大和徒然草子

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思ってたんと違う。(2)廃仏毀釈

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皆さん、こんにちは。

 

突然ですが、廃仏毀釈ってご存知でしょうか。

仏教を排撃して、寺院を破壊したり、仏像、仏典を破棄したりすることを指しますが、1868(慶応4)年に布告された神仏分離令をきっかけに、明治初頭、神道国教化運動の中で仏教が排撃を受け、多くの寺院が破却され、仏像、仏具仏典が失われた事件、時勢、社会風潮がもっとも知られているかと思います。

 

一般的には、仏教が一方的に排撃され、神社の地位が上がり、大事にされるようになったと受け取られることが多いかと思いますが、実際は多くの神社も破却され、祭神が変更されるなど、廃された神々も多くあったことは、意外に知られていないんじゃないでしょうか。

明治初頭の神道国教化運動

そもそも明治初頭の廃仏毀釈は、王政復古後に成立した維新政府が1868(慶応4)年1月に第一次官制で太政官の下に神祇科を置かれたことがきっかけでした。

神祇科には、律令時代の神祇官復活を目指し、祭政一致復古主義的な政治を理想とする国学者神道家たちが任用されました。

神祇科に付与された権限の範囲は、国家祭祀と宗教政策、国民教化のみであり、国家の重要な決定にかかわることはありませんでしたが、天皇の神権的権威に恃むところが大きかった岩倉具視大久保利通ら、発足間もない維新政権首脳たちにとっても、建前としての祭政一致イデオロギーは政権維持に不可欠のものであり、神祇科の中枢を握った国学者神道家たちは、その職掌内で自らの「理想とする神道」を中心とした宗教政策を推進します。

1868年3月には王政復古と祭政一致神祇官復興の理念と、全国の神社、神職神祇官へ「附属」することを布告したのを皮切りに、それまで神仏習合によって神社で神勤していた社僧たちの還俗や、神社で仏像を祀ることを禁じ、神仏分離政策を急進的に進めていきました。

この時、彼らが目指した「理想とする神道」とはどのようなものであったか。

それは「祀られるべき神」を祀り、それ以外は淫祀邪教として排除する事にほかなりませんでした。

その姿勢は、当時の神祇官の思想に大きな影響を与えた国学者矢野玄道が、1867(慶応3)年12月に著した、政策構想である「献芹詹語(けんきんせんご)」で明確に示されています。

即ち「祀られるべき神」とは、記紀神話に登場する神々、皇統に属する人々、国家に功績のあった人々であって、それ以外は排除するという姿勢が打ち出されたのです。

そのため、記紀神話に登場せず、皇統にも属さず、国家への功績も認められない「神」を祀っていた神社は、祭神の変更や、ひどい場合には破却されるなどの措置が取られていきました。

そういった神社の代表格が、京都の祇園社と東京の神田明神です。

祇園社

京都の夏を代表する行事である祇園祭は、八坂神社の祭礼として知られます。

四条通の東端に鎮座する八坂神社ですが、江戸時代までは祇園神こと牛頭天王を祭神とする神社であり、祇園社祇園神社と呼ばれていました。

平安時代の初期から、当初は興福寺、のちに延暦寺の支配を受け、「祇園社」という名称からも、非常に仏教色の強い神社であったことがわかりますね。

牛頭天王はもともと陰陽道の神です。

祇園精舎の守護神とされたことから祇園神とも称され、疫病を流行らせる神とされていました。そのため、同じく疫伸とされた神道の神スサノオと習合、本地仏薬師如来とされた典型的な神仏混淆の神でした。

牛頭天王自体は、中国の文献にはないため、日本独自の神ともいえると思いますが、仏教的であったことから、「祀るべき神」として相応しくないと判断され、祭祀の対象から外されることとなります。

祇園社は京都以外にも全国各地にありましたが、祭神は牛頭天王と同一視されたスサノオに変更され、社名も京都の総本社は鎮座した地名から八坂神社に改められ、その他の地の神社も素戔嗚神社などに改称されました。

