医学ランキング
佐々木2 3-1 
佐々木恵雲さん(写真右)と藤本蓮風さん(同左)=奈良市「藤本漢祥院」


 鍼の知恵を語る「蓮風の玉手箱」をお届けします。今回は僧侶で医師の佐々木恵雲さんと、鍼灸学術団体「北辰会」代表で鍼灸師の藤本蓮風さんとの対談(第2弾)の3回目です。宗教と医療は本来、不可分のものだったのに、なぜ“住み分け”をするようになってきたのか? 対談では、その理由を分析しながら終末期ケアを行う「ホスピス」の問題点にも迫っていきます。(「産経関西」編集担当)

佐々木2 3-2
佐々木2 3-3
佐々木2 3-4

 蓮風 宗教と医学医療との役割みたいなものについて聞かせていただきたい。本当は一つの融合した世界で、先生の、お話を聞いていても、どこからどこまで(が宗教で、どこまでが医学医療)という境界はないんだと思うんです。けれども役割分担していると考えるほうが自然ですよね。

 佐々木 長い歴史から言いますと、医療の発端は宗教であることは間違いないですね。いわゆるキリスト教でもキリストが信者さんを治しておった。あるいは仏教でもお釈迦さんが呼吸法を使って治しておった。仏教医学といいますか。医療の原点が宗教であることは間違いない。西洋医学の場合、それが分かれて専門化していく上であまりにも高度化してる点で(原点から)外れてきている所はあるんですね。それに対して反発するというか、原点も見直すという意味で生まれてきたもののひとつがホスピスですね。

 蓮風 あの発想はだいたいあれはアメリカ医学ですか?

 佐々木 あれはヨーロッパです。

 蓮風 ヨーロッパですか。

 佐々木 特にイギリスです。あれは、どういうことかというと、医学をもう一度教会に…。つまり原点に戻ろうではないかという、教会の運動なんですね。

 蓮風 そういう発想のもとにホスピスというのが出てきたわけですね。

 佐々木 すべてを病院に任せるというのはおかしいではないかと…。つまり教会のルネサンスといいますか、もう一回医学を、医療を教会の側に取り戻そうという発想です。ホスピスというのは基本的にはキリスト教の思想がないとホスピスではないわけで、「緩和医療・イコール・ホスピス」とするのはおかしいんですけどね。

 今の時点ではただ大きく言うと宗教というのは精神的に心の問題にタッチしている。それと医学医療…西洋医学ですけれども身体的な問題に主に関与している。精神科は心を扱いますけれども…このように住み分けている状況であるかもしれませんね。ただ後でお話しできるかもしれませんが、原点は一緒なんです、源流は…。そこをちょっと考えないといけないかなと思っていますね。
佐々木2 3-5

佐々木2 3-6

 蓮風 父親から聞いた話なんですけれども、お釈迦さんの場合は耆婆大臣(ぎばだいじん)がついておられて、この人はお釈迦さんの主治医というか、鍼と薬の袋を持って産まれたという伝説のある方なんです。お釈迦さんが人々を救うにはどうしたらいいか、という話をなさる時は耆婆大臣が傍らで聞いています。人の身体を病気から守るにはどうしたらいいか、また病気を治すにはどうしたらいいかという話の時には耆婆大臣が表に立ってお釈迦さんが逆にお話を聞いておられたというような話を父親が言うてたんですけれども非常に面白い。

 子供の時から聞かされておって不思議な話やなあと思っとったんです。やはり根本は一つなんだけれども、そこに徐々に分化というかそういうものが表れて、それぞれの専門的なものが成り立った。医学の歴史というのは西洋医学でもそうでしょうけれども、東洋医学ではシャーマニズムが原点なんですね。

 だから、医学の医は「醫」。現在に伝わる原点なんですけれども、もっと古いものになるとこういうふうに(「●(=醫の酉が巫)」を黒板に書く)なってるんですね。“巫”が下にあるということはシャーマニズムが根底にあって、箱構えの中に矢があるというのは、人間が矢を受けて、ルマタ(●の殳の部分)でもって矢を抜くんだという字で医療そのものですね、そういうことを祈りながらやるんだと。こっち(「醫」)の“酉”は、サンズイをつけると酒、すなわちアルコール(消毒)になりますね。進化というと進化なんだけど、根底に「●」があるというのが大事なんですね。

 先々代住職だった佐々木先生のおじいさんの話を聞くと、お坊さんでありながら檀家さんなんかが病気になったら「これがいいで」「あれがいいで」と世話をするというのは「●」こっちなんですね。
    

 佐々木 そうなんです。浄土真宗では祈りという言葉はあまり使わないとは言っていますが、基本的に祈りというのは医療の原点ですね。

 蓮風 口はばったいですけれども、浄土真宗の場合は、祈るというよりは祈られている立場なんですよね。

 佐々木 願われているというんですね。

 蓮風 主体的に見るか客観的に見るかというだけの違いで、祈りと言えますよね。これものすごく大事なんですよね。浄土真宗の場合は、一面ではきざに見えるし、一面では本音を言っているんですよね。一番いいのは、やっぱり融合した世界がいつまでも保たれることですよね。

 そうなってくると先程のホスピスの話にしても、本来は治すためにやっている。結果として亡くなることはある。だけど、死にゆく医学という風に分けてしまう所に非常に僕はちょっと矛盾を感じるんですよね。

 昔の漢方医や、鍼医師は、周辺の者がこれあかんなと思っても必ず治療したというんですよ。これを止めて薬籠の蓋を閉めて帰ってしまったら、患者さんが見捨てられる。それをさとられないためにも、最後まで投薬し最後まで鍼をしたという話を聞いているんですね。そこにはホスピスなんかないんですよ。結果的にはホスピスみたいになっているかもしれないけれども。そこには混沌としたもっぱら医療として治そうという努力が前提にあって、治らないからこっちに行きなさいというのではないということは非常に重要な部分だろうと思うんですがね。

 佐々木 それは非常に重要な指摘でして、この時点で先生がおっしゃるように緩和医療をあまりに強調しすぎるのも注意が必要です。極端な言い方をすれば、具合が非常に悪いからといって、死なせていいのか、やはり医療の本質は患者さんの命を救うということですから、死なせていい命はありませんよね。

 蓮風 命を救うんですよね。

 佐々木 死なせる命ではなく、見守る命という視点が大切なんです。(生死については)見守るという継続性の中で判断すべきなんだと思います。〈続く〉