邦楽、琴・筝、春の海、宮城道雄、和楽器バンド、吉永真奈、Rin、八咫烏、ヤタガラス、吉備真備、琴弾岩、金刀比羅宮、神話、陰陽道、安倍晴明、熊野、中国、漢詩、岡山県倉敷市、和歌山県新宮市、香川県琴平町。
 
にほんブログ村 音楽ブログ 洋楽へ 

  

あの楽曲はどこ… 音楽家別索引

 

*今後の予定曲

 
 

歴路(1)

ヤタガラスからの伝言【前編】
「あの邦楽に(1)琴編」

 


◇あの邦楽の方角に

今回のコラムは、邦楽と神話のお話しです。
「邦楽(ほうがく)」とはいっても、日本の歌謡曲やJポップではありません。
日本古来の和楽器である、尺八、琵琶、琴、三味線、太鼓などを使った、古典をベースにした「邦楽」です。

NHKは、年間を通して、テレビやラジオで、それらの邦楽番組を放送していますが、民間テレビ放送では、お正月に少しだけBGM音楽として使用するくらいにしか見かけたことがありません。

とはいえ、古典の邦楽の世界にも、若い世代のミュージシャンがたくさんおり、彼らの挑戦は、その辺のロック・ミュージシャンよりも情熱を感じることがあります。
古典を大事にするだけでなく、新しい音楽世界にも挑戦するその姿勢には、頭が下がります。

大半の古典邦楽の音楽家たちには、世の中でヒット曲を一発狙うという感覚がほぼありませんので、音楽人生を、長く、地道に、深く続ける姿勢が、強く感じられます。
長い音楽の歴史の中で、芸術文化の伝承者という意識が強いのかもしれませんね。

日本の古くからの邦楽音楽は、古典演奏も素晴らしいですが、現代の邦楽演奏もとても素晴らしい!
邦楽は、日々、進化していると感じます。

今回の「前編」、次回以降の「中編」と「後編」では、日本古来の邦楽音楽の世界、特に、楽器の「琴(こと)」や「筝(そう)」の音楽について書きたいと思います。
楽器の技能習得は、感覚的な部分も多く、それだけに自由度も多い気がしますが、奥深さを侮れない、邦楽の和楽器の世界です。

和楽器や日本古来の音楽のお話しですので、日本の歴史や神話もまじえながら書いていきたいと思います。
なぜか、スポーツの「サッカー」のお話しも…。

今回のコラムは、楽器の「琴(こと)」や「筝(そう)」を中心とした音楽世界の内容で、新シリーズ「あの邦楽に」の「琴編」です。


◇春の海

さて、本コラムは、洋楽、ロック、ジャズ、クラシック音楽、歌謡曲などを好む方々に多く読んでいただいていますが、日本古来の「邦楽」に、どのようなイメージをお持ちでしょうか?

昭和生まれの世代の方々でしたら、昭和時代のお正月のテレビ番組で、下記の有名な邦楽曲を耳にすることが多かったと思います。
その楽曲のタイトルは「春の海」です。

楽器「筝(そう)」による音楽である、近代の日本の「筝曲(そうきょく)」を、今の芸術世界にまで引き上げた人物が、筝曲家の宮城道雄(みやぎ みちお:1894(明治27)~1956(昭和31))さんです。
十七弦琴や大胡弓の生みの親で、尺八も演奏しました。
さまざまな「筝」楽器の新開発だけでなく、作曲者としても優れた才能を持っており、まさに日本の音楽の歴史に刻まれた大音楽家といっていいと思います。

前回コラムで、米国のルイ・アームストロングの1930年代の楽曲「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」のことを書きましたが、同じ頃の1932年に、日本、米国、フランスで、この楽曲「春の海」がレコードで発表されました。

米国にトランペッター兼ボーカリストのルイ・アームストロングがいたのなら、日本には琴の宮城道雄さんがいたのです。

* * *

この楽曲「春の海」は、本来は、宮城さんの独壇場である琴と尺八で演奏される楽曲です。
宮城道雄さんは、古典邦楽だけでなく、西洋のクラシック音楽も学び、自身の作曲作品に活かしていきました。
宮城さんは、既存の世界を越えていこうとされた芸術家だったのかもしれません。

今現代も、視覚障碍者が、鉄道や駅で亡くなるケースもありますが、宮城さんの最期も不運としか言いようがありません。
1956年(昭和31)に、62歳で亡くなりました。

宮城さん本人の琴演奏と、吉田晴風さんの尺八(琴古流)。
昭和初期の録音です。
♪春の海

 

宮城さん本人の琴演奏と、外国人によるヴァイオリン演奏のコラボ(1932年・昭和7年)。
♪春の海

 

* * *

同曲を、現代の筝曲家で…。
筝演奏は LEO(今野玲央)さん、尺八演奏は黒田鈴尊(くろだ れいそん)さん。
♪春の海

 

