拗ね ひねくれを脱出。

思い込み勘違い狭い考え方だったと自身を反省し、二度としない、はまらないと決意。

約ひと月はまっていた。

 

そうすると 周りで拗ねひねくれが出現し 見せてくれる。

そういうことをしていたのか!とさらに自身に確信。

 

以前と違うのは、周りにみえる拗ねひねくれをなんとかしてあげようとして、自分自身をさげ貶め、私が頑張ってくるしめばいいんだと見せつけるかのような態度に逃げなくなったこと。

 

拗ねひねくれ脱出したといっても またはまるかもしれないから反省の意味で書いておく。

 

 

 

ここ数週間の眠気 だるさ 無気力感がすこし楽になった。

 

明るさで返すこと

いきおいで返すこと

 

これは決して軽薄で ノータリンで パっぱらでもない。

立ち上がるには 立て直すには 切り返すには、一つの方法なのだと知った。

いつまでも浸って 苦しんで どうしよう どうしようと いじいじしてると さらにこじらせるようだ。

 

深刻で 重くて どうしようもないと思えたり 見えたりすることは ある。 

誰かのせい 何かのせいで こうなってる!

だからあれをやっつける!

だからあの事が解決しないとどうしようもない!

自分は無責任!という拗ね ひねくれ。

 

これをごまかすために まったく別の社会問題 正義らしき行動 地震や戦争 病気のニュースに憤りをわざわざ感じて目をそらしてきたようだ。

 

 

拗ねやひねくれには、味わいがあって 浸ると 情に 浸って 感傷的になる。

子供の拗ねは かわいらしい。

 

だがしかし、



だがしかし、

 

 

自身の拗ねひねくれは 長くは続かない。

あきる。

 

どれだけ深刻に 苦しんで なやんで のたうち回って

こんだけしんどいのに どうしてわかってくれんのか!と 怒り 呪いを発していても、

長続きしない。

もって 1週間。

これ以上やると 自分で自分を 傷つけてしまう。

 

そんなことより

毎日の生活のなかで 

大切で 新鮮で 楽しい ありがたい ことがある。

コンビニで アイス買って おいしい!!!って 感じるだけで 気分が変わる。

 

前回の記事で書いたように、 言葉に意味はないのだ。意味をつけてるのは自分なのだ。

意味のない言葉に意味をつけるからこそ 映画 小説 は 感動をあたえてくれるが、つける意味 つける価値は私が決めるのだ。

 

 

5月。しんどかったな。

まだ 5月終わってへんけど。