小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、畿内を領する羽柴秀吉(1586年に豊臣賜姓)と中部を領する織田信雄・徳川家康の間で起こった戦いである。

尾張国北部の小牧山城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各方面で合戦が行われた。

さらにこの小牧・長久手の戦いに連動する形で北陸、四国、関東においても合戦が起こり、全国規模の戦役となった。

畿内を手中に収め天下取りに王手をかけた羽柴秀吉に対して、
徳川家康は織田信雄を支援する義戦と称して、対抗した。
秀吉は上杉を自陣に取り込み、家康は北条を引き寄せ、天下を二分にしつつあった。

犬山城の旗揚げ

小牧の役では、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、織田信雄・徳川家康の陣営と結んで、羽柴包囲網を形成した。

 

天正12年(1584年)3月13日、徳川家康が尾張清州城に到着すると、その日のうちに織田・徳川陣営に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴陣営に寝返り、犬山城を占拠した。

家康はこの動きに対抗するため、すぐさま3月15日に小牧山城付近に入った。

 

羽黒の戦い

3月15日、池田恒興と連携した森長可は、兼山城を出て、16日に羽黒(犬山市)に布陣する。池田勢より突出した形を取った。

敵勢のこの動きを察知した徳川軍は、同日夜半に松平家忠・酒井忠次ら兵5000が羽黒へ密かに出陣した。翌17日早朝に酒井勢が森勢を奇襲した。これに対し、森勢は、酒井勢先方の奥平信昌兵1000を押し返して、対抗したが、側面を松平家忠率いる鉄砲隊の射撃を受けたことで後退した。森勢の浮足立つのを見た酒井勢2000が左側より敵の背後を突く形を取ると森勢は敗走した。森勢の死者300余人を出すに至る。

小牧の両軍布陣

森勢らを一敗地に塗れさせ、敵襲の憂いを断った後、家康は18日に小牧山城を占拠した。周囲の砦や土塁を急ピッチで築き、羽柴軍本隊の来襲に備えた。

秀吉は3月21日に兵3万を率いて、大坂城を出立。25日には岐阜に入り、27日犬山に着陣す。

この間、両陣営では、犬山、小牧山周辺で防御構築が早急に行われ、両陣営ともに攻め込むスキがなくなってしまう。両軍とも対峙したまま、挑発や小競り合いに終止し、戦況は膠着状態に陥った。

三好秀次の奇襲部隊出陣

羽柴、徳川両陣営は、小牧付近でしばらく対峙したまま、膠着状態が続くと、4月4日、池田恒興が、秀吉のもとに訪れ、三河西部の奇襲を献策した。奇襲部隊を三河西部へ出して、各要所を放火して回れば、徳川本隊は小牧守勢でいられず、救出部隊を派兵しなくてはならなくなり、防衛戦線のスキを作り出すことができるというもの。秀吉は気乗りせず。

翌5日朝に再び秀吉のもとに訪れた恒興は、森長可とともに羽黒戦の敗北の恥辱を雪ぎたいと陳情した。これに対し、秀吉はついに作戦許可を出した。

森長可らを主力とする支隊編成を行い、翌6日夜半に三河西部へ向けて、出陣した。

一方、徳川家康は、4月7日に三好秀次が率いる羽柴軍の別働隊の移動を察知する。篠木・上条城周辺に2泊野営していることを掴み、これを叩くべく、別働隊の編成を急いだ。

翌8日夕刻に丹羽氏次、水野忠重、榊原康政、大須賀康高ら兵4500が小牧を出立。その日のうちに小幡城に入った。

さらに家康と信勝の主力9300が夜半に小牧山を出発。夜半に小幡城に着陣す。

小幡城にて軍議を開き、兵力を2分して、敵軍を各個撃破することで決した。

翌9日、日が昇る前に羽柴軍を奇襲すべく織田・徳川軍が出陣す。

一方、羽柴秀次らは、徳川側の動きを察知せず。家康本隊が小幡城に入った8日も、その動きを知らぬまま、行軍を再開。9日未明には、池田恒興隊が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城を攻撃。氏重らは善戦したが、約三時間でほどなく落城。氏重らは玉砕した。

この攻城戦の最中、秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、近くで休息し、攻城戦後の進軍開始を待った。しかし、この頃、徳川軍が背後まで迫っていた。

白山林の戦い

岩崎城の攻城戦が行われている間、羽柴秀次勢は白山林にて休息していたが、9日4時35分ごろ、後方より徳川勢の奇襲を受けた。水野忠重、丹羽氏次、大須賀康高勢が後方より羽柴勢に襲いかかり、また、側面からも榊原康政勢が襲い、秀次勢は持ちこたえる間もなく、壊滅した。