* * *

この楽曲「春の海」は、さまざまな楽器の組み合わせで演奏されることも多く、どの組み合わせも素晴らしいですね。
ユーチューブから、少しだけ…。

トランペットとピアノ
♪春の海

 

フルートとピアノ
♪春の海

 

琴とオーケストラ
ニュージーランドの、どこかの会場のようですが、日本人としては、うれしい限り…。
♪春の海

 

* * *

この楽曲「春の海」の「海」とは、瀬戸内海のことだといわれています。
作者の宮城道雄さんは、神戸の出身。
「須磨琴」を生んだ神戸は琴の聖地、広島県の福山市も琴の大産地、瀬戸内海を挟んだ対岸には「琴平様(こんぴらさま)」、岡山には…、瀬戸内海はやっぱり「春の海」。

ここからは、歴史コラムでもある、本ブログ「歴音 fun」ですので、歴史と神話の世界にご案内します。


◇筝と琴

木材の「桐(きり)」でつくられる「琴」や「筝」という楽器ですが、古典邦楽にあまり興味のない方には知られていないことですが、「琴」に似た「筝(そう)」という楽器と、「琴」は、一見似ていますが、実は異なる構造の楽器です。
この二つの漢字は、両者とも、「こと」と読む場合がありますが、あくまで、「筝」という漢字の代用に「琴」を使っているだけです。

あくまで基本的な構造のお話しですが、「筝(そう・こと)」には「柱(じ)」と呼ばれる、弦(糸)の張り具合を調整する器具(ブリッジ)がついていて、それを手で調整し、音程や音色をコントロールします。
稚拙な表現で申し訳ありませんが、「柱(ジ)」は、見た目で「洗濯ばさみ」を立てたような形状の器具です。
こうしたブリッジ機能は、他の多くの弦楽器にも存在しますね。

「琴(こと)」には、あくまで基本的に、ブリッジの「柱(じ)」がなく、ギターのように、ブリッジのかわりに、もう片方の手で弦をおさえます。
人間の手が、ブリッジ機能を果たします。
両者の楽器とも、固定か手動かの、こうしたブリッジ機能によって、音程や音色が変わります。

つまり、ブリッジの使い方という意味では、極端に言うと、ピアノとギターくらい違うかもしれません。
ただ、「琴(こと)」の中にも、ブリッジを使用するものもあります。
あくまで、基本的な構造部だけのお話しですが、この説明で違っていましたら、どうぞご指摘くださいませ。

素人目には区別しにくいですが、そんな違いがあります。


◇日本古来の「和琴」と、中国伝来の「筝」

まずは、「筝(そう・こと)」と「琴(きん・こと)」の、それぞれの漢字の成り立ちと意味の違いです。

中国には三千年以上前から、古琴(こきん:中国語読みで、クーチィン)、瑟(しつ:中国語読みで、スゥァー)などの弦楽器が存在していたそうです。
漢字はもともと、その見た目の形や状況を元にした象形文字ですが、ある漢字の文字の頭に「王」の漢字が二つ並ぶ象形の場合は、弦楽器の「琴」を横から見た形だといわれています。
王が二つ並ぶ楽器の下に、どの象形が入るかで、漢字の意味が変わってきます。

* * *

「筝(そう:中国語読みで、ツォーン)」は、中国王朝の「秦(しん:紀元前905~紀元前206年)」の時代に、それまでの弦楽器の琴を改良し開発された弦楽器のようです。
中国では、前述の「古琴(こきん)」「瑟(しつ)」などの古式の「琴(きん)」の他、「筝(そう)」などの他の弦楽器が存在したということです。
ただ、この漢字「筝」は、王が二つではなく、竹冠となっていることを考えると、木材の材質に変化があったのかもしれませんね。

* * *

さて、少し話しを変えますが、日常の音を言葉で表現する「オノマトペ(音象徴語・擬音語)」についてです。

犬の鳴き声は、日本も中国も「ワンワン」。
猫の鳴き声は、日本は「ニャーニャー」、中国は「ミャオミャオ」。
ヤギの鳴き声は、日本では「メェメェ」、中国では「ミェミェ」。
カラスの鳴き声は、日本では「カー」、中国では「ヤー」。

日本では、笛は「ピーヒャラ」、太鼓は「トントン、ドンドン」、琵琶は「ベンベン」、三味線は三種類の音色を組み合わた「チントンシャン」ですね。
さて、琴の弦をはじく音は…?
日本人のあいだでも、人によって表現が異なるかもしれません。
ピン、ペン、チェン…、ひょっとしたら筝曲界には何か特定の表現があるのかもしれませんが、私は知りません。

中国の場合、弦楽器名を示す漢字の読みの元は、その楽器音からきています。
琴は「チィン」、筝は「ツォーン」です。
「筝筝」で「チャンツォーン」です。
たしかに、筝や琴の音に似ていますね。
「筝筝」は、日本読みでは「そうそう」ですが、もはや楽器の音ではありません。

