非人情の世界

tree and bird

創作をしていると「こんなもの何の意味があるんだろうか?」という気持ちになることがある。何故かはわからないが、自分の作ったものが決定的に無意味に思える瞬間がある。

きっとそういうのは錯覚なんだろう。だけどその錯覚はどこからくるのか。

何かを「無意味」だと思うなら、それは一方的に見た目線からの「意味」にやられているんだろう。自分の意識で考えられることなんかたかが知れているし、だいたい自分のやることに意味を求めすぎるとろくなことがない。

だけど人間って錯覚の生き物だなと思うのは、疲れているときは全くダメに思うことがあっても、風呂に入ってサッパリした後は全然気にならなかったりするから。別に自分以外は何も変わっていないのに。

そんなの当たり前だって思うかもしれないけど、意外と人間ってその「意味」にやられている瞬間はわからなくなる。人間はその瞬間瞬間で忘れる生き物だ。忘れるから生きていけるけど、忘れすぎると不便だ。そのあたりのバランスが必要なのかもしれない。

「何の意味があるんだろうか?」という一見ネガティブな思いが、そんなことは錯覚だから無駄だとは思わない。そのバランスをとろうとする振り幅を通じて、心の動きを知る事がきっと大事なんじゃないだろうか。

そう考えると、錯覚の中にも意味があるような気がしてくる。なんだ結局意味があったんだ。

最近、寝る前に夏目漱石の『草枕』を何日もかけて読み返した。寝る前だから少しずつ。ちなみに表紙の安野光雅さんの絵も好き。

以前はこの小説は古風で装飾の多い文章が多くて苦手だったんだけど、今は難しい単語の意味がわからなくても、文章の流れがなんだか心地よく感じた。この本は考えるというより、感覚で読む本なのかもしれない。

この小説は、絵描きである主人公が「非人情」の旅に出るという話だ。こう書くと意味がわからないけど、この「非人情」は冷たく人情が無いという意味ではなくて、人の世の煩わしさから離れるという意味だろう。

自然や情景の描写が多いのもそのためかもしれない。自然は「非人情」の世界だ。都市が「人情」だとすれば、自然が「非人情」か。頭で考えて意図して作られたものは「非人情」ではない。

人の意識にも「非人情」の世界が関わってくると思う。だから冒頭に書いた「こんなもの意味があるんだろうか?」という思いも、きっと僕が「非人情」の世界から離れてすぎているからなんだろう。「非人情」が「人情」にやられている。

意識や意図も大事だが、意識だけでカッチリ作られた世界は息苦しい。これは養老孟司さんの言う、今の時代は人に意識が行き過ぎている、というのにもつながると思う。

世の中には「人情」も必要だけど「非人情」も必要なんだろう。