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 電気シェーバーが定着したのはいつぐらいのことだろう。

 開発競争も進んできただろうし、そこには幾多もの変遷があったはずだ。

 つまり電気シェーバーの進化の歴史ということ。

 この広告はそうした当時の苛烈な開発競争を偲ばせるものがある。



 製品には工夫があり考え方が詰まっている。それが製品の訴求力だ。

 いいものが単純に売れた時代であり、今のような宣伝や巧妙な仕掛けが製品のよさを凌駕してしまう時代ではなかった。

 それを考えると羨ましくもある。中味のあった時代のように思えるからだ。




 髭剃りなんて床屋ではないがカミソリでやるのが相場と決まっていたものだ。

 男は歳をとってからこそ髭剃りのありがたみが分かる。

 若い自分はあまり感じないものだ。

 若いと「しつこいヒゲ」なんてことはあまり感じない。自分の男を感じてむしろ頼もしいぐらいだろう。


 ところが、歳をとって自分の人相というものが固まってゆき、人から自分がどう見られるかを分かってくる。

 男が自分の顔に責任を持つようになるのは歳をとってからのことだ。



 そうすると、ヒゲを当てるのはそれほど神経質にならなかった若い頃と違い、歳をとれば身だしなみどころか人格的なものまで問われてしまうと感じるようになる。

 無精ヒゲをメッセージに使ったり、キレイに剃り落としたヒゲをアピールにしたりもする。


 だからヒゲは歳をとればとるほど、その扱いが面倒で厄介なものになってゆくものだ。



 そういえば、最近、このところハリウッドの男優がやたらと無精ヒゲでいるのは、そうした男の「面倒くさい」という気持ちに共感してもらおうということなんだろうと思う。

 男としては多少の無精ヒゲを許してもらいたい、そんな共感に訴えているはずだ。


 しかし彼らはまだまだ若い。

 若いうちから無精ヒゲ、髭面ではしょうがないのだが、ハリウッドはそこまで考えて訴求しているようだ。


 実態としてはそんな無精ヒゲにままの若者なんてあまりいないし、それが認められるわけでもないが、ハリウッドの幻想はそんな無精ヒゲの男たちを量産している。


 そうして、「男ならもっと他のことに気を使おう」と、煽るわけだ。


 だがそれは大きな勘違い。

 スクリーンの男たちの無精ヒゲは伸び続けることは決してないからだ。





 もともと、電気シェーバーというのは、そんな「ヒゲ剃りは面倒だ」という根本的な議論を元にして発達した商品だったと言える。

 そこはなんと言っても電気なのだ。

 見た感じがこれまでのカミソリより格段に簡単に思える。


 しかし、実はそれはまやかしであり誤解かも知れない。

 実際にはカミソリの方が剃りあげの時間も切れ味もまるで違うことだろう。


 よく考えれば、簡単なのはむしろカミソリの方なのだが、電気は見た目が簡単に見える。

 軽く剃れるように思えるのだ。


 結局、電気シェーバーの普及というのは、そういうことを訴求していったというだけかも知れなかった。




 第一、電気シェーバーはメンテナンスも必要だ。

 ヒゲのカスなどすぐに溜まってしまう。


 掃除したりメッシュを交換したりと、意外と不便なのだが、こんな広告を見るとそんなことには気が回らない。

 つい買ってみたくなったのだろう。


 便利で、厄介な男のヒゲを一網打尽に処分できるのだ、と。


 かくも男のヒゲは難しい。




 この広告ではこの商品開発は「頭がいい」ということになっている。

 「頭の差だ」と。露骨で衒学的にさえ思える言い草だ(笑)。


 しかし、世の中、あまり頭がいいと損をするものだ。

 それはこんな時代には言われなかったのだろうか。


 頭のよさなど意味はない。人は思い込みによって動く。

 こだわりに縛られてしまう。

 頭がいい人間ほど辿り着いた結論は強固で、なかなか転換することが出来ない。


 考えてみれば、電気シェーバーというものもそんな固定観念を植えつけようとその隙を突いたものだったかも知れないが。