天皇彌榮(すめらぎいやさか)

拙ブログへお越しくださり感謝もうしあげます。

作家である門田隆将氏が「今だから分る『根本博陸軍中将』が台湾を救った歴史的意味」と題して、自由民主党中央政治大学院主催、第2期まなびと夜間塾「憲法に学ぶ『この国のかたち』」の特別講座で講演。

戦前の日本人、日本軍を賞賛し、敗戦時の危機管理によって多くの同胞の命を救い、協力してくれた国民党、蒋介石への恩返しなどを熱烈に語っています。自民党議員の参加者が少ないことが残念でしたが、ねじ曲げられた戦後の史実を多くの日本人が知り、我々はその子孫であることの誇りをもってほしいと願うばかりです。

以下は筆者がブログにて綴った根本中将の記事です。

 

 

殺人鬼スターリンが率いたソ連がわが国に行った蛮行、「シベリア抑留」「婦女子への暴行、強姦、殺戮」

シベリア抑留をご存じない方々のために補足しますが、シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、大東亜戦争(太平洋戦争)末期、ソ連軍が不可侵条約を一方的に破棄、侵攻・占領した満州(現在の支那東北地区および内モンゴル自治区北東部)において、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人(民間人、当時日本国籍者であった朝鮮人などを含む)らを、ソ連が主にシベリアやモンゴルに労働力として移送隔離し、多数の人的被害を被らせた枢軸国側人の抑留と奴隷的強制労働に対する日本側の呼称です、強制連行された日本人は 約 575,000人厳寒の地で強制労働によって亡くなられた方々は一割弱の 55,000人にもなります。また満蒙(もと満州および内蒙古)終戦時には日本からの移民が約32万人がいたといわれ、非武装のソ連軍の無差別殺人、略奪、強姦、に遭いました。

筆者は、米軍による日本本土への無差別攻撃、ソ連による戦後の非道を覆い隠すためにありもしなかった南京虐殺が利用されているように思います。

なぜ多くの日本人が犠牲になったのでしょうか?大本営による指令により武装解除したからです。

 

 

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武装解除をする日本軍兵士

 

 

歴史にもしもはありませんが、今から思えば、武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証もありえず、居留民、婦女子が全部引き揚げるまで武装を維持し、大連の港で武装 解除して、日本に撤兵するよう大本営が命令すればよかったのですが、敗戦の経験の 全くないわが国、大本営は早々に武装解除を指示、後の日本人すべにに降りかかる苛酷(かこく)な運命など全く予想もせず日本人を守れませんでした。

しかし、冒駐蒙軍司令官だった根本中将は、熟考の末「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と命令を発しました。

また根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
通常は数時間で天津まで行ける行程を数日かけて移動しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配は感嘆です。

八月十九日より始まったソ連、八路軍の連合軍にも勝利しました。

ソ連軍を蹴散らした根本軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収、民間人避難の為に列車をすべて使ってしまったため、根本軍は徒歩による退却でした。

 

 

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故宮で調印式に臨んだ根本中将

 

 

 

モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯、根本中将は、北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しました。
北支那にいる全日本人(軍民合わせて三十五万人)の命を預かる身となりました。降伏による補給もない根本軍でしたが、敗れない、その戦いぶりは戦神と国民党軍や八路軍からも呼ばれたのです。

昭和二十年十二月十八日、蒋介石、根本中将との会談で、根本中将率いる北支那方面軍とは争わない、日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をするとの約束をとりつけ、こうして北支の日本人、三十五万人は、ほぼ全員が無事に日本に復員することができたのです。無条件に武装解除した地域では、日本人居留民は地獄の苦しみを味わいました。

蒋介石の協力に感謝し、根本中将は

「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束しました。

いかに有事には武装が大事かを先人が後世の我々に教えてくださっています。全ての任務を終えた根本中将は、昭和二十一年七月、最後の船で日本に帰国されました。

日本軍の武装解除による武器はソ連から支那共産党軍へと供与され、戦局は国民党軍は敗色濃厚となりました。

北京を去ってから僅か3年後、根本中将は蒋介石が苦境に陥る中、三十五万人の日本人を助けてくれた蒋介石の恩義に報いるため、小さな小舟で命がけで台湾を目指し、敢然として台湾に乗り込み共産党軍と対峙し、作戦参謀として金門島でこれを退けました。

共産軍の進撃は完全に止まり、六十余年を経た今日も、金門島は台湾領です。

根本中将の指揮下にあった、独立混成第二旅団に所属していた渡邊曹長は根本中将について以下のように述べています。

 

「軍隊とは国民を守るのが原点です。私は、あの時の根本閣下の命令は当然だったと思います。私たちの戦いは終戦になって以後のことなので、客観的にいえば、“反乱”ですよ。

 

でも、戦友は犬死ではなかった。そのおかげで、4万人が引き揚げて無事日本に帰って来られたのですから、結果的に4万の居留民を助けられたことは、私たちの誇りです。

 

隣の満州の関東軍は、武装解除に応じて、邦人があんなひどい目に遭ったわけですから、同じ将軍でも、わが根本閣下は違う、と私たちは今も誇りに思っています」

 

昭和41年5月5日、孫の初節句の後に根本中将は体調を崩して入院。同月21日に一度退院するも、24日に急死。享年74。

ラストサムライの死でした。

 

 

天皇彌榮(すめらぎいやさか)