沢田美喜女史と子どもたち

 

すめらぎいやさか。

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今年も当然のことながら、お盆と終戦の日がめぐってきます。例年東京・九段界隈は静かに戦没者の慰霊と感謝の誠を捧げる日にも関わらず喧噪の場となります。今年も国家指導者たる総理の参拝は残念ながら見送られることになりそうです。

国力の限りを尽くして敗れた大東亜戦争、主権回復まで日本人は艱難辛苦を強いられました。GHQ草案による憲法、神道指令、公職追放、財閥解体、枚挙ときりがありません。国民はその日一日を凌ぐのが苦難の時代でした。

 

今も戦後も女性が一人生きていくのは大きな障害を伴います。

戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。

ある日、満員列車で沢田美喜女史の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜女史の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。

「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」と・・・

 

澤田美喜女史は明治34年(1901)、三菱合資会社社長岩崎久彌の長女、創業者岩崎彌太郎の孫として生まれた。男の子が3人続いての4番目の子。美喜女史の竹を割ったような性格を大いに気に入った祖母は、兄たちのお古を着せ、取っ組み合いを良しとし、折にふれ祖父彌太郎のスジを通す性分を語って聞かせた。美喜はお茶の水の東京女子高等師範学校の幼稚園に入り高等女学校に進んだが、中退して津田梅子らに英語を学んだ。

20歳で外交官澤田廉三と結婚、クリスチャンになる。外交官夫人として、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと移り住む中で、持ち前の英語力と物怖じしない性格とから現地の社交界に迎えられ、国際感覚を磨き、幅の広い人脈を築いていった。

ロンドンでは毎週教会に通ったが、ある日、誘われて郊外にある孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪ねる。こざっぱりした宿舎。きれいな礼拝堂。緑に囲まれた広い敷地には、小学校から中学・高校まであり、職業訓練施設もある。ボランティアの人たちが生き生きとして働いている。そして何より子どもたちが明るい。美喜女史は感動し、それから毎週末、バーナード博士のもとで孤児たちのために汗を流して心に潤いを得たのだった。

 

「私はこの子らの母になる…」と決心した美喜女史は夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。

執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜女史は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。

昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホームをスタートさせた。美喜女史、46歳でした。

 

 

 

戦後まもない日本だった。焼け跡、闇市、失業、貧困、浮浪児、街娼…。みんな、自分のことだけで精一杯だった。黒い子、白い子、祝福されずに生を受けた混血の子どもたちが、母に連れられて、駅に捨てられて、あるいは門前に置き去りにされて、大磯のエリザベス・サンダース・ホームに引き取られた。澤田美喜はもちろん保母たちも寝る時間を削っての懸命の毎日だった。

パリ時代からの親友ジョセフィン・ベーカーが、美喜がエリザベス・サンダース・ホームを作ったことを知ると、すっ飛んで来て、日本各地で公演し、資金確保に協力してくれた。その上、ホームの孤児ふたりを自らの養子として引き取ってくれた。

だが、世間は冷たく無神経だった。混血孤児たちが町に出ると露骨な好奇の目に曝された。「△△△△だぁ」「××××の子よ、やあねぇ」と差別語が飛び交い、思わず美喜が「この子たちに何の罪があるというの!」と、金切り声をあげることもあった。

昭和33年(1958)には創立10年記念の写真集『歴史のおとし子』が出版された。新聞や雑誌でも紹介され、敗戦のショックから立ち直りつつあった人々の感動を呼んだ。その本に、多くの混血孤児を養子として育てているパール・バック※7が序文を寄せた。彼女はここまで漕ぎつけた美喜の事業をたたえながらも、「幼い孤児たちを幸福にしてやるのはそれほど難しいことではない」とクールに述べた上で、「子どもたちが大人になった時、澤田夫人は同胞の男女の助けを必要とするだろう」とさらなる試練を予言した。

 

混血孤児たちの試練はこれからが本番だった。ホームは敷地内にステパノ小中学校があり、いわば保護区だったが、最大の難関は子どもたちの社会への適合だった。美喜は、無条件の優しさは保母たちにまかせ、厳格な「ママちゃま」として振る舞った。厳しい躾(しつけ)を通じて社会の偏見と差別に耐えられるだけの免疫を作る。特に黒い肌の子には、愛しい「わが子」なるがゆえの愛の鞭。実際、それに耐え、強くなった者だけが、その後正々堂々の人生を切り開いたのだった。その一方で、残念ながら、美喜が警察に卒業生の身柄を貰い受けに行ったことは数えきれない。

エリザベス・サンダース・ホームは2000人に近い混血孤児を育て、半数近くを日本より偏見の少ない米国に養子として送り出した。さらに、より偏見の少ないブラジルのアマゾンに土地を買い、小岩井農場や三菱重工で技術を身につけさせた上で子どもたちを送り出したが、この方は16年の悪戦苦闘の末に挫折した。

