★歴史探検に行こう★ vol.19 川越(河越)のルーツを覗きに行こう 【平安・鎌倉時代 河越館跡】埼玉県川越市エリア【Report2】《そとあそびNO.182》
今回も『そとあそびの窓』を
覗いていただきありがとうございます
気軽にご覧になってください😊😊😊
▽ブログ自己紹介記事▽
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〜『そとあそび』の概念〜
何かを発見しに行こう
何かを探検しに行こう
目的を持ち『そとあそびの窓』を開け
1歩 そとに踏み出すのであれば
それは立派な『そとあそび』である
皆さんもご一緒に
そとあそびの窓を開け
非日常空間へ飛び出しましょう
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▽過去のそとあそび記録▽
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全国のキャンパーの皆さん
いつもお世話になっている読者の皆さん
如何お過ごしでしょうか
首都圏の1都3県の緊急事態宣言が
更に2週間延長された国内情勢ですが
ワクチンの全国民への接種までの期間
もうひと波起きうる可能性を視野に入れ
多くの方が引き続き世間体を気にしながら
既にコロナウイルス保持者なんだという考えで
他人に感染させてしまう要素がある行動を控え
感染リスクの低い選択肢を
慎重に選んでいかなければならない令和3年
筆者ファミリーも
念入りにリサーチを重ねながら
他人の迷惑にならないような
アウトドアライフを楽しもうと
慎重に模索している状態ですが
今回の『そとあそびの窓』は
【discover spotlight】
(地図を縮小・拡大してご覧ください)
前回に引き続き
『小江戸』『江戸の台所』と呼ばれ
城下町として発展していく
『川越(河越)』のご紹介です
さあ
どんどん行ってみましょ〜🤣🤣🤣
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【平安時代】
西暦794年頃(延暦13年)〜 西暦1192年頃(建久3年)
平安時代末期に
河越(河肥)と呼ばれる
稲作の発展した『上戸』という地が存在した
『上戸』という地名は
古くから続く『律令制』において
家の単位を『戸』として定め
集落の規模を表す基本単位として用いられた呼び方であり
現在における『戸籍』という概念に繋がるものであるが
『律令制』の中で『四等戸』という
『大戸 上戸 中戸 下戸』の順に集落の規模を区別し
その規模を単位化した呼び名とされている
河越の地に存在した『上戸』地域は
当時繁栄していた地であることを物語るものである
その地に目を付け
支配圏を広げてきたのが
『河越氏』という豪族であった
『河越氏』のルーツは
衰退によって実権が伴わなくなっていた当時
補佐する要職『武蔵国留守所惣検校職』という座に就き
武蔵国に派生した一族である
そんな『秩父氏』は地方の豪族と姻戚関係を結び
権力を拡大していく豪族の一面と
家系を遡っていくと
皇族の一面も持ち合わせた
由緒正しい家柄という背景を利用し
武蔵国一帯に支配圏を広げていくのだが
『河越氏』に至るまでの
『秩父氏』の血の繋がりを
時代毎に見てまいりましょう
時代を遡り
『日本神話』や『日本書紀』から紐解いていくと
【神話・縄文時代 紀元前4世紀以前】
※ 親→子で記載
天照大御神 → 天忍穗耳尊→ 瓊瓊杵尊→ 火折尊→ 鸕鶿草葺不合尊 →神武天皇(初代天皇)→ 綏靖天皇 → 安寧天皇 → 懿徳天皇 → 孝昭天皇→
【弥生時代 紀元前300年頃〜西暦250年頃】
→ 孝安天皇→ 孝霊天皇→ 孝元天皇→ 開化天皇→ 崇神天皇 → 垂仁天皇→ 景行天皇→ 日本武尊→ 仲哀天皇→
【古墳時代 西暦250年頃〜西暦538年頃】
