    高屋連署中


 〇右、近藤元晋君蔵、岡野新兵ノ旧蔵、

(書き下し文)
各署判を以て承るの通り、披見を遂げ候。
義継(三好義継)・久秀(松永久秀)前行(=所行カ)の企、分別に能わず候。
□存分に昭高(畠山秋高)へ啓達の条、再説に及ばず候。
信長一点も疎意無く候。
当城堅固に相拘えらるべきの事専要に候。
猶柴田(柴田勝家)申すべく候。恐々謹言
   六月八日    信長(花押)

    高屋連署中

 右、近藤元晋君蔵、岡野新兵の旧蔵。

 (備考)
各恕判(署判)とは文脈から察して起請文だろう。
これを受けて、信長は本文書で「義継・久秀の意図が不可解だ。私の考えは秋高に伝えてあるから再説はしない。高屋城を今後も油断無く守備することが大事である」としている。

6月23日

信長、京都紫野大徳寺へ賀茂境内の買得分を安堵。『大徳寺文書 二』

 (包紙ウハ書)
「         弾正忠
 大徳寺尊答     信長」

賀茂境内当寺買得分之儀、不可有相違之由、今度重而朱印進之候、依之使僧被差下候、殊銀子百両御懇情候、猶友閑可申候、恐惶敬白
   六月廿三日     信長(朱印)

    大徳寺尊答

(書き下し文)
賀茂境内の当寺買得分の儀、相違有るべからざるの由、今度重ねて朱印これをまいらせ候。
これによりて使僧を差し下され候。
殊に銀子百両御懇情に候。なお友閑ゆうかん(松井友閑)申すべく候。恐惶敬白(以下略)

 (備考)
信長が再度朱印状を与えたのに対し、大徳寺は謝礼として銀子百両を送ったのだろう。
本状はその返書である。

同日

信長側近の松井友閑ゆうかん(徳斎友閑)、京都紫野大徳寺へ副状を発給。『大徳寺文書 二』

就当寺領儀ニ、御使僧指被下候、則披露申候処、弥々無別儀様御書を被遣候、塙九・木藤江も此方にて申渡候、若於違乱者、重而可承候、恐惶謹言
  六月廿三日    徳斎
             友閑(花押)

   大徳寺
      尊報

(書き下し文)
当寺領の儀に就きて、御使僧を指し下され候。
則ち披露申し候ところ、いよいよ別儀無きの様に御書を遣わされ候。
塙九(塙直政)・木藤(木下秀吉)へも此方こなたにて申し渡し候。
もし違乱に於いては、重ねて承るべく候。恐惶謹言(以下略)

 (備考)
これは同日付信長朱印状の副状だろう。

6月25日

信長側近の松井友閑ゆうかん(徳斎友閑)、京都賀茂社の上使へ書状を発給。『真珠庵文書 二』

急度申入候、仍大徳寺領之事、縦雖被出棄破朱印、不混自余旨被仰出候、然而今度賀茂境内申事就有之、使僧被差下、被仰理候処ニ、弥不可有異議之由、御書被進候、此上者各御違乱有間敷候、則木藤・塙九へも申届候、可被成其御心得候、恐々謹言
  六月廿五日      徳斎
              友閑

   賀茂
    御上使中

(書き下し文)
急度申し入れ候。
仍って大徳寺領の事、たとい棄破きはの朱印を出さるといえども、自余に混せざるの旨仰せ出され候。
然してこの度賀茂境内に申す事これ有るに就きて、使僧を差し下され、仰せことわられ候ところに、いよいよ異議有るべからざるの由、御書をまいらされ候。
この上は、おのおの御違乱有る間敷く候。
則ち木藤(木下秀吉)・塙九(塙直政)へも申し届け候。
その御心得をなさるべく候。恐々謹言(以下略)

 (備考)
取り急ぎ通達する。
大徳寺領のことは、例え無効とする朱印状を出されても、信長は先例とは混同せずに取り扱うとの仰せである。
そして、今回賀茂社の境内に問題が起きたので、信長が使僧を派遣して道理を説いたが、その方たちは少しも異議がない旨の御書を送られた。
そうであるから、もはやこの上は誰も不法行為をしてはならない。
この件は木下秀吉と塙直政にも伝えたので御分別されたい。

