ウクライナには行ったことがなく、頭に浮かぶのはチェルノブイリ、コザック・ダンスと歌、横綱大鵬の父はウクライナ人位しかない。
キエフだったかに大鵬の記念館と銅像があったはず、戦争で破壊されたのではと気になり調べたらハリコフだった。
大鵬の父マルキャン・ボリシコはコサック騎兵将校でロシア革命後、日本領の南樺太に亡命した。
写真は大鵬生誕の地、当時の敷香
1940年(昭和15年)大鵬は誕生、太平洋戦争末期ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。これが父を見た最後となった。
最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦L-12の魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた。
北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚相手の住吉姓に改姓し、職業が教師だったことから学校を毎年異動して北海道各地を転々としていた。再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚し納谷姓に戻った。
あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた。中学校卒業後は定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていた。
1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門の動機は巡業で振る舞われたちゃんこが美味しかったからと後年テレビで言っていた。
私の同郷の柏戸と共に、入門当初より横綱確実の大器と評されており、丁度この頃我が家にはテレビがあり、快進撃を記憶している。「柏鵬時代」、二人の対戦時間になるとテレビに集まり道を歩く人がいなくなるほどだった。
連勝記録45連勝を記録したが戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れた。ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。
しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。
樺太で別れた父の生涯が明らかになったのは2001年(平成13年)で、ウクライナのハリキフ(ロシア語ハリコフ)市に大鵬記念館が建設された。
2013年(平成25年)1月19日、心室頻拍のため死去72歳。出生名イヴァーン・ボリシコ、本名 納谷 幸喜、身長187cm、体重148kg
納谷は秋田出身母方の性だった。
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横綱大鵬の父親マルキャン(ウクライナ人)の生涯
父のマルキャンさんが外国人居留地に強制収用されて家族と引き離されたために生き別れとなり、その後の父マルキャンさんの消息は分からなくなっていました。ところが2001年にサハリンの日本研究家がサハリンの古文書を調べ、関係者の証言を集めてくれたおかげで、その生涯が明らかになりました。
マルキャン・ボリシコ(Маркіян Боришко, 1885/88年 - 1960年11月15日)は、帝政ロシア時代のウクライナ東部ハリコフ県出身でサハリン州(樺太)に在住したウクライナ系ロシア人である。
サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンさんは1885年か1888年ウクライナ東部のハリコフ州ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれ、ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた両親とともに樺太(サハリン)に入植しました。
1917年、ロシア革命が起こると、サハリンは複数の勢力が争い1925年北サハリンの社会主義化が進むと、革命政権を嫌って単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ亡命した。1928年、洋裁店勤務の納谷キヨさん(後志管内神恵内村出身)と結婚し、翌年から敷香で牧場を経営した。
マルキャンは多くの日本人・白系ロシア人を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士だった。
1940年5月、ふたりの間の末っ子として誕生したのが後の「横綱大鵬」幸喜さんでした。既に日中戦争は泥沼となり、アメリカとの戦争も間近でしたが、おそらくこの頃がマルキャンさんにとって最も幸せだったことでしょう。
南樺太にはロシア革命以来、白系とされたウクライナ系・ポーランド系の住民がソヴィエト政府による弾圧を逃れて居住していたが、1941年に太平洋戦争がはじまると、次第に日本は追い詰められ、1944年に戦況の悪化により樺太庁の指示でこれらの住民を美喜内村の外国人居留地に移送した。マルキャンも一人居留地に移され、1945年8月に船で北海道へ引き揚げた家族との連絡は絶たれた。
ソ連が南樺太を実効支配するようになってからは、外国とのつながりのあったマルキャンは大泊でソ連当局に逮捕され、1949年に反ソ宣伝を理由に自由剥奪10年の刑に処せられ強制収容された。1954年に恩赦を認められて出獄した。その後、サハリン州立博物館の守衛を務めたが、1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去した。息子大鵬が入幕6場所目、関脇の地位で、初優勝する昭和35年11月場所中のことだった。
樺太で別れ二度と会うことのなかった父の消息が解ったのは2001年、父親は1960年に亡くなっていたが、晩年の大鵬はウクライナの祖先に興味を持ち、2002年ウクライナを訪問した。
ハルキフ州の村で親の家を撮影し、祖先地の土も持って帰った。また、ハルキフ市で相撲の愛好家グループが開催した相撲大会を訪れた。その大会は大鵬幸喜の承諾を得て「大鵬幸喜大会」と名付けられた。大鵬幸喜大会はその後も毎年開催されている。2011年にウクライナのメリット勲章3位を受章した。当年オデサ市の中央で、このウクライナ系の有名横綱の銅像が除幕される。
2013年1月3日には、故郷の弟子屈町で暮らす実兄の幸治が急性心筋梗塞のため79歳で死去。わずか16日後の1月19日大鵬が死去72歳。