「老い」とは「順応力の低下」ではないかという話

 老いた両親に…

年末も迫ったことから、リビングの窓に掛かっているカーテンを外して洗ってみることにしました。

「リビング」といえば、テレビの前にいる父親ですが、膝が悪いこともあって掃除にも無関心です。

代わりに母親が参加してくれて、外したカーテンを洗濯機で洗うのを担当してくれました。

外したことで窓ガラスの汚れも拭き取ってしまおうと、それこそ一年ぶりの大掃除になりました。

窓ガラスの掃除は、濡れた雑巾と乾いたキレイな雑巾が必須です。

ガラスクリーナーなどを使ってしっかりと汚れを拭き取ったら、表面が乾く前に水分を拭き取るのがセオリーです。

この方法で、出窓部分の窓ガラスを含む計6枚のガラスをきれいにしました。

さてさて問題はここからです。

母親が洗濯機でカーテンを洗ってくれたのはよかったのですが、ちょうどカーテンの上部に付着した埃を前段階で取っていなかったみたいで、洗い終えたカーテンには見たこともないほどの黒い綿ぼこりが点在していました。

それが濡れてカーテンの表面に付着していて、カーテンをパタパタと叩いたくらいでは取れません。

それを一つずつ指で摘むのは骨が折れ、この際だからとレースのカーテンに関しては新しい物を購入することにしました。

厚手のカーテンに関しては、ガムテープの粘着力なども活かして、どうにか気になる埃だけは取り除くことができました。

しかし、よく見ると、洗濯機の中にも濡れた埃が張り付いていて、そのまま別の洗濯物を洗うことができません。

今後は洗濯機の中を掃除することになりました。

「汚れたまま洗濯機で洗ったの?」

そう母親に質問しました。

「汚れているから洗っただけ」

「違う違う。そのまま洗ったの?って聞いているの!」

「だから洗っただけだよ!」

もう分かると思いますが、ど天然なのか、それが生きる術なのかは分かりませんが、「そのまま洗った」という部分に一切対して答えてくれません。

一つには、そこに触れると母親自身が責められることを理解しているからです。

「もう分かったよ」

こみちがそう言うまで、母親はずっと「洗っただけ」を繰り返しました。

安かったカーテン

母親が渋る父親を説得し、窓のサイズを測っていました。

そのサイズに合わせて新しいレースのカーテンを母親が選んでくれたのです。

夕方になり、妻が帰宅すると「家の中が丸見えだよ!」と言います。

それまで何も気にしていなかったのですが、問題は新しく購入したレースのカーテンでした。

「UVカットするカーテンだよ!」

「UVは関係ありませんよ。遮光カーテンじゃないと…」

ここから父親はもちろんダンマリですが、母親も「UV」を繰り返します。

そして、「〇〇で安いのを選んだのに。丈が長いのしか売っていなかったから、まつり縫いしたのに…」と言います。

むしろ母親にすれば、遮光カーテンでなかったことを責められるとは考えていなくて、安く購入したことを誉めて欲しかったみたいでした。

数百円の価格差のために、サイズの違いカーテンを買ってしまう母親。

「安い」というワードを尊重するあまり、買い物でも賞味期限の残っていない商品やまだ家にある特売品を繰り返し買ってしまいます。

「早目にカーテンを閉めればいいよ」

結局はそれで落ち着いたのですが、確かにペラペラのレースのカーテンで、光を遮れるとは思えない物でした。

長く使うものや日常的に触れる物は、あまり価格を抑えすぎると、急に生活感が出てしまいます。

リビングの窓が、少し安っぽくなってしまったのも、カーテン選びのポイントがこみちと両親ではかなり違います。

何もしないとボケてしまう。

でもお願いすると、多くの場合に何らかのオチがつく。

両親と暮らすようになって、明らかにリビングがごちゃごちゃとしています。

本当は新しい電子レンジを買いたいのですが、キッチン周りに母親の私物が増えてしまい、それを片付けないことには気分的にもレンジを替えたくありません。

「片付けて!」

「すぐ使うから」

何かを頼むと、すぐに言い訳が返ってきて、それでも無理に強いると大体が変な結果になってしまう。

だから、もう好きにしてもらうことしかできなくなって、今はもうキッチン周りにこだわることも無くなってしまいました。

だから電子レンジはまだ使えるからと、購入には至っていません。

何か変化したいと思っても、老いた両親と一緒に暮らしていると、「現状維持」から抜け出せなくなっています。

その内、こみち自身も「面倒だなぁ」と諦めるクセがつき、妻から見るとこみちも両親と同じに見えるでしょう。