これまでの記事で『記紀』の成り立ちや、編纂された状況など、見てきましたが、問題は『記紀』の編纂を命じたのは天武天皇であるが、古事記が編纂され太安麻呂(おおのやすまろ)が元明天皇に献上したのが712年である。
天武天皇が死去されて以後のことで、さらに8年後の720年に日本書紀が元正天皇(げんしょうてんのう)(第44代)の時代に完成された。
つまり、天武天皇が意図した『記紀』と実際に完成した『記紀』は一致していたのだろうか?
『記紀』は誰に対して書かれた物かをここでもう一度明らかにしておこう。
それは、持統天皇を中心に、持統→元明(姉妹)と、元明→元正(母娘)の三人の最高権力者のために書かれたものでプロデュースしたのはのちに藤原王朝の基盤を作ったその人、藤原不比等である。
証拠をお見せしよう。
それは高天原から日本全国を統治するために派遣された『天孫降臨』の話である。
『古事記』のあらすじを振りかえってみよう。
大国主が中葦原中っ国を平定し、それを天界より観察していた天照大神は天っ神により治めることでさらなる発展するとし、大国主へ国譲りへの使者をたてます。
建御雷之男神(タケミカズチノオノカミ)が国譲りの交渉成立させ、天之忍穂耳命(アメノオシホノミコト)を降臨させようとしますが、天之忍穂耳命は、準備している間に子が生まれ、「新しい国を治めるなら若い神が良い」とし、降臨を息子の日子番熊邇邇芸命(ヒコホノ二ニギノミコト)へ譲ります。
それを天照大神は承諾し、三種の神器を授け日向の高千穂のクジフル峰へ降臨した。
簡略しましたが、大体のあらすじです。
もちろん誰でも統治者が天より舞い降りたなんて思わないでしょう。
謎は、天之忍穂耳命(アメノオシホノミコト)はなぜ子の邇邇芸命(二ニギノミコト)に譲ったのか?
そして、天照大神の意志は孫の邇邇芸命へ受け継がれたのかである。
ここが『天孫降臨』の重要なポイントなのである。
実はこの神話と同じ皇位継承が、『記紀』編纂中の持統天皇の御代に行われている。
持統は天武天皇の跡継ぎに最愛の息子草壁皇子を就かそうとした。
しかし、草壁皇子が早逝したため、やむなく自ら皇位に就いた。
そして、次の天皇には孫である軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲った。天武天皇の子が他にもいるにもかかわずである。これが我が国初の祖母から孫への皇位継承が行われたのである。
さらに藤原不比等の思惑か、文武天皇(軽皇子)が即位すると皇后に娘の宮子を嫁がせ、その間に首皇子(聖武天皇)が生まれた。
文武天皇が崩御すると、異例の皇位継承が行われ、文武の母である元明天皇を皇位つけた。子から母に皇位が継承されたのは、異例中の異例で、これが最初で最後である。
さらに不比等は、元明天皇も孫の首皇子に皇位継承をさせようと画策し、一旦娘の元正天皇を立て、そのあとに首皇子に皇位を譲るというおかしな経緯をしている。
持統天皇と藤原不比等は祖母から孫への皇位継承が、古来の日本の神代に前例を創り、是が非でも正当化したかったのである。
祖母天照大神から孫邇邇芸への皇位継承は、持統から文武、さらに元明から聖武への皇位継承を正当化するために創作された神話だったのである。
これが『天孫降臨』の真実なのである。
また、皇祖神である天照大神を最初に伊勢神宮に崇め祀ったのは、持統と不比等である。この時から天照が女神にすり替わったのであろう。この話は割愛するが持統と天照大神の関係は奥が深いように思われる。
話は元にもどすが、天孫降臨した邇邇芸が降り立った地はなぜか出雲ではなく日向の高千穂だ。ストーリーとしても支離滅裂であるように感じるのは私だけだろうか・・・・
とにかく『記紀』の神話は製作した側の都合よく書かれ、歴史を歪曲させられたかがわかると思う。
ではまた次回の記事でお会いしましょう。
サイナラ、サイナラ。
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