関羽 中国 三国志 蜀漢 歴史人物Tシャツ Historical Figures 106

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黒柄・半袖 – Black Design/Short ①

黒柄・半袖 – Black Design/Short ②

黒柄・長袖 – Black Design/Long ①

黒柄・長袖 – Black Design/Long ②

黒柄 – Black Design


中国後漢末期、蜀漢の創始者・劉備に仕え、その人並み外れた武勇と義侠心で奸雄・曹操ら多くの同時代人のみならず現代に至るまで愛され神格化され、信仰を集める名将で豪傑、”河東の大地より立ちのぼる義侠の積乱雲”こと関羽字雲長のTシャツです。


関羽はいつも格好良いですが、蒼天航路の関羽は、何度読んでものちに神格化さえされる清々しさが活写されていて素晴らしいと思います。
“河東の大地より立ち上る義侠の積乱雲”は蒼天航路の関羽が汜水関で呂布との一騎打ちに挑む際の名乗りでした。

身の丈九尺(後漢〜三国時代の尺度で約216cm)、二尺(同約48cm)もの長さの髭を胴まで下げ、熟した棗の実のような紅ら顔。
重さ八十二斤(後漢〜三国時代の尺度で約18kg)の青龍偃月刀を引っさげ、名馬・赤兎馬にうち跨る一騎当千の美髯公、桃園の義兄弟の次兄にして、蜀漢が誇る五虎大将軍の筆頭に挙げられる名将、関羽雲長。

正史に残るその生涯を改めて、なぞってみたいと思います。


劉備に仕える


関羽は、出身地である河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)から劉備のいた幽州涿郡に”逃れてきた”といいます。
“逃れてきた”というのは、地元・山西省の伝承によると、出身地が中国最大の塩湖である「解池」の近くであり、そのため塩の密売に関っていた、暴利をむさぼる塩商人を殺し、官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った、とされているんだとか。

ともあれ、逃亡先の幽州涿郡で、黄巾の乱が起き、関羽は義勇兵を挙げた劉備と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務めることになりました。
劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったといいます。

その後、成り行きで徐州の陶謙から当地を託された劉備は、ここで呂布、曹操、袁術らを巻き込んだ徐州争奪戦を繰り広げるが、最終的には曹操に敗れ、袁紹の元に逃げることになります。
そこで関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われることになりました。


曹操の配下時代


曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したといいます。
ちょうどその頃、曹操が袁紹と華北の覇権をかけて争う官渡の戦いが勃発。
関羽は呂布配下からの降将であった張遼と共に、白馬県を攻撃していた袁紹家中の二枚看板の内のひとり・顔良の攻撃を曹操に命じられます。
そこで関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃。顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰りました。
程無く文醜も討たれ、袁紹軍では立て続けに名だたる将軍を2人も失ってしまい、大戦自体も曹操の勝利で決着。
この功により、関羽は後漢の朝廷より漢寿亭侯に封じられます。

曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していました。
そして、張遼に依頼して関羽に質問させて、関羽は劉備を裏切ることはないことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであること聞き出し、関羽の義心にも感心したといいます。

実際に、関羽は与えられた重い恩賞に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せていた劉備の元へ去っていきます。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせたそうです。


運命の地・荊州


劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽ももちろんこれに同行します。
そして、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を訴えますが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものであると述べたというエピソードがあります。「水魚の交わり」の諺の語源ですね。

同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊を率います。
途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は抜け道を使って漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かいました(長坂の戦い)。
そして、赤壁の戦いにおいて孫権が劉備に援軍を出して曹操を防いだため、曹操は撤退を余儀なくされました。

その後も劉備は曹操と争い、関羽も曹仁、徐晃、満寵らと戦火を交えますが、ついに江南の諸郡を平定。
関羽のそれまでの功績が評価され、襄陽太守・盪寇将軍に任命されました。関羽は長江の北の守備を任されることになります。

劉備が益州(蜀)に入ると、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任されます。
後に劉備が益州攻撃を開始すると、諸葛亮も、張飛・趙雲らと益州入り。
荊州の留守は関羽が預かることとなります。
劉備が益州を平定すると、関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され、荊州の軍事総督に任命されます。(しかし、荊州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは不仲でした。)


荊州争奪戦


赤壁の勝利を自分たちの力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていました。
劉備の荊州統治を認めていたのは、飽くまで曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのです。
そのような中で荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権が、呂蒙らに命じて長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は3万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助勢に駆けつけ、一時は赤壁以来の劉・孫同盟が崩壊の危機に直面します。

しかし、関羽と通じた長沙の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙安成郡の中郎将の呉碭と中郎将の袁龍も、関羽と機略を通じて反乱を起こします。
さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃し、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方を手に入れることとなりました。
これらが劉・孫両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現。会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められたとされますが、結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となりました。

魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接しつつ、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていましたが、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができずにいました。


樊城の戦い


こうした情勢下、建安23年(218年)末に荊州南陽郡宛県である事件が起こります。
南陽郡は当時、曹操の支配領であしたが、ここの太守である東里袞が曹操に認められようとして領民に過酷な賦役を課していました。
それに不満を抱いた侯音らが関羽と通じて反乱を起こしたのでした。侯音は翌建安24年(219年)初に樊城を守る曹仁によって斬られてしまいますが、これによって南陽郡における曹操勢力に動揺が見られるようになります。

また、同建安24年(219年)、要地・漢中に攻め込んだ劉備軍は定軍山の戦いで初めて曹操軍に大勝、曹操家中の重鎮・夏侯淵を討ち取って漢中を奪い、前年より長安に滞在して諸軍を督戦していた魏王・曹操自身が指揮を執って漢中奪還のため大軍で攻めてきた際にも、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させることに成功。
漢中を手に入れた劉備は曹操が建安21年(216年)に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称します。前漢の高祖劉邦が漢王であった故事に倣ったものでした。また、献帝より大司馬にも任命されます。