また、神社の祭りの名も、江戸時代までは祇園御霊会と呼ばれていたのが、現在の呼び名である祇園祭と改められてしまいます。

平安時代から1000年続いた伝統を無視して、1868(慶応4/明治元)年に祭神も社名も変更されたわけですが、今でも京都の人々からは「祇園さん」と呼ばれ、祭りの名も「祇園」の名を冠し続けていることからも、当時の神祇官の施策は、人々の心にまで全く響かなかったことがうかがえますね。

 

神田明神

東京の御茶ノ水駅のほど近くに鎮座する神田神社は、現在でも江戸時代までの呼称、神田明神の名で知られます。

元の祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)でしたが、鎌倉時代末期の14世紀初頭、発生した疫病が、平将門の祟りとされたことをきっかけとして、1309(延慶2)年、将門が相殿神として祀られることとなります。

以後、将門の御霊信仰として、関東、江戸の人々から篤い信仰を受けることになりました。

しかし1874(明治7)年、明治天皇行幸に先立って、教部省は将門を祭神から外すよう神田神社に指令を出します。

平将門はご存知の方も多いでしょうが、平安時代に関東で朝廷に対し反旗を翻し、新皇を称した人物です。

逆賊として討伐を受け、敗死した後、恐るべき怨霊になったとされた将門ですが、その怨念の強さゆえに、御霊信仰の対象として大きな崇拝を受けました。

この世に未練を残して死んだ人を恐れ敬う御霊信仰自体は、招魂社、後の靖国神社護国神社が全国に創建されたことからも明らかなように、明治初期の神社創設を支える大きな理念でしたが、あくまで祀られるべきは、皇統に属する人物や、国家に対して功績があるとされた人々に限られました。

この論理でいくと、将門を御霊信仰の対象として祀ることは始末に悪いということで、将門は祭神から外され、境内の摂社に移されてしまいます。

そして将門に替わり、少彦名命スクナビコナノミコト)が常陸大洗磯崎神社から分霊され、大己貴命とともに主祭神として祀られることになりました。

 

この状況に東京の人々はストレートな反発を示し、例祭への参加を取りやめ、神官たちを「新政府に媚びへつらって神徳に背いた人非人」と罵って、賽銭を投ずるものはいなくなりました。これに対して新たに造立された将門神社の小さな祠には、参詣者があいついだと当時の新聞が伝えています。

ここでも、新政府の思惑と民衆の伝統的な信仰との対立が見られますね。

戦前戦後を通じて、長らく将門は神田神社の摂社に鎮座していましたが、その信仰は粘り強く続きます。

そして、1984(昭和59)年には、再び本殿に祀られることとなり、主祭神に復帰するのです。

 

このように新政府が推し進めようとした国体神学の枠に収まらない神社は、祇園社神田明神のような大社であっても、祭神の変更が迫られる中、全国各地の村落レベルの神社の多くが、「祀られるべき神」にあてはまらず、廃絶や祭神変更されていきました。

廃仏毀釈といえばとかく仏教寺院が大きな打撃を受けたイメージが強いのですが、我々の祖先たちが伝えてきた、多様な神々への信仰も、永遠に失われてしまったのです。

伊勢神宮

さて、明治維新後、皇祖天照大神を祀り、もっとも尊重されるべき神社とされたのが伊勢神宮です。

江戸時代から多くの参詣者を集め、その隆盛にますます拍車がかかるかと思いきや、明治初頭の国体神学が伊勢神宮にもたらしたものは、伝統の破壊と神宮動座論という、神宮史上最大の危機でした。

 

宗教統制のもと国民教化のために設置された神祇省、続く教部省により、1871(明治4)年から翌1872(明治5)年にかけて、矢継ぎ早に神宮の「改革」が断行されることになります。

その皮切りは1871年に、それまで神宮祭主を世襲してきた藤波家を罷免し、近衛忠房を神宮祭主に任命したことでした。

神社は「国家ノ宗旨ニテ一人一家ノ私有」すべきものではないという前提のもと、1871年7月に布達された神宮「改革」の要点は次の3点です。

 