* * *

さて、話しを戻します。

楽器の形や状況は漢字の形に…、その音は漢字の読みに…とあらわされた、中国の古楽器たちです。
前述のとおり、中国の「秦(しん)」王朝の時代に生まれた「筝(そう)」という楽器は、中国の王朝「唐(618~907)」から、日本に伝来したようです。
奈良時代の遣唐使たちによって、日本に、もたらされました。

* * *

実は、日本は日本で、神話の時代から、琴のような形状の弦楽器「和琴(わごん)」が存在していました。

神話の中では、洞窟にとじこもってしまった「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、洞窟から出てきてくれるようにと、「天の岩戸」の前で、八百万(やおよろず)の神様たちが歌い舞います。
その時に、「天沼琴(あめのぬごと)」という楽器が登場します。
おそらくは「和琴」だと思います。

奈良時代頃に中国から伝わった古式の「琴(きん)」や「筝(そう)」、それ以前からの日本古来の「和琴(わごん)」の三つが、日本の奈良時代から平安時代の、皇室や貴族、神社などで「雅楽(ががく)」用の楽器の一部として使用されました。

中国伝来の「筝(そう)」は相当に高級な楽器であったかもしれません。
日本各地に普及していたのは「和琴(わごん)」ではないかと想像します。


◇それは、楽器のこと

次は、「筝(そう)」や「琴(きん)」が、どうして「こと」と呼ばれるようになったかです。

少しややこしい話しですが、当時の日本の楽器名の呼び方は、今現代とは違うかたちでした。
筝という楽器を呼ぶ言い方は「筝(そう)のこと」、楽器の琵琶は「琵琶(びわ)のこと」、楽器の「和琴(わごん)」は「和琴のこと」と呼んでいたようです。
「○○のこと」がつく場合、それは楽器を意味していたようです。

「筝」と「琴」の楽器としての基本構造の違いについては前述しましたが、素人目には、一見、よく似た楽器です。
いつしか、雅楽における琴のような形状の弦楽器全般を「こと」とも呼ぶようになり、他の楽器の呼び名から「…のこと」が消えます。
「筝」も「琴」も区別なく、両者とも「こと」という日本読みが生まれたようです。
「お琴」という言い方が、一般的ですね。

「筝」は「そう」と「こと」の読み、「琴」は「きん」と「こと」の読み(和琴の場合は「ごん」)が残ることになりました。
大昔、日本人は、琴の弦をはじく音を「キン」と表現していたのでしょうか…。
中国語発音の「チィン」を「キン」と言いかえたのでしょうか…。

* * *

今現在も、「こと」、「そう」、「きん」の読みや漢字は、使い分けながら使用されており、その楽曲名や演奏家に、「筝曲(そうきょく)」「筝曲家(そうきょくか)」、「琴曲(きんきょく)」という名称がつくことがあります。
ただ、一般の方々は、「お琴(こと)」という言葉で、ほぼ全体を意味して使っていますね。

日本では、奈良時代頃の楽器全般のことを示す言い方「〇〇のこと」が、特定の分野の楽器「お琴(こと)」に変化したということです。
この変化も、日本人ならではの巧みな軌道修正ですね。

楽器名から「〇〇のこと」という言葉表現はなくなりましたが、楽器としての基本構造は「筝のこと」であり、それとは少し異なる「琴(こと)」です。
少し頭の中で、琴の弦がからまってきましたか…。


◇琴の聖地

日本には「琴平(こんぴら・ことひら)」という漢字名のついた場所や神社がいくつもありますね。
似た漢字では、金比羅、金毘羅、金刀比羅など、たくさんあります。

「こんぴら」とは、仏教の水の神様の「宮比羅(くびら)」のことで、薬師如来十二神将の筆頭です。
宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書きます。
詳細は割愛しますが、十二神将としては「宮比羅大将」ともいいます。
梵語では「クンビーラ」または「キンビーラ」と言い、意味は「何を恐れることがあろう」だそうです。
そうです…これが「こんぴら様」という神様です。

この偉い「こんぴら様」と、楽器の「琴(きん・こと)」の美しい音色の意味が組み合わさって、美しい音色が聴こえてきそうな神聖な風景の場所に「琴平」という漢字と音読みの、地名や神社名がつけられたようです。

「金刀比羅宮(こんぴらぐう:香川県琴平町)」のある「琴平山(ことひらやま)」、香川県には「津田の松原」に「琴林公園(きんりんこうえん)」もあり、松が植えられ始めたのは室町時代です。
香川県には、他にも、やはり琴の名手の伝説のある「琴弾八幡宮(ことひき はちまんぐう)」、「琴弾公園」もあります。

瀬戸内周辺には、歴史に名が残っていない琴の名演奏家がたくさんいたのかもしれませんね。


◇吉備真備のこと

先ほど、四国の香川県琴平町の琴平山の「金刀比羅宮」のことを書きましたが、四国から、瀬戸内海をはさんで本州側の岡山県倉敷市には、「琴弾岩(ことひきいわ)」という、巨大な岩の景勝地があります。
倉敷には、他にも「琴」の漢字が入った地名や神社名があります。