→ 応神天皇 → 稚野毛二派皇子(仁徳天皇の弟)→ 意富富杼王(応神天皇の孫)→ 乎非王(応神天皇の曽孫)→ 彦主人王(応神天皇の玄孫)→ 継体天皇(現代天皇家の祖)→ 欽明天皇→ 敏達天皇 → 押坂彦人大兄皇子→
【飛鳥時代 西暦592年頃〜西暦710年頃】
→ 舒明天皇( 敏達天皇の孫)→ 天智天皇 → 志貴皇子 →
【奈良時代 西暦710年頃〜西暦794年頃】
【平安時代 西暦794年頃〜西暦1185年頃】
→ 桓武天皇 → 葛原親王→ 平 高望【高望王】( 桓武天皇の孫 桓武平氏の祖)→ 平 良将(平 高望【高望王】の三男)→ 平 将門(平 高望【高望王】の孫)→ 春姫【如春尼】→ 平 将恒(平 将門の孫 秩父氏の祖)→ 平 武基【秩父武基】(秩父氏当主)→ 平 武綱【秩父武綱】(平将門の玄孫)→ 秩父 重綱→ 秩父 重隆 → 葛貫 能隆【河越 能隆 】(河越氏の祖)→ 河越 重頼
系図を見ていただくとわかるが
古来から貴族の名門とされる『四大姓』
武蔵国に支配圏を拡大していったことも頷ける
力を持った一族であったと言えますね
『秩父氏』は代を重ねていき
『畠山氏』『河越氏』『高山氏』『江戸氏』『渋谷氏』『葛西氏』に血筋を分派させ
秩父の山間から江戸(日比谷入江)まで繋がる
主要な河川を軸として支配圏を広げていったとされています
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さあ皆さん
そんな川越(河越)エリアのルーツとなる
『河越氏』が居を構えた『上戸』の館址地を
筆者と共にそとあそびしてまいりましょう
いざ‼️
Let's go to
discover someting‼️‼️
河越館址を覗いてみよ〜‼️‼️🙌🙌🙌
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【discover spotlight】
(地図を縮小・拡大してご覧ください)
平安時代末期 西暦1160年(永暦元年)
『葛貫 能隆【河越 能隆 】』と『河越 重頼』 親子が
河越の『上戸』に『河越館』を構えた同年に
『源 頼朝』が伊豆に流罪となる出来事が起きている
平氏の流れを汲む『河越氏』が
源氏のサラブレッド『源 頼朝』に振り回され
人生を大きく狂わすことになるのだが
その逸話は後ほど・・・
ここで
『武蔵国』を描いた江戸時代以前の古地図で
それぞれの位置関係を見てみましょう
(地図を縮小・拡大してご覧ください)
黒い丸枠が『秩父氏』の活躍していたエリア
赤い丸枠が『川越(河越)』エリア
緑四角枠が『江戸氏』が統治した『江戸』エリア
青色四角枠が『河越館』が築かれた『上戸』エリア
地図を拡大するとわかりますが
主要な河川を軸に支配圏を広げていたことが
よくわかりますね
秩父から河越に勢力を伸ばそうと
勢いに乗っていた『河越氏』が
どのような居館をこの地に築いたのか
さあ皆さん
今回の『そとあそびの窓』の開けどころ
河越氏が築いた『河越館址』を
一緒に覗いてまいりましょう
現在 田畑が開拓され
住宅地が一気に増えつつある
現在の川越市の『上戸』地区を進んでいくと
いきなり現れる『河越館』の石碑
(画像を縮小・拡大してご覧ください)
近年の発掘調査から
『河越館』の全貌が推測され
広大な荘園が平安時代に形成されていたことがわかってきたようです
いやはや
とんでもない規模ですよね
どれだけの力を持っていたのかが
遺構を見るだけで伝わってきますね
館を守る堤跡がしっかりと残ってました
当時はこの堤の外は堀だったのかもしれません
外部からの敵の侵入を弾き返すための
堤が施されていたと考えられますね
広大な敷地の荘園址地に建てられた
『河越館』を紹介する看板
この地が歴史の表舞台に登場していたようです
過去の発掘調査から
荘園内に井戸が設けられていたことも判明
堀の址や霊廟の址などから
『河越氏』がこの荘園を根城にして
活躍していたことを思い起こさせてくれます
さあ皆さん