まず一点目は「内宮」を「外宮」の上位に置くというものでした。

ご存知の方も多いかと思いますが、伊勢神宮天照大神を祀る内宮と、豊受大御神を祀る外宮に分かれています。

実は中世以来、内宮と外宮に上下はなく、民衆的な伊勢信仰ではむしろ外宮のほうが比重が高い状況でした。

しかし、皇祖神を祀る内宮を至高のものとする国体神学にすれば、この状態は許容できるものではなく「御体裁ノ別」等を定めるよう命じて、内宮を最上位に据えたのです。

 

二点目は、内宮は荒木田氏、外宮は度会氏の人々が独占してきた神職世襲を廃し、両氏以外の人からも神職を任用し、両氏が伝統的に維持してきた神職の身分組織を解体して、新たな職掌に組織するものでした。

同じ職位でも内宮の方が外宮より上位とされ、ここでも内宮の優越性が徹底されました。

 

三点目は、江戸時代以前の伊勢信仰興隆に大きな役割を果たした御師(おんし)と御師が行ってきた大麻配布の廃止です。

戦国時代、神領を武士に蚕食され、経済基盤を失った神宮を支えたのは、各地に神宮信者を増やして参拝者を募った御師たちであり、特に江戸時代の爆発的な参拝者増加を実現させたのも彼らでした。

御師は現在で言うところの旅行社的な役割を持っており、伊勢での宿舎も提供しており、圧倒的に多数の御師を抱える外宮は、江戸時代まで経済的にも神宮信仰の中心にありました。

しかし、国家主導による国民教化を図るうえで、御師は全国的に廃止されることになり、大麻の配布も神宮司庁が大麻製造を行って、全国の地方官を通じて国家の手で配布されることになったのです。

また、御師制度の廃止により、多くの御師を抱えて隆盛を誇った外宮の凋落は、決定的なものとなりました。

 

以上の三点以外にも、神宮の祭典が国家の祝祭日に合わせて改められ、古くから続くいくつかの祭典は廃されたり、私的な神楽祈祷を禁じて、外宮の神楽殿、内宮の御祓頒所が撤去されます。

このように神宮の「改革」は従来の伝統的な伊勢神宮の信仰の在り方を根本的に改変するとともに、組織的にもその実態を完全に変えてしまうものでした。

 

さらに国家による祭祀の管理は、やや暴走気味なものとなり、1871(明治4)年に当時の立法府である左院が、宮中に天照大神を祀る神殿を造営し、伊勢神宮から身体の鏡を動座させることを建議し、1872(明治5)年1月の神祇官の建議では皇大神宮の神体である「鏡」熱田神宮の神体である「剣」を宮中に移し、三種の神器を全て天皇が奉斎すべきと、強く主張するに至ります。

これがいわゆる神宮動座論と呼ばれるもので、伊勢神宮はその創始以来、存立最大の危機に立たされたのです。

 

この神宮動座論は即座に伊勢周辺にも伝わり、旧神官や御師、そして地域住民に大きな不安を与えることになります。

そして1871年12月には、旧尾張藩士を中心に、約30名ほどの武装した集団が、当時の渡会県(三重県の前身の一つ)庁へ、神宮動座反対を嘆願すべく押しかける事件まで発生します。

この事件は、首謀者や参加者が次々に逮捕され、大規模な騒擾事件に発展することなく沈静化しましたが、無用の混乱を忌避したのか、神宮動座は結局実行されることなく、神宮は伊勢に残ることとなりました。

最後に

八坂神社、神田神社伊勢神宮と、廃仏毀釈が巻き起こった明治初頭の様子をご紹介してきましたが、神仏分離廃仏毀釈による文化的な激震は、仏教寺院だけでなく神社にも大きなインパクトを与えていたことがわかります。

国家の統制のもと、祭神や、伝統的な信仰の在り方を改変され、根本的な変質を余儀なくされた神社は、むしろ仏教寺院以上に本来の姿を失ってしまったのかもしれません。

祀るに値しないとして、廃絶され、あるいは合併された、全国の小さな社は無数にあり、多くの地域コミュニティで地元に根差した信仰が失われました。

戦前まで、国家神道は「宗教ではない」とされていましたから、明治初頭の宗教政策は、日本人が本格的に無宗教となっていく切っ掛けになったのかもしれないですね。

 

 

<参考文献>


 

 

次回はこちらです。

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