吾輩は人間だった筈である

三毛猫

吾輩は人間だった筈である。名前は《ナオヤ》。
そんな吾輩は今、どうやら猫になったらしい。

なぜ、そう思うのか? 理由は簡単だ。

部屋の慣れ親しんだ姿見鏡に写っているのは、某アイドルに似ていると噂の美青年ではなく、どう見てもモサモサとした毛に全身を包まれた四足歩行獣だからである。

『ニャア!』

姿形だけであれば超常的な光学現象であると曲解できなくもないが、

「なんという事だ!」

と発したはずの声さえも猫そのものになっている以上は、吾輩は猫になったのだと認めざるを得ない。

もっとも、それが神に与えられし試練なのか、それとも悪魔の呪いなのか、はたまた狂科学者の悪戯かまでは判らないが……。

そして、もう一つ明らかになった事がある。

それは、第三者から救出されない限りは、生きてこの場から脱出できないであろうという事だ。なにしろ、今の吾輩には首輪が嵌められているのだ。

しかも、ただの首輪ではない!

その首輪からは太い鎖が伸びていて、壁に打ち込まれた楔にシッカリと繋がれている。
つまり、信じたくはない事であるが、吾輩はこの部屋で飼われているという訳だ。

それにしても、これは一体、どういう趣向なのだろうか? ?
監禁するにしても、もっと他の方法があっただろうに……

まあ良い、いつまでも考え込んでいても仕方がない。

このまま誰も訪れずに餓死してしまうのは最悪のケースだが、さりとて、吾輩をこのような状況に追い込んだ張本人が現れても、解放の訴えを聞き入れてくれる可能性は低そうだ。

まぁ、本当はこれが夢であり、目が覚めたら飼っている猫が吾輩の腹の上で寝ている……というオチである事が最も望ましいのだが。

しかし、現実は非常なり!!

とりあえず、鎖が何メートルほどの長さであるかを歩いて確認し、その範囲の中で脱出の手掛かりとなる方法(ジャンプしてドアノブを回す、あるいは電話をかけるなど)を模索しようと思った矢先に、まさに部屋のドアが開き、憎き飼い主が姿を現した。

なに?いや、ちょっと待て!?

なぜ、吾輩は部屋に入って来た人物が飼い主だと思ったのだ?
そしてなぜ、その人物が憎いと思うのだ?

……などと自問している間にも、飼い主らしき人物が近付いてくる。

「おっ、起きてたんだね?」

しかも、その声には確かに聞き覚えがある。
この声は、この声こそは、吾輩自身の声ではないか!!

「おはよう。よく眠れたかい?」
『ニャッ!!』

なんという屈辱だろうか、

「キサマ、これはどういう事だ!?」

と問い質した筈の言葉も、やはり猫の声のままであった。

吾輩の声を使って話す、その不可思議なる人物は、おもむろに手を伸ばして吾輩の頭を乱暴に撫でた上で言葉を続けた。

「大丈夫だよ。君の事は僕がちゃんと面倒見てあげるから。なにしろ、君は僕自身なんだからねぇ……あははははは!!」

そう言い放ってニヤニヤと笑う飼い主の顔を確と凝視した瞬間、吾輩は絶望のドン底に叩き落とされた。
その声のみならず顔もまた、毎朝、鏡で見慣れている筈の吾輩自身の顔だったからだ。

この状況を引き起こした物理学的要因に関しては皆目見当がつかないが、とりあえずは悪魔の仕業という事にしておいて、哲学的に分析した現状認識の解は、たった一つしかない。

目の前に居る不敵なる人間は吾輩自身であり、そして、この不自由なる猫の身体は、吾輩が飼っている筈の《トキオ》のものであるという事だ。

『ニャアァ~ン……』

あまりの不条理さに情けない鳴き声を上げながら、吾輩は心の底から天に向かって叫んだ。

「うんうん、望んでいた身体になれて嬉しいんだね。僕も、ずっと憧れていた人間の身体になれて、とても満足しているよ。でもまぁ、強いて不満を挙げるとすればジャンプ力が著しく落ちた事かな」
『ニャーッ!!』

吾輩が憤怒の雄叫びを上げると、それを察したかのように電話の音が鳴り響いた。

「おっと、仕事の依頼かな」

飼い主(のフリをしている者)は吾輩の頭をもう一度軽く撫でてから、デスクの上の電話の受話器を取った。

「はい、望月です。あっ、はい、お世話になっております。えぇ……えぇ……はい、了解しました、それで引き受けさせて頂きます。あっ、でも、納期に祭日が含まれてますよね?その場合は……あっ、なるほど、分かりました。では、取り掛からせて頂きます」

受話器を置くと、飼い主は電話機の隣りのデスクトップPCの電源を入れた。

「さてと、仕事を片付けないとな。君と遊ぶ時間を作る為にも、ね?」

その一言に、吾輩は思わず身を震わせた。
おまえは、おまえの中身は、吾輩が飼っている筈の《トキオ》ではないか!
猫であった筈のおまえに吾輩の、人間の仕事が務まるとでも思うのか?