奈良時代のすぐれた政治家である「吉備真備(きびの まきび)」が中央政界を引退し、故郷の吉備国(岡山県)に戻り、この岩のところで、琴を演奏していたという伝説があります。
今も、彼を偲び、毎年一度、9月の中秋の名月の頃に、この岩のところで琴や尺八を演奏する「弾琴祭(だんきんさい)」が行なわれています。

倉敷の「弾琴祭」の模様

 

* * *

吉備真備は、天皇の子孫で、遣唐使として中国の唐に留学し、学問や芸術を身につけ、日本に戻り、奈良時代の大政治家となります。
遣唐使の中で、教養も実力も最大のライバルだったのが「阿部仲麻呂」でしたが、彼は日本には戻らず、中国で有名になります。
当時、中国には楊貴妃(ようきひ)がおり、三者の関係については、何かがありそうです。

日本に戻ってからの真備の最大のライバルが、政敵となる「藤原仲麻呂」。
この時代には、橘奈良麻呂、大伴古麻呂など、麻呂さんだらけ…、学校の歴史の試験では、格好の材料!
生徒たちは、もろくも麻呂たちの餌食に…。

実は、「麻呂」「麿」などの「まろ」は、今現代の「…さん」のようなもの。付けたり、付けなかったり。
受験生は「まろ」の先を覚えるべし!

さて、真備は、中国の唐で、音楽も相当に学んできます。
彼は、当然、前述の古代の「筝」を演奏できたはずです。
その当時、いったいどんな音色で、どんなことを語りながら、どんな曲を演奏したのか…、録音技術という存在がなかったことは、音楽ファンとして、返す返すも残念です。

いずれにしても、日本の音楽の歴史において、遣唐使の果たした役割は、あまりにも大きなものでしたね。


◇対琴待月

ここで、まさに「琴弾岩」の上で、月夜の晩に、琴を奏でているような光景の、中国の古い漢詩をひとつ…。
中国の唐時代の詩人である「白居易(はくきょい:別名・白楽天)」の漢詩です。
真備も、中国で彼に出逢っていたかもしれません。

漢詩「対琴待月(ことにたいして つきをまつ)」。

竹院新晴夜 松窓未臥時(ちくいん しんせいのよる、しょうそう いまだふせざるのとき)
共琴為老伴 与月有秋期(ことと ろうはんとなり、つきと しゅうきあり)
玉軫臨風久 金波出霧遅(ぎょくしん かぜにのぞんで ひさしく、きんぱ きりよりいづることおそし)
幽音待清景 唯是我心知(ゆういん せいけいをまつ、ただこれのみ わがこころをしる)

私があくまで個人的に、現代語風に意訳してみます。

雨上がりの静かで清々(すがすが)しい夜、竹林に囲まれた屋敷の窓からは、松が美しく見える。
まだ寝るには早い時間だ。
歳をとった女房のように愛おしい「琴」のやさしい音色を聴きながら、月が上がってくるのを待つとするか…。
琴の「玉軫」(琴の「柱(じ:前述の琴の器具のブリッジのこと)」)を、やわらかな風が、なでるように通り抜けていく…。
おお、やっと白い霧の中から、金波(月の光)が差し込んできた…。
琴の幽玄な調べには、清らかな月の光が、なんとも、ぴったりだ。
そうか、私の心の内は、月だけが知ってくれているのだな。

琴、月、竹、松、霧…、なんとも風情ある光景を想像させてくれますね。
琴の音は白居易の心の内…、霧の中の白居易に、月がやさしく光を照らしてくれます…。

吉備真備が、岡山の「琴弾岩」の上で、月夜の晩に琴を弾いたのなら、まさにこのような心境だったのかもしれませんね。


◇琴を弾く、琴を引く

一方、和歌山県の新宮市(しんぐうし)には、神倉神社(かみくらじんじゃ)に「ゴトビキ岩」という、やはり神聖な巨岩があります。
新宮市は、古代日本の時代から神聖な「熊野(くまの)」の地にあります。
そして、その巨岩の雰囲気は、岡山県の「琴弾岩」に、よく似ています。

「ゴトビキ」という言葉表現は、新宮の地域で、蛙の「ヒキガエル」のことを意味するそうです。
この巨岩の形が、見る方向によっては、まさに巨大なヒキガエルに似ているのです。
「ゴトビキ」という名称が「ヒキガエル」に由来しているとは思えません。おそらくは逆だと思います。
この「ゴトビキ」は漢字で「琴引き」だという説もあります。
この巨岩と神殿までの長い石段は、鎌倉幕府の源頼朝の寄進ともいわれています。

新宮市のゴトビキ岩

 


◇神話の中のヤタガラス

「陰陽道(おんみょうどう)」の使い手で知られる安倍晴明(あべのせいめい)の超霊力の起源は、吉備真備が中国から持ち帰ってきた書物「簠簋内伝金烏玉兎集(ほ きないでん きんうぎょくとしゅう)」だともいわれています。