秀次自身は、馬を失い、供廻りの馬で戦場離脱を成した。

秀次を逃がすため、目付けの木下祐久、木下利匡ら多くの木下一族が討ち死にした。

桧ヶ根(ひのきがね)の戦い

羽柴秀次勢より前に布陣していた堀秀政勢に敵襲来の一方が届いたのが、秀次勢が徳川勢に襲われてから2時間後であった。秀政はすぐさま秀次勢救出に動き、道々で秀次勢の敗残兵を組み込んだ。堀勢は、桧ヶ根(ひのきがね)辺りに布陣すると、迫りくる徳川勢を待ち構えた。

秀次勢を撃破し、勢いに乗る徳川勢は、堀勢を攻撃したが逆に返り討ちに合い、さらに退く中、堀勢の追撃を受けた。

この一戦で徳川勢は、討ち死に280余とも500余とも伝わる。

織田・徳川本隊は、9日夜半2時ごろに小幡城を出陣し、東へ大きく迂回しながら、4時半ごろに権堂山付近を通り、色金山に布陣した。

そこで別働隊の戦勝と敗退の知らせを受けた。さらに本隊を岩作と通って富士ヶ嶺へ前進して、堀勢と池田・森勢の間を分断した。

敵方の本隊の動きを見ていた堀秀政は、家康の馬印である金扇があることを見て、戦況が不利であることを悟り、池田・森勢の援軍要請を無視して、戦場を後退した。

長久手の戦い

岩崎城を落とした池田恒興、森長可に徳川軍襲来の報が伝わると、池田、森勢は、徳川勢本隊と対峙すべく、兵を城から引き上げ、戦場へ布陣した。

一方、徳川勢は、富士ヶ嶺より前山に布陣し、右翼に家康3300、左翼に井伊直政3000、これに織田信雄勢3000で布陣した。

これに対して、池田勢は、右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)と次男・池田輝政4000、左翼に森長可3000、後方に恒興2000で布陣した。

4月9日午前10時ごろ、両軍が激突し、戦闘は2時間あまり続いた。戦況は一進一退の激戦となったが、前線に出ていた森長可が狙撃され討ち死にすると左翼が崩れ、徳川勢が優勢となった。

池田恒興は自軍の態勢を立て直そうと指揮するも永井直勝の槍を受けて討ち死す。

池田元助も安藤直次に討ち取られる。池田輝政は、父・兄がすでに戦線離脱したと家臣に説得されて、戦場を離脱した。

敗走兵を追撃した後、徳川勢は小幡城に引き上げた。

この長久手の戦いで、羽柴軍は死者2500余人、織田徳川軍は死者590余人という。

一方、秀吉は、陽動作戦として、自ら小牧山へ出陣し、攻撃を仕掛けている。午後になって白山林の敗戦の報に触れ、秀吉は自ら兵3万を率いて、戦場近くの龍泉寺に向け急行した。この時、本多忠勝率いる500の兵に行軍を妨害される。

夕刻に家康が小幡城にいるとの報を受け、秀吉は、翌朝に攻撃開始を決める。

だが、家康と信雄は夜のうちに小幡城を出て、小牧山城へ帰還す。

秀吉は翌日になってこの報せを聞き、楽田に退いた。

休戦・講和

小牧・長久手の戦いから半年以上経った11月12日、秀吉は、織田信雄へ伊賀と伊勢半国の割譲を条件に講和するよう申し入れた。信雄はこの条件を受諾し、講和が成ると、信雄を支援するといいう大義名分を失った徳川家康は、11月17日に三河に引き上げた。

織田信雄の所領だった伊賀と伊勢半国は、講和により割譲され、伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方諸将に分け与えられた。

さらに秀吉は、徳川家康と講和すべく、滝川雄利を使者として浜松城に送り、話し合いを試みた。家康は一時休戦とし、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子にするため、大坂に送った。こうして、小牧・長久手の戦いの戦役は終わった。

秀吉包囲網の瓦解

秀吉包囲網の中心的存在だった織田信雄、徳川家康がそれぞれ単独講和をしてしまったため、秀吉包囲網は寸断され、以後、秀吉に各個撃破される憂き目を見る。

紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親らは、それぞれ、秀吉に攻められ、天正13年(1585年)8月までに制圧されてしまう。

北陸の雄として、秀吉勢と対峙していた佐々成政は、天正12年(1584年)11月23日、自領の越中富山を発して、雪部会立山を越え(さらさら越え)、浜松の家康を訪ね、秀吉への徹底抗戦を説得しようとしたが、聞き入れられず。天正13年(1585年)8月に富山の役にて、成政は、秀吉側に降伏した。

これにより、天下を二分する勢力の雌雄決戦は、完全に秀吉側に傾くこととなる。この頃の秀吉は、いまだ徳川家康を武力で除くことを諦めず、中部討伐を模索していた。