『グルルルゥ……ニャーッ!!』

吾輩が抗議の声を上げると、吾輩のフリをしている《トキオ》は、言わんとする事は御承知とばかりに、

「あぁ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。なにしろ、僕は毎日、隣で君の仕事ぶりを見ていたわけだからね、否が応でも覚えるさ」

と、微笑みながら言ってのけた。

いや待て、あまりに出来過ぎた展開に、この状況の根本的な部分を危うく失念してしまうところであった。

こ奴は先程、この状況を何と説明した??
吾輩に対して「望んでいた身体になれて嬉しいんだね」などとぬかしたのではないか?
吾輩が望んだ?この状況を?猫の身体になる事を?

そして、自分自身に対して「憧れていた人間の身体になれて」とも言った筈だ。
吾輩は猫に成る事を望み、《トキオ》は人間に成る事を望んだ……

なるほど、それが事実なら両者の利害は一致した事になる。
Win-Winの関係ならぬ、《nyan-nyanの関係》という事か。

いや、ダメだ、全く上手い事言えていない。残念ながら吾輩は今、俗に言う「テンパった状態」である事を認めざるを得ない。
そんな吾輩の葛藤をよそに、人間に成り済ました《トキオ》はワープロソフトを立ち上げてカタカタとキーボードを叩き始めた。

その手捌き、特に《Ctrlキー》に置いた左手の小指を起点として他の指を伸ばす独特の手癖は、まさにウェブライター歴10年の吾輩の習慣そのものだった。

「あぁ、このブラインドタッチっていうヤツも、最初は神業かと思ったけど……慣れてくると、そんなに難しいものでもないんだね」

その調子で、説明のような独り言をつぶやきながら吾輩の仕事を代行(?)した《トキオ》は、小一時間ほど経過してからようやくモニターから目を離し、首を回しながら肩を叩いた。

「ふぅ……やっと終わったよ。じゃあ、ちょっと休憩しようかな」

そう言うと、《トキオ》は椅子から立ち上がって床に直接座り込み、今一度、吾輩の頭を撫でた。

吾輩、望月ナオヤと《トキオ》の精神が、何らかの理由で入れ替わってしまった事は、今や完全に理解できた。

そして、吾輩に成り済ました《トキオ》が、吾輩の代わりに日常の生業をこなしているのだという事も理解できた。

問題は、いつまでこの状態を続けるのか?特定の期間を過ぎれば、あるいは特定の条件を満たせば、元の身体と関係性に戻れるのだろうか?

もし、このまま一生、《トキオ》として生き続ける事になったとしたら……

「ねぇ、ナオヤくん……」

突然、名前を呼ばれて我に返ると、目の前には心配そうな表情を浮かべる飼い主ヅラがあった。

「君は何が不満だったのかなぁ?君と僕の心が入れ替わってから、まだ一晩しか経ってないけど、とりあえず今のところは……不満と言えるほどの事は何も感じないんだよねぇ」

『ニャッ!?』

不満を吐露したのか?吾輩が?人間である事に?
だから、心が入れ替わったと言うのか?

「君、しみじみと言ってたもんね。猫は気楽でいいよなぁ、ニャンニャン鳴いてれば餌が貰えて、後は一日中、寝ていられるんだもんなぁ……って」

いやいや、確かにそのような趣旨の発言をした記憶はあるが、それはあくまで一般論を代表しただけであり、吾輩個人の意見ではない。

「けどさぁ、一つだけ断っておくけど……その首輪に付いてる鎖、僕が繋いだワケじゃないからね??」

『ニャニャン!?』

なんだと!?こんなモノ、一体、おまえ以外の誰が付けたと言うのだ!?

「僕は、君がずっと仕事中毒なんだと思ってたけど、ちょっと違ったみたいだね。どちらかと言えば外の世界と交わるのが怖いから、次善の策として仕事を片っ端から受けて、この部屋に一日中籠り続ける口実を作っていた、ってのが正解なんじゃないかな」

『ニャーニャニャ!!ニャーニャニャニャァァァッ!!』

やめろ、それ以上話すな!!ヤメロ、止めてくれぇぇぇぇぇっ!!

「その首輪の鎖、君が自分で繋いだんだよ、きっと」


かくして、吾輩は猫のまま生涯を終える事となった。

後悔が全く無いわけではなかったが、まぁ、当初に想像していたよりは悪くはなかったというのが本音だ。

ニャンニャン鳴いていれば餌が貰えるし、食事の後は一日中、寝ていられるし、そして何より……

《トキオ》が吾輩の頭を、いつも愛おしそうに撫でてくれるのだ。

- 終わり -

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