晴明の死後にまとめられた陰陽道の極意書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の基礎は、真備が持ち帰ってきた、この書物のように私は感じます。

* * *

この両者の長い文献タイトルの中にある「金烏(きんう)」とは、「金色のカラス」のことで、和歌山の熊野、全国の熊野神社、現代の日本サッカー界の守り神である、あの三本足のカラス「八咫烏(ヤタガラス)」のことです。
「日本書紀」の中では、「金烏(きんう)」ではなく、「金鵄(きんし)」という黄金色に輝く鳶(とび)として、神武天皇を助けたと残されています。

「八咫烏(ヤタガラス)」の「八」の漢字の「8」という数字の数に意味はありません。
古代日本は「8」が最大数値で、物事が数えきれないほどの量とか、これ以上に高い存在が他にはない、最大で最高の存在やチカラを意味するときに、「八」を使っていました。「9」や「10」は後に生まれてきます。
「八幡様」、「八百屋」、「八百万(やおよろず)」、「ヤマタノオロチ」、「江戸八百八町」、「うそ八百」…みな、同様です。
「大八車(だいはちぐるま)」や「八頭身」の「八」は長さのことです。

* * *

「八咫烏(ヤタガラス)」の「八咫(やあた)」とは、人間のひろげた手のひらの親指と中指(人差し指説もあり)の間の長さの八倍(数値に意味はありません)もあるような長さという意味で、人間の手のひらの八倍くらいはあろうかという、大きなカラス(鳥)を意味しています。
「咫(あた)」とは、長さの尺度を示す用語です。
前述のとおり、数字や大きさにそれほど意味はありませんから、「八咫烏(ヤタガラス)」とは「最高位の偉大なカラス」となります。

三種の神器のひとつの「八咫鏡(やたのかがみ)」とは、女性天皇ともいわれる天照大神(あまてらすおおみかみ)が、乱暴者の弟のスサノオから逃れ、隠れた「天の岩戸」の暗い洞窟内に太陽光を照らすのに使われたという説があり、天皇を救出した「偉大な鏡」という意味かもしれません。

ともあれ、今現代も、日本人は何かと「八」が大好き!
どこかに「八咫琴(やたのこと)」も、あるのかも…!?


◇神話の中の先導者

熊野がある、関西の紀伊半島は、もともと太古の時代に、九州のような大火山地帯で、神話の中では、神様(天皇家の祖先)が生んだ土地ですね。
古代日本の世界観は三層構造(天上、地上、地下)で、三つの世界を行き来できるのは、一部の神様だけです。
火山の火口は、死者の住む地下の「黄泉(よみ)の国」への入口です。

神話の中では、「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼ばれる事柄がありましたが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の孫である神様「ニニギノミコ」が、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の命で、天上界から地上の人間世界に降りて来る際に、その道案内をしたのが「猿田毘古(さるたひこ)」という神様です。

* * *

八咫烏(ヤタガラス)もまた、「天孫(天照大神の孫のニニギノミコ)」の孫で、初代天皇(天皇名称として初めて即位・天照大神から七世代目・紀元前7~800年くらいか?)である神武天皇(じんむてんのう)を、今の奈良県の大和国にある橿原神宮(かしはらじんぐう)に道案内した存在だとされています。

両者とも、道案内というよりは、巨大中央集権国家をつくるために、天皇を守り、政治的にも、軍事的にも、先導したといえる存在かもしれません。
ちなみに、今の令和時代の天皇は、神武天皇から126代目です。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の父が「イザナギ」、母が「イザナミ」で、壮絶な夫婦ゲンカと、妻の大激怒の話しは割愛します。
この夫婦以前にも20世代以上にもおよぶ多くの神様(天皇家の祖先)がおられたと思いますから、紀元前1500年から2000年くらいまでは、さかのぼれるのかもしれません。

エジプト王朝でいいますと、紀元前2600年あたりがあの巨大ピラミッドのクフ王の頃で、ツタンカーメンが紀元前1300年あたり。
紀元前50年あたりがクレオパトラですから、ツタンカーメンとクレオパトラの時代の中間あたりが、神武天皇や「八咫烏(ヤタガラス)」の時代ということかもしれません。

* * *

歴史研究好きの歴史ファンは、神話は、表現を変えた史実に近い物語で、おそらくはモデルになった人物や史実があると考えたりしますね。
学術的な歴史の視点でとらえてみれば、古代の神話とは、天皇家(神様)の一族内抗争と、日本を政治的にも、軍事的にも、精神的にも、ひとつの国として、天皇のもとに統一していく過程を描いた神秘的な物語と考えられないこともないと、私は思っています。

熊野(和歌山)、大和(奈良)、伊勢(三重)のある関西地域は、もともと、「天孫降臨」で道案内役を果たした「猿田毘古」の一族の領地であり、三本足のカラスとは、軍事力を持った三つの大豪族や三人の人物を示すという説もあります。

