八千代コミュニティプラザの玄関脇に立つ「敬老の日提唱の地」石碑

 

 

拙ブログにご来訪くださり感謝もうしあげます。

猛暑も一段落つき彼岸が近づくにつれ「秋」がすぐそばにきている気配がします。

五穀豊穣に感謝をする「秋祭り」はわが国を襲った武漢ウイルス感染抑止のため、ほとんど中止が決定されたと聞きます。

「神事」は継承するとのことですが、全国に「こだま」する笛、太鼓のお囃子が聞こえぬのは寂しいかぎりです。

今日、「九月十五日」はかって敬老の日でした。ハッピーマンデー制度によって、それまで定着していた「9月15日」から、「9月の第3月曜日」への移行です。今年は彼岸の中日が連なり日曜日を含んで三連休となります。

筆者は今時の為政者による都合、勝手で祝日を変えてしまうのは如何なものかと首を傾げたくなることしばしば・・・

終いにはわが国の「お国柄」さえも変えてしまうのでは?とさえ思う次第です。

 

冒頭の画像は筆者が今朝、八千代ミュニティプラザ(旧八千代町役場)の前と通りかかった時に撮影したものです。

「敬老の日」提唱に至る詳細を多可町HPより引用します。

 

昭和22年当時は戦後の混乱が続く時期で、子どもたちを戦地に送った親たちは、本当に精神的に疲れていたのです。野間谷村(現・八千代区)の村長であった門脇政夫さんは当時、福祉政策に力を入れていて、そんな親たちに少しでも報いてあげなければいけないと思いました。そこで「養老の滝」の伝説にヒントを得て、9月15日を「としよりの日」とし、55歳以上の人を対象に敬老会を催すことにしました。そんな敬老の精神は、全国に輪を広げ、今日の国民の祝日「敬老の日」制定につながりました。

平成14年までは毎年9月15日が敬老の日でした。現在でも八千代コミュニティプラザの玄関脇には、高さ約2メートルの石碑が建っています。前面には「敬老の日提唱の地」と刻み込まれ、敬老の日発祥のまちとして誇り高きシンボルとなっています。
「敬老の日」の誕生は、戦後の動乱期、昭和22年までさかのぼります。
当時、野間谷村(現・八千代区)の村長であった門脇政夫さん(中野間)は、初めて村主催の敬老会を開催しました。長い間社会に貢献してきたお年寄りに敬意を表すとともに、知識や人生経験を伝授してもらう場を設けることが目的だったそうです。

敬老会の期日は、農閑期で気候的にも過ごしやすい9月15日とされました。当日は、村中の自動三輪車を集めて55歳以上の人を送迎し、公会堂に招いてごちそうと余興でもてなしました。
翌昭和23年に「国民の祝日に関する法律」が施行。その中で、こどもの日・成人の日は祝日として挙げられましたが、敬老の日は挙げられませんでした。そこで、門脇さんは、この年に開催した2回目の敬老会で、9月15日を「としよりの日」と定め、村独自の祝日にすることを提唱しました。
そして昭和25年、兵庫県は他県に先んじて9月15日を「としよりの日」と定めました。さらに、県や国に対して働き掛けを続け、昭和41年、ついに「敬老の日」は体育の日などとともに国民の祝日に加えられました。

誇り高き伝統を受け継ぎ多可町では毎年、喜寿敬老会、おじいちゃんおばあちゃん児童画展を開催し、各区においてもそれぞれ敬老会なが行われています。
多可町が担う役割・・・。それは68年前に提唱された「敬老の精神」をいつまでも受け継いでいくことではないでしょうか。
冒頭の映像は敬老の日発祥の地と言われる多可町が作成したものです。多可町では「敬老の日」発祥の町として、敬老の精神をいつまでも受け継いでいくために、平成25年に公募で作成した敬老のうた「きっとありがとう」を制作しました。

また「敬老の日制定50周年記念式典」では秋篠宮両殿下も臨席されました。

 

(引用ここまで)

 

「敬老の日の発祥のまち多可町に、敬老のうた「きっとありがとう」が完成し、ひろく町内でうたわれるようになりました。

以下に動画と歌詞を添えておきます。

 

 

 

 

筆者の幼少の頃、筆者の祖父母らはほとんど明治生まれでした。
「明治生まれ」というのは、当然ですが日本にしかありません。又、今現在明治生まれの方は最年少であっても108歳を越えています。

(明治は1868年(明治元年)1月25日 から 1912年(明治45年)7月30日 まで。)
 明治という時代は、大政奉還による江戸時代の終焉とともに始まり、明治維新を経て、日本をあらゆる面で近代国家へ変貌させた時代であり、明治天皇崩御によって幕を閉じました。

現在推定で2000人余りの明治生まれの方が生存されていると言われています。

しかし、あと、数年も経てば・・・人間の寿命というものを考えてみた時、明治生まれの方はほとんどこの世の中にいらっしゃらなくなるでしょう・・・
他界して36年になる筆者の祖母の口癖は「ありがたい」「もったいない」「人様のため」「自分を下に下に」「親を大切に」...でした。まさに教育勅語の精神でした。
また、「怒り・憎しみ・妬み・嫉妬・不平・不満」は全て、増上慢、思い上がり」だと教えてくれました。いつも感謝と笑顔の人だったと...今でも記憶しています。
筆者が知る明治人は皆、「凛」としていました。
現在の人々にはない
起居振舞や姿などがりりしくひきしまっていたように思えます。
筆者らの世代ぐらいまでが、明治人の薫陶を僅かながらに受けた世代ですが、荒んでいく世相、荒廃していく道徳。先人が遺してくれた大事なものを一つ、また一つ失っていく様は、日本に住みながら別の国にいるようです。

 

一日また一日、現世と辞世されていく明治、大正世代の素晴らしい先人たち。
しかも、何かを為し、使命を達成したかのごとく颯爽とされています。
「ありがとうございました」と感謝の言葉しか見つかりません。

近年、国民の祝日を単なる休みとしか捉えず国民挙げて祝う風潮が退化しています。

本当に残念でなりません。

 

 

60歳 還暦(かんれき)、華甲(かこう)
70歳 古希(こき)
77歳 喜寿(きじゅ)
80歳 傘寿(さんじゅ)
81歳 半寿(はんじゅ)
88歳 米寿(べいじゅ)
90歳 卒寿(そつじゅ)
99歳 白寿(はくじゅ)
100歳 百寿(ひゃくじゅ・ももじゅ)、紀寿(きじゅ)
108歳 茶寿(ちゃじゅ)、不枠(ふわく)
111歳 皇寿(こうじゅ)、川寿(せんじゅ)
120歳 大還暦(だいかんれき)、昔寿(せきじゅ)
 

筆者もあと2年で還暦を迎えます。

まだ誰も達していない120歳にも大還暦(だいかんれき)、昔寿(せきじゅ)という名が付けられています。

長寿大国日本。現在世界最高齢者でもあり、国内最高齢者の福岡県在住の女性が116歳です。

明治、大正、昭和、平成、令和の日本を生き、わが国の栄華盛衰を見てこられた。

一日でも長寿であられることを願ってやみません。

 

 

 

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