預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何を、憐れんだのか(マタイ20:29~34)

20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。




 ギリシャ語の「ソーゾー」は、「救われた」「癒された」どちらの意味でも使われる言葉である。さて、この盲人も「ソーゾー」されたのだが(マルコ10:52、ルカ18:42参照)、果たして、単に癒されただけか、それとも救われたのか。それは文脈から判断しなければならない。


 この盲人は、イエスに『憐れんで下さい(ギリシャ語の「エレイソン」)』と叫んだ。それに対して主は、可哀想に(スプランクニゾーマイ)と思われた。この言葉は、エレイソン以上の「身を切り刻むほどの痛切な憐れみ」とされる。果たして、何をそんなに? 盲人は世界で一番可哀想な人だということか。いや、マルコ6:34では「羊飼いのいない羊のようである人々」に対しても深く憐れまれた(スプランクニゾーマイ)とある。主の憐れみは、病気の度合いに応じて、ではなく、人々が霊的な命を持っていないことに対する憐れみなのだ


 この盲人も、言わば、霊的に死にかけている人であるのだから、本来なら、真の神に求めるべきは、救い・永遠の命であろう。だが彼は、肉眼・視力(オフサルモイ)の癒ししか求めない。主は『何をして欲しいのか』と(盲人であると分かった上で)あえて尋ねたのに、目先のことを求めずにはいられない人間の弱さ(不幸)を憐れまれたのだ。
 勿論、誰でも、癒されたい、豊かになりたい、などと求める気持ちはある。しかし、それが最大の願いになりかねない、そんな弱さに打ち勝つためにも、信仰による救いが必要なのだ。


 だから主は、盲人の求め(オフサルモイが開かれること)以上に、目(オマトン)に触れて、心の目を開かせ、救いへと導かれた。ただし『あなたの信仰があなたを救った』と言われた通り、盲人にも信仰があったのは間違いない。それは、「肉眼を開かせることの出来るお方、救い主、キリスト、ダビデの子」という信仰だ。


 私達も本当なら、初めから、神の国とその義を、神の栄光を、第一に求めるべきだ。しかし、自分の祝福を求めないではいられない「弱さ」を、主は憐れんで下さった……それが、今私達が救われている、ということではないだろうか。憐れみ深い主に感謝しよう。そして、更に心の目が大きく開かれて、神の栄光を求める者となろう。

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