ここからは、それとは別の「ヤタガラス説」を書きます。


◇満月だけが知っている

先ほど、「金烏(きんう:ヤタガラスのこと)」が、日本書紀では「金鵄(きんし:金色のとび)」だと書きましたが、この「金鵄(きんし)」とは、古事記では「少名毘古那神(すくなひこのかみ)、日本書紀では「少彦名命(すくなひこなのみこと)」と表現される「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」のことではなかろうかという説があります。

「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」とは、「天の岩戸」の前で八百万(やおよろず)の神様たちが歌い舞う中で、弦楽器(琴)を演奏する神様で、その琴の弦の先に、鳥の鷲(わし)が舞い降りました。
三重県の「尾鷲神社(おわせじんじゃ)」の歴史は、想像できないほどに古いようで、よくわかっていません。

* * *

「ヤタガラス」という存在は、天皇家勢力が日本を統一していく中で、天皇を助け、非常に重要な役割を果たした人物や、特定の一族を指すのではなかろうかと感じます。
そして、「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」が「ヤタガラス」であったとしたら、「天の岩戸」のお話しからも、琴と「ヤタガラス」が深いつながりを持っていると感じます。
ひょっとしたら、ヤタガラスの人物が、熊野の「ゴトビキ岩」の上で、琴を弾いた可能性も考えられますね。

* * *

奈良時代の吉備真備(きびの まきび)が、「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」のことや、「天の岩戸」の琴演奏を描いた神話のことを、知らないはずはありません。
真備が、故郷の岡山で、「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」と同じように、巨岩の上で琴を弾いたのかもしれません。

真備は、岡山の琴弾岩の上で、「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」のことを思い出していたのか、中国の「白居易」の漢詩を思い出していたのか、あるいは、楊貴妃、阿部仲麻呂、藤原仲麻呂を思い出していたのか…。

満月だけが知っている…。

* * *

「ヤタガラス」ゆかりの地である熊野にある「ゴトビキ岩」の上でも、岡山の「琴弾岩(ことひきいわ)」と同様に、楽器の「琴」による、神聖な音色の演奏が、かつて行なわれていたとしても不思議はない気がしますね。

「琴の浦」という地名や名所も、日本各地に残っています。
日本の歴史の中では、他にも日本各地に「琴弾岩」がたくさん存在しており、それが少しずつ消滅していったのかもしれませんね。


◇ヤタガラスがやって来る時

ちなみに、関東や東北には、「鷲神社(わしじんじゃ・おおとりじんじゃ)」が多数存在し、「鷲(わし)」の付いた地名が結構ありますね。
関東での祭りの名称「酉(とり)の市」を行なう神社です。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が、父の景行天皇(けいこうてんのう:400年頃?)の命で、東日本の討伐を行ないますが、日本武尊が戦勝祈願した日と、亡くなった日が、11月の「酉の日」で、熊手は軍人としての武器だといわれています。

「三種の神器」のひとつの「草なぎの剣」は、スサノオ(天照大神の弟)がヤマタノオロチ(出雲地方の強力な豪族たち?)を倒す際に使った強力な剣で、姉の天照大神への忠誠の誓いにも使われ、天皇家の宝として伊勢神宮に長く置かれていましたが、その剣が、東日本討伐に向かう「日本武尊」に、父の景行天皇から渡されます。
武尊は、討伐から帰還後、その神剣「草なぎの剣」を伊勢神宮には戻さず、尾張国(名古屋)にとどめおき、その場所が熱田神宮となり、神剣は御神体となります。
平家滅亡の際に、安徳天皇といっしょに海に沈んだのは「形代(かたしろ)」という神剣の代りの品とされてはいますが…?

* * *

前述の各地の「鷲神社」のほとんどが、「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」と「日本武尊(やまとたけるのみこと)」をお祀りし、武運、開運、商売繁盛を祈願する神社となっています。
この二人の神様が、歴史上、最強クラスの武人で、勝利を手にした成功者であったのは確かだろうとは思います。

「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」は、初代天皇の神武天皇から、四国の阿波(徳島県)や伊勢(三重県)の国を任されたともいわれています。
四国の紡績や紙業は、この神様から始まったともいわれ、皇室の「大嘗祭(だいじょうさい)」の重要な供物のひとつの麻織物は、今でも徳島の麻織物を使います。

「天日鷲命(あめのひわしのかみ)」の別名は「天加奈止美命(あめのかなとびのみこと)」で、その名の意味は、「天の金色の鳶(とび)」です。
つまり、「天日鷲命(あめのひわしのかみ)」こそが「ヤタガラス」のことではなかろうかという説があります。

* * *

前述の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の伝説の中には、東日本討伐の際に、今の長野県と群馬県の県境にある碓氷峠(うすいとうげ)で、武尊が「ヤタガラス」に導かれて峠の頂上に登ったという話しがあります。