これにより関羽も前将軍に任命され、荊州における軍権も改めて与えられます。

関羽は、こうした戦勝機運と曹操領の事件を見て、この年の7月に息子の関平や都督の趙累らと共に水陸から南陽郡に進軍を開始します。

当時、樊城は曹仁が、襄陽は呂常が守っていたが、曹操は関羽の進軍を知って于禁を大将にした七軍を援軍として派遣。
曹仁も龐徳を遊軍として城外に出して関羽と戦わせます。

しかし、折からの長雨で漢水が氾濫し、于禁の七軍は水没。于禁自身は高地に上ることで難を逃れますが、関羽が水軍を使って攻撃してきたために、3万の兵とともに降伏します。
龐徳は配下の董衝や董超らが降伏しようとするとこれらを斬り、あくまで抵抗を続けますが、配下の将が関羽に降伏して孤立無援になると、舟を使って曹仁の樊城に逃れようとしたところを、捕らえられて斬られました。
(後にこのことを聞いた曹操は、「30年以上も仕えてきた于禁が龐徳に及ばなかったとは思わなかった」と嘆き、龐徳の忠義に涙を流し、その2人の息子らを列侯に取り立てたのだそうです。)

温恢は「川の水が増えているのに、曹仁は敵中に孤立し、危険に備えていない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っていたのですが、この不安が的中したかたちとなりました。

この勝利に乗じて関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲。樊城は洪水により城壁の上部まで水没し、孤立無援の状態に陥っていました。

さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁、郟、陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動します。

この関羽の快進撃に、丞相掾の魏諷までもが反乱を起こすなどしたため、曹操は動揺。
遷都まで考えるようになりますが、参謀の司馬懿と蒋済がこれに反対。建安22年(217年)から曹操に形式上臣従していた孫権に関羽の背後を突くことを勧め、江南に孫権を封ずることで、樊城の包囲は解けると進言します。
曹操はこれに従い、孫権と密約を結ぶと、その一方で、趙儼・徐晃ら5万の軍勢を曹仁らの救援に派遣します。

これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになります。

関羽は、当初は孫権への備えをおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていましたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にすっかり油断してしまい、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったといわれます。

そして、捕虜とした于禁軍3万の兵糧に困った関羽軍が呉と蜀の国境に設けられた関所の食料を勝手に奪う事件が起きると、孫権はついに呂蒙を先陣として派遣。
呂蒙・陸遜らは秘密裏に進軍します。
関羽の本拠地の江陵・公安は上記の通り主力軍不在であり、さらに関羽に反感を抱いていた守将の糜芳と士仁らが寝返り、あっけなく陥落。短期間で荊州の関羽の支配地は孫権に征服されてしまったのでした。

一方、樊城では長雨のために城壁が水没し、関羽が水軍を使って兵糧攻めを行なっていたために食糧も尽きかけていました。ある者は曹仁に撤退を進言しましたが、満寵がこれに反対し、曹仁は満寵の判断を支持して何とか持ちこたえていました。

ここに趙儼・徐晃ら5万の援軍が到着、しかしその軍は新兵中心の編成のうえ寡兵であった為、趙儼の意見に基づき、独力での攻撃は行なわず更なる援軍を待ちつつ地下道などを用いて曹仁との連絡を取ります。
董昭の「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」との提案を採った曹操は徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がったといいます。

さらに、徐商・呂建らが更なる援軍として到着すると、徐晃は攻勢に移ります。
まず偃城の奪取を目論見、塹壕を掘って背後から攻めると見せかけました。偃城の守備隊はこれを恐れて屯営を焼き払い撤退したので徐晃は偃城を無血で確保。
その後も、曹操は徐晃に援軍5万の追加派遣を行ない、さらに合計12の屯営の兵が徐晃の指揮下に入ります。
(于禁が関羽に降伏した後、曹操の樊城・襄陽への援軍が小出しであったことは、定軍山の戦いの敗北、于禁ら七軍の全滅から魏軍が立ち直るのに時間がかかっていたという事情が伺われます。)

関羽は囲頭や四冢に屯営を置いていましたが、徐晃は四冢を次なる攻撃目標に選択します。徐晃は囲頭を攻撃すると情報を流した後に油断している四冢を攻撃。
関羽は四冢の屯営が攻撃を受けているのを見ると、自ら歩兵騎兵合わせて5000人の指揮を執り徐晃に野戦を挑みますが、敗北を喫し、退却。樊城から撤退せざるを得なくなりました。
そして、輜重を孫権に奪われたことを知ると、襄陽の包囲も解いて僅かな兵力をまとめて退却します。

関羽は使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしましたが、呂蒙はその度ごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせました。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失い、やがて関羽の軍は四散。大半の将兵が孫権軍に降伏してしまいます。

関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、それを恐れて西の麦城に拠りました。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走。
孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、臨沮において、関羽は関平らと共に退路を断たれ捕らえられ、斬首されてしまいました。
その首は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に彼の死体を葬ったといいます。一方、曹操も諸侯の礼をもって洛陽に彼の首を葬ったとのことです。


関帝信仰


乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物でした。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」としています。
その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わっています。
明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」と次々と追贈しています。
多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見えてきます。

特に清代に、県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟が建立され、信仰が奨励されたようです。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっています。

一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名。
『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子関鈴がそれぞれ登場してきます。
また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称されるそう。

なお、民間では関帝の聖誕日を5月13日 (旧暦)もしくは6月24日 (旧暦)としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われるそうです。

どうやら、なぜこのような関羽が神格となると財神、お金儲けがご利益になったのかは、どうもあまりよくわかっていないようです。

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