書こうと思った発端は、中学時代の友人のSNSを偶然にも見つけてしまったところから始まる。
もう10年も連絡をとっていないので今更見つけたといってこちらから連絡することもない。
一方的に見ているだけだからこそ隣の芝生が青く見えるのだ。
他人がやってる事全てが羨ましくなって「やりたい」と嘆いた回数は数知れず。
言うだけタダ理論を貫き通して、あっという間に自分も24(になってしまう)。
その友人は新卒で入った会社を辞めて転職、趣味として大好きなドレスを着てモデルとしてあらゆるスタジオで撮影しているらしい。
SNSの投稿頻度と内容からまだモデルは趣味の一環であることは明白なのだが、
多分このまま継続していれば仕事として成立しそうな勢いである。
それに比べて私と言ったら。
出戻り社会人1年目が終わろうとしている今、
社会的地位だとか経験の積み重ねだとか、
繰り返す日々。ドツボにハマっている。
世間が「真っ当」だと思っていることをこなすのに必死だ。
私だって大学生の時はそこまで金に執着もなく、
気になるバイトを掛け持ちしては数ヶ月で辞め、他人の迷惑も考えず自由気ままに過ごしていた。
でもそれはバックに"大学生"という肩書きがあったからだ。
………と思っていた。
でも多分違う。
この友人は"社会人"という肩書きをバックに付けて趣味を謳歌しているのだ。
そして、「私の叶えたい100の事」を書いているのを見つけた。
私はといえばもう老後のことを考えては仕事をいかにして辞めるかを考えている。
貯蓄がどうとか給料とか全部金の心配ばかり。
正直何が楽しいんだろうと思う。
さらには夢を書き連ねたところで「金と時間があればできる」ことばかり。
逆に、自分ってここまで現金な人間だったのかと改めて実感する。
80くらいまではわりとやりたい事も見つかったがあと20くらいから厳しくなってきた。
100も捻り出して思ったことがある。
昔やりたかったことや、いつの間にか諦めてたことが沢山あるなと。
最近は仕事と将来のことばかり。
趣味をしてみては「自分は何をしているんだ」と虚無と焦燥感。
じゃあ何のために働いているのか。
そもそもなんで人類は生きているのか。
考え出したら人間なんてそもそも居てもいなくてもいいのだ。
なんらかのバグで生まれてきてしまったから、
生きるために狩りをして頭脳が発達して発明してそれを継いで行こうと子孫を残したのだ。
先人たちが作り上げた世界でのうのうと生きている私にはそんなの関係ない。
それならもう「常識」のレールを無理して走らなくてもよくない?
まあそんなこといっても「空を飛ぶ」とか「透明人間になる」とかそういう夢を持てるようにならないといつまで経っても現実主義は治らない。
いつまでも常識のレールに添い続けるなら、せめて、少しの自己中くらい許されてもいいと思う。
明日、五体満足で自分が生きている保証はどこにも無い。
やりたい事はこれからも確実に増え続ける。
欲望に押しつぶされないように、そしてなにより後悔しないように
やりたい事は全部やろうと思った。