日本武尊の別名の中には、「小碓尊(おうすのみこと)」があります。


そして、武尊のために、その身を捧げた妻のことを知り、嘆き悲しみます。
一応、妻は、海の大嵐を鎮めるために投身したともいわれていますが、敵に人質になるなどして、犠牲になった可能性も考えられます。
その時の「日本武尊」の言葉が、「あずまはや(吾妻はや)」といわれています。
つまり「ああ、我が妻よ」です。

 

この話しは「日本書紀」での記述で、「古事記」では静岡県と神奈川県の県境の足柄峠とされています。
 

日本各地の、吾嬬、吾妻、妻恋、武尊などの地名は、日本武尊のこの出来事に関連しているともいわれていますが、ひょっとしたら、その地名が残る多くの地域による中央政権に向けての何かの意思表示と考えられなくもありませんね。

あくまで、私の想像ですが、特に、関西のヤマト勢力とは異なる、今の埼玉県や群馬県を中心に関東にいた大豪族勢力は、ヤマトへの恭順の姿勢(哀悼の意思)を示さないと、大戦争に発展する可能性が高いとも感じます。

 

東北地方と北関東の境にある名山の「武尊山(ほたかやま)」の命名は江戸時代だとされていますが、個人的には、もっと古くから、それに近い何らかの名称があったのではとも感じています。

日本武尊の東日本討伐の進軍は、今の宮城県あたりまでで、その後に関西に戻ります。

 

* * *

 

いずれにしても、熊野でも、碓氷峠でも、相当に重要な瞬間にあらわれる「ヤタガラス」ですね。
ヤタガラスは、なぜ、「日本武尊」のもとに姿を現したのでしょう…。
この時のヤタガラスは、いったい誰…?
ヤタガラスは、武尊をどこに導いてくれたの…?

「ヤマト政権の建国」と「東日本の討伐」は、統一国家日本の誕生において、まさに最重要局面ではなかったかと思います。


◇神話の伝承

「ヤタガラス」の三本の足は、一般的に、「天」「地」「人」の意味あいをあらわすとされていますが、神話とは、こうした精神性のある神秘的な表現をして、誰が最高権力者になろうとも、歴史が残されるようにしたのだろうとも感じます。
今の日本人も、ストレートではない、こうした婉曲表現が好きですよね。

* * *

神話「因幡(いなば)の白うさぎ」も、和邇族(わにぞく:渡来海洋一族)と宇佐族(うさぞく:九州の陸上一族)の大戦争の歴史と、天皇家がそこにどのように関わったかを描いた物語で、日本人の思考や美徳の方向性をも決定づけるような意味あいも込めた、崇高な神話だと感じます。
やさしさと強さ、教養と努力、ひたむきさと我慢、深い愛情といつくしみ…「大国主(オオクニヌシ)」は日本人の理想の人物像?
神話をつくった古代の日本人の思考能力の高さには驚かされます。
おそらく当時の日本人の多くは、その内容が空想の絵空事(えそらごと)とは理解しなかっただろうとも感じます。

いずれにしても、神話の時代の日本には、九州、関西、そして真備(まきび)が生まれた瀬戸内の岡山のあたり、山陰の出雲などが、大繫栄地であったのは確かだと思います。後は、北関東と、東北に大勢力がいましたね。

後に大和(奈良)や河内(大阪)を中心に「ヤマト政権」が日本を統一することになりますが、この「ヤタガラス」の果たした役割は、相当に大きかったといえますね。

* * *

神話のごく一部を、かなりザックリと書きましたが、最近は「因幡(いなば)の白うさぎ」のお話しでさえ、聞いたことがないという小中学生が多くいます。
歴史ファンとしては、こうした神話や歴史を知ってほしいですね。

神話の時代から日本にあった「和琴(わごん)」や、中国の唐から伝わった「筝(そう)」も「琴(きん)」も、歴史の重要な一部である気がします。
昭和世代の大人たちは、歴史の中の過去の日本人のように、歴史も、音楽も、次世代に伝承していきたいものですね。


◇青い胸には、ヤタガラス

さて、「ヤタガラス」ですが、日本サッカー界のシンボルマークとなっていることは、皆様もご存じのことと思います。
このマークのデザインをしたのは、宇佐族の中心地(?)であった大分県の出身の「日名子 実三(ひなご じつぞう)」です。

明治時代に、日本にサッカーを寝付かせ、普及させ、このヤタガラスのマークを日本サッカー界のシンボルに決定した「中村 覚之助(明治11~明治39年)」は、熊野がある和歌山県那智町(現:那智勝浦町)の出身です。

神話の「ヤタガラス」の後ろには、トビ、ワシ、ウサギ、ワニ(サメ)、サルがいて、そして巨岩の上からの琴の音もありましたね。

子供たちに、「サッカー日本代表のユニフォームの胸にいる、あの三本足の黒いカラスは何?」と問われたら、どうぞ、いっぱい説明してあげてください。


◇触れているのは琴線 ~ ヤタガラスからの伝言

今現代でも「琴線に触れる」という言葉表現があります。
この言葉表現について、文化庁では「心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激して、感動や共鳴を与えること」と説明しています。
では、なぜそれが「琴」なのか…。
単に、古代から日本の弦楽器の代表だからというだけではない気がします。