といった文意であろう。
なお、この件はしばらくもつれることとなる。

6月30日

石山本願寺門跡の顕如、越前の朝倉義景(左衛門督さえもんのかみ殿)へ浅井と合力して織田と対抗する旨の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

近曾疎遠之式慮外候、抑去時分長々依御在陣高島表之儀、御理運之姿珍重候、彌浅備被相談、無油斷御行肝要候、爰元調略之儀、方々相試様候、追而可申展候、就中任現來段金十端進之候、左少々々、委細之趣頼充法眼可申入候間、不及詳候、— —
   六月晦日  — —

   朝倉左衛門督殿

(書き下し文)
近曽さいつころ疎遠の式慮外に候。
そもそも去時分、長々御在陣による高島表の儀、御理運の姿珍重に候。
いよいよ浅備(浅井長政)と相談ぜられ、油断無くおんてだて肝要に候。
爰元調略の儀、方々相試様に候。
追って申し述ぶべく候。
就中なかんずく現来に任せるの段、金十端これをまいらせ候。
左少々々。
委細の趣き、頼充法眼(下間頼充)申し入るべく候間、詳らかには及ばず候。(以下略)

同日

石山本願寺門跡の顕如、江北小谷山に籠城中の浅井父子へ激励の書状を発給。『顕如上人御書札案留』

久令無音候、其表長々籠城之衆、可為退屈候、雖然此筋簡要之儀候間、各無越度様可被加下知候、爰元方々調略之子細候條、追而可申越候、義景近日可有出馬由候、彌可被示合事専用候、就中鉄炮藥三十斤進之候、任所在計候、委曲上野法眼可申伸候間抛筆候也、穴賢
   六月三十日  — —

   浅井備前守殿

(書き下し文)
久しく無音せしめ候。
その表長々籠城の衆、退屈たるべく候。
然りといえども、この筋簡要の儀に候間、おのおの落ち度無きよう下知を加えらるべく候。
爰元ここもと方々を調略の子細に候条、追って申し越すべく候。
義景(朝倉義景)近日出馬あるべき由に候。
いよいよ示し合わさるべき事専要に候。
就中鉄砲薬(三十斤)これをまいらせ候。
所在に任すばかりに候。
委曲上野法眼(下間頼充)申し述ぶべく候間、筆をなげうち候なり穴賢あなかしく(以下略)

久無音之様候、不本意候、其表事長々籠城之衆、可為窮困候歟、此度之儀専用候條、無越度様軍兵等堅可被申付候、爰元方々調略之儀候、越州彌可被示合候、將又所在之條繻子二端進之候、比興比興、具上野法眼可申伸候也、
   六月三十日

   浅井下野守殿

(書き下し文)
久しく無音ぶいんの様に候。
不本意に候。
その表の事、長々籠城の衆、窮困たるべく候か。
この度の儀専要に候の条、落ち度なき様に軍兵等堅く申し付けられ候。
爰元ここもと方々を調略の儀に候。
越州といよいよ示し合わさるべきに候。
将又はたまた所在の条、繻子二端これをまいらせ候。
比興ひきょう比興。
つぶさに上野法眼(下間頼充)申し述ぶべく候なり。(以下略)

6月

信長、阿弥陀寺清玉へ東大寺の大仏殿再興勧進の件で、信長分国中へ1人に毎月1文を勧進させることを決定しているので、「権門勢家」「貴賤上下」を選ばず勧進することを命じる。『東大寺文書』

為大仏殿再興勧進、分国中人別毎月壱銭宛之事、不撰権門勢家・貴賤上下、無懈怠可出之、以此旨、可被相勧者也、仍状如件、
  元亀参
   六月 日     信長(朱印)

  東大寺本願
   清玉上人御房

(書き下し文)
大仏殿再興勧進かんじんのため、分国中に人別毎月壱銭宛の事、権門勢家・貴賤上下を選ばず、懈怠これ無く出すべし。
この旨を以て相勧むべきものなり。仍って状くだんの如し(以下略)