 

昭和55年(1980)5月、スペインのマヨルカ島で美喜女史は客死した。「“ママちゃま”がいなかったら、いまの僕(私)はいない」。「エリザベス・サンダース・ホーム」出身者たちの多くが口にする言葉である。2000人を超える孤児を育て、500人を超える子どもたちをアメリカへ養子に出す仲立ちを行った美喜。当時、政府の公的機関が成し得なかった戦争孤児、混血孤児の育英に尽力した“ママちゃま”こと澤田美喜女史と、「エリザベス・サンダース・ホーム」の保母たちの業績は後世に伝えるべきものである。

 

そんな時代に混血児を引き取った美喜女史。「聖母」を連想させるが、ホームの子供たちの印象はちょっと違う。

 怖かったね。朝、コツコツコツとハイヒールの音がすると、「ママちゃまが来るぞ」ってね。どんなにワイワイしていても、みんな固まるんですよ

 黒人の父と日本人の母の間に生まれ、生後2カ月だった昭和31年春、ホームに預けられた森博(64)は、アルバムを手に笑う。

 森をはじめ、やんちゃ盛りだった子供たち。悪さをすれば宿舎にいる保母に叱られ、それでも言うことを聞かなければ、沢田が執務を行っていた母屋へ行くのが決まりだった。

 母屋に入ってふすまが開いたら、ビンタ一発。大きな指輪をしているから痛いのなんのって。でも叱られるのも分け隔てなかったね

 そんな森はホームの小学校卒業式で、沢田から卒業証書とともに、おねしょを克服したとして「よくがんばったで賞」をもらった思い出もある。

 子供が100人はいたかな。でも、ママちゃまはどの子がどういう性格でどうだというのを、見ていないようで知ってるんだよ

 日本人とは異なる顔立ちや肌の色。16歳でホームを卒業し、社会へ出てからは周囲の視線や露骨な態度を感じることも度々あった。それでも屈折することなく日本人として生きてきた。

 あそこで育ったから今があるとみんな自覚している。僕のような黒人も、白人もいたけど、みんな同じ釜の飯を食った仲間。だれかに差別されているということを意識せずに育ててもらった。

 

美喜女史を唯一の母と慕う、岡村正男(58)も同じ気持ちだ。

 へその緒が付いた状態でホームに預けられた岡村。約10年前、役所から届いた死亡通知で初めて実の母親の存在を知った。それまでも探すことはできただろうが、あえてしなかったのは、沢田の存在があった。

 普通施設って子供を預かるところでしょ。ところがママちゃまは預かりものではなく自分の子として育てた。だから、僕のお母さんはママちゃまでいいと思っているんだ

 岡村も沢田とのエピソードには事欠かない。授業にもろくに出席せず、校舎の外で遊んでばかりだった小学6年のころ。

 「あんた全然授業も受けてないから、ママちゃまが教える」。その日から半年間ほど、沢田が仕事を終えてから、午前0時ごろまで母と子の勉強会は続いた。

 「今日は帰りが遅くなる」と聞いたら、うれしかったよ。厳しさもあったし、うっとうしさを感じることもあったね

 毎朝、スーツにハイヒール姿で黒塗りの車に乗り込み、ホーム運営の金策などのために奔走していた沢田。普段はホームの保母ら職員が直接世話にあたったが、子供たちの脳裏に深く刻まれているのは、厳しくとも信頼できる存在だったママちゃまの姿だ。

 美喜女史の訃報に接した際には、仕事が手につかなくなるほど動揺した岡村。還暦を間近にした大の男は、いまだに母を恋い慕う。

 鳥の親は巣を何往復もするでしょ。ママちゃまは、そういうイメージ。年がら年中出かけていても、餌を運んできてくれる。とにかくよく働く人だったし、えこひいきもなかった。「僕のお母さん」という言い方じゃなくて、ママちゃまは「みんなのお母さん」なんだよ。と・・・

 

 

昭和天皇、香淳皇后行幸啓

 

大磯町の岩崎家別荘跡にたたずむホーム。木々で覆われた約3万平方メートルの広大な敷地には、子供が過ごす宿舎や小中学校が併設されている。沢田美喜女史の没後40年を迎えたいま、虐待を受けるなどした「措置児童」が大半を占めるようになった。美喜女史を知る人物も多くはない。それでも、沢田の残した深い愛は、社会の影が生み出す弱き者へと手を差し伸べ続けている。

 

 

参考文献、引用

参考ホームページ
三菱グループポータルサイト「※三菱人物伝」
https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro01.html

 

産経新聞:【勇気の系譜】沢田美喜さん 戦後混乱期に混血孤児院設立

 

 

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