私が個人的に思うのは、いにしえの多くの人たちが、満月の夜に、巨岩の上から聴こえてくる琴の響きを耳にし、多くのことを思ったからではなかろうかと思っています。

それは、岩に触れているのではなく、琴線に触れている…。
琴の音を聴いているのではなく、いにしえのヤタガラスからの伝言に耳を傾けている…。

「運命の赤い糸」…、それはひょっとして、日本では、絹糸でも縄でもなく、「運命の赤い琴糸(こといと)」なのかもしれません。
琴糸は、音を紡ぎ、愛をつなげます…。


◇琴の未来

最後に、琴という楽器の魅力を、もう一度…、琴の未来はこれからも安泰!

「桐」の大生産地の福島県出身の、生田流筝曲家の遠藤千晶(えんどう ちあき)さんの演奏を二曲…。
楽曲「楽」(作曲:沢井忠夫)より、「無窮動」と「輪舞」。
♪楽

 

原曲は、宮城道雄が59歳のときに作曲し、ロンドンで演奏。BBCが放送した楽曲です。
♪ロンドンの夜の雨

 

* * *

「鈴華ゆう子 with 和楽器バンド」の世界的な成功は、古来の和楽器が、今現代の若者たちをも魅了する楽器であることを、確実に証明していますね。
鈴華さんは、詩吟(しぎん)の師範。
演奏スタイルは時代とともに変わっていく…、でも、音楽や楽器の魅力は不滅!

♪琴のソロ演奏

 

♪なでしこ桜

 

♪六兆年と一夜物語

 

* * *

「琴線幻夜」での音楽ユニット

♪ジプシー・ガール

 

* * *

 

「R i n’」の演奏を四曲。

世界にファンがいる女性グループですね。

こうした音楽グループがいることは日本の誇り。

 

♪紫のゆかり、ふたたび

 

♪サクラ サクラ

 

♪幸魂(さきたま)

ちなみに、埼玉県の「さいたま」の大もとは「さきたま」。

さきたま古墳群もすごい! 石田三成の奴め、勝手に…!

 

♪歳々年々

 

* * *

 

生田流筝曲家の吉永真奈さんの演奏を二曲。

 

原曲はクラシック音楽で、パガニーニの楽曲「ラ・カンパネラ」。

♪ラ・カンパネラ

 

滝廉太郎 作曲の…

♪荒城の月

ちなみに、「荒城」がどの城かは定かではありません。

候補の城:岡城(大分県竹田市)、富山城(富山県富山市)、青葉城(宮城県仙台市)、九戸城(岩手県二戸市)など。

あなた自身がイメージする「いにしえの城」… それが、あなたの荒城ですね。

えッ!わが家…!

 

* * *

中国(?)の女性ミュージシャン二人が、4弦ギターのような「中阮(ちゅうげん)」と、「古筝」で演奏します。
原曲は、2014年のシーアの楽曲「シャンデリア」と、2013年のマイリー・サイラスの楽曲「レッキング・ボール」です。
楽器の「中阮(ちゅうげん)」や「月琴(げっきん)」のことは、「琵琶編」で書くつもりです。

♪シャンデリア / レッキング・ボール

 

* * *

中国(?)の女性ミュージシャンが、古筝で演奏します。
原曲は、2015年のウィズ・カリファの楽曲「シー・ユー・アゲイン」です。
それにしても、中国伝統楽器での演奏は、魅力的ですごい!
日本勢… 伝統楽器で遅れをとらないで!

♪シー・ユー・アゲイン

 

* * *

最後に、中国琵琶と琴のコラボ…。
音楽での国際交流は素晴らしいですね。
衣裳もいい!
東洋の楽器… 筝(そう)とうに、奥深い!

♪春の海

 

* * *

西洋楽器が日本に入ってくるまで、日本の「楽器のこと」の王様が「お琴」であり、神話の時代から続く神聖な音色と、中国渡来の香りのする…「お琴」という楽器ですね。
琴は、未来の人たちも魅了し続ける「こと」…でしょう!

今回は「前編」として、ここまでにします。
次回の「中編」は、紫式部と琴の関係、江戸時代の琴の音楽世界、琴によるヴィヴァルディのクラシック音楽、沖縄のこと、今回紹介しなかったスゴ腕の和楽器演奏家たちのお話しを書きたいと思います。

どうぞ、琴の音色を聴きながら、月(次回コラム)がのぼるのをお待ちください。
対琴待月( ことにたいして つきをまつ )。

* * *

コラム「歴路(2)ヤタガラスからの伝言【中編】」につづく


2022.1.22 天乃みそ汁
Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.
にほんブログ村 音楽ブログ 洋楽へ