 (備考)
信長は清玉上人に対し、大仏殿再興の費用を調達するため、分国中から一人当たり毎月一文を勧進(寄附)させる内容となっている。
東大寺の毘盧舎那仏びるしゃなぶつ(大仏)殿は、去る永禄10年(1567)10月に兵火によって焼失した。『多聞院日記』など

正親町天皇は元亀元年(1570)8月、京都阿弥陀寺清玉に対し、諸国に勧進を募って大仏殿を再興せよとの綸旨を受けているようだ。
さらに元亀3年(1572)2月にも、東大寺別当智経に対し、山田道安へ大仏殿建設を急ぐ旨の指令を下している。

なお、信長は阿弥陀寺清玉に帰依していた。
のちに本能寺で非業の最期を遂げた際は、清玉が父子の遺体を荼毘に付している。

(参考)『多聞院日記 十三(永禄10年10月10日条)』より東大寺の戦いに関する部分を抜粋

一、今夜子之初點より、大佛ノ陣へ多聞山より打入合戦及數度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂へ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊へ次第ニ火付テ、丑刻ニ大佛殿忽焼了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了、尺迦像モ湯ニナラセ給了、言悟道斷、浅猿ヽヽトモ不及思慮處也、昔良弁建立、天平十六年甲申聖武天皇御願、治承四年庚子十二月炎上、其間四百卅七年、其後賴朝建久六年ニ造立ヨリ、今年迄ハ三百七十三年ニ當ル歟、治承ノ炎上ニハ十五ヶ年ノ間ニ周備ト見タリ、今ハ雖經百年、中ヽ修造不可成哉、此剋ニ生逢事歎之中ノ歎也、罪業之程可悲々々、

一、大佛ニ陳取衆悉以敗軍了、ヤリ中村討死、其外人數二三百人モ切死、焼死了ト、
念沸堂、塔(唐)禪院、四聖坊、安樂坊、深井坊同日焼了、

一、氷室山ニ陳取衆、幡州別所人數幷郡山辰巳衆則時ニ自焼了、

※點=占 法花堂=法華堂 尺迦像=釈迦像 言悟道斷=言語道断 浅猿ヽヽ=浅まし浅まし 當=当 陳取=陣取 幡州=播州

  1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)
  2. 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで(1555~1560)
  3. 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで(1560~1564)
  4. 美濃攻略戦(1564~1567)
  5. 覇王上洛(1567~1569)
  6. 血戦 姉川の戦い(1570 1.~1570 7.)
  7. 信長包囲網の完成(1570 7.~12.)
  8. 比叡山焼き討ち(1571 1.~9.)
  9. 義昭と信長による幕府・禁裏の経済改革(1571 9下旬~1571.12)
  10. 元亀3年の大和動乱(1572 1.~1572 6.) 当該記事
  11. 織田信重(信忠)の初陣(1572 7.~1572 9.)
  12. 武田信玄 ついに西上作戦を開始する(1572 9.~1572 12.)
  13. 将軍・足利義昭の挙兵と武田信玄の死(1573 1.~1573 4.)
  14. 将軍追放 事実上の室町幕府滅亡(1573 5.~1573 7.)
  15. 朝倉・浅井家滅亡(1573 8.~1573 10.)
  16. 三好義継の最期(1573 10.~1573 12.)

参考文献:
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
上松寅三(1930)『石山本願寺日記 下巻』大阪府立図書館長今井貫一君在職二十五年記念会
柴辻俊六,黒田基樹(2003)『戦国遺文武田氏編第三巻』東京堂出版
竹内理三(1978)『増補 續史料大成 第三十九巻(多聞院日記二)』臨川書店
三重県(1999)『三重県史 資料編 中世1(下)』三重県
三重県(1999)『三重県史 資料編 近世1』三重県
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
山科言継(1915)『言継卿記 第四』国書刊行会
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書<東日本編〉』柏書房
久野雅司(2019)『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版
瀬野精一郎(2017)『花押・印章図典』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
鈴木正人(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
など

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