河越(河肥)の『上戸』を押さえ
『秩父氏』一族で掌握しようとしていた『河越氏』は
その後どのような歴史を歩んでいくことになるのでしょうか
更に歴史探検してまいりましょう
平安時代末期 西暦1180年(治承4年)
伊豆に流罪となっていた『源 頼朝』が
平家討伐のために挙兵した際
はじめ平家方に従っていた
桓武平氏の流れを汲む
『河越氏』の家督を継いだ『河越 重頼』は
清和源氏の流れを汲む『源 頼朝』の乳母として仕えており
伊豆に流罪になった『頼朝』に
仕送りを続け支えてきたなどの縁から
『頼朝』の傘下に入り御家人として重用されることになる
平安時代末期 西暦1182年(寿永元年)
『頼朝』に嫡男『頼家』が誕生すると
重用されていた『重頼』の正室(本妻)『河越尼』が
嫡男の乳母となる
平安時代末期 西暦1184年(寿永3年)
東国を征する将軍職『征東大将軍』に任命された『頼朝』は
平家討伐の源平合戦で勢力を拡大していく中
異母弟『源 義経』が頭角を表していくが
平氏や源氏を自分の利権維持に利用してきた
『頼朝』の許可なく恩賞を『義経』に与え
兄弟の関係に亀裂が入り始めることとなる
この年 『頼朝』は
信頼の厚かった『重頼』の娘『郷御前(京姫)』を
『頼朝』と『重頼』は姻戚関係に発展していくが
この婚姻は『義経の監視役』という目的だったとも言われているようです
平安時代末期 西暦1185年(元暦2年)
西国武士を率い平氏滅亡への多大な功績を挙げていく『義経』の活躍は
いつしか『頼朝』が率いていた
東国武士たちの恩賞の場を奪うものとして見られ
『頼朝』に従う御家人たちの不平不満を抑えられないものとなっていき
武家政権確立を目指す『頼朝』としても
『義経』の求心力の存在は驚異となりつつあったため
『義経討伐』へと舵が切られていく
この年 『河越氏』にとっても
思いもよらぬ出来事が訪れることになる
『義経討伐』の大きな波は
『義経』に加担した者を次々と発見し
殺害していく凄惨なものであったが
『重頼』もまた
『頼朝』の命で娘を『義経』の正室(本妻)として嫁がせていたが
『義経』の縁戚だという理由で領地を没収されたのち
息子『重房』娘『郷御前』と共に殺害されるという運命を辿ることになる
【鎌倉時代】
西暦1192年頃(建久3年)〜 西暦1333年頃(正慶2年/元弘3年)
鎌倉時代 西暦1192年(建久3年)
『源 頼朝』が征夷大将軍に任命され
鎌倉幕府が開かれる
『河越館(河越荘)』はその後
『頼朝』の乳母『比企尼』の次女で
『重頼』の正室(本妻)だった『河越尼』に安堵され
所領は守られていき
鎌倉時代 西暦1226年(嘉禄2年)
『重頼』の三男『河越 重員』の代で
栄華を誇ることになるのだが
鎌倉時代終焉と共に
『河越氏』は歴史の表舞台から記録と共に消えていくこととなるのです
さあ皆さん
平安・鎌倉時代の川越(河越)のルーツは如何でしたでしょうか
『河越 重頼』の目指した正義
『源 頼朝』の目指した正義
『源 義経』の目指した正義
古い体制から新しい政権へと移行していく中
『河越』という地も
激しく駆け抜けていった気がするのは筆者だけでしょうか
皆さんは どうお考えになるでしょうか
歴史とは人間のドラマである
どちらが正義 どちらが悪と
簡単に住み分けできない人間のドラマが隠されている
重要なのは いつの時代も
それぞれの当事者の立場に立ち
時代背景を考慮し
それぞれの生き方の評価をすることだと筆者は思う
通説で愚将のレッテルを貼られた武将ですらも
当事者の立場に立ち時代背景を見れば
守るべきものを貫いた正義であったのかもしれない
さあ皆さん
今回のそとあそびは如何でしたでしょうか?
今宵は
ここまでに致しとうございます🙇🏻♂️🙇🏻♂️🙇🏻♂️
ルーツを追い掛ける歴史探検
『河越氏』が礎を築いた地『川越』
【古墳時代】以前の川越(河越)エリアの探検は
次回【Report3】にて
乞うご期待🔜
皆さんも
新型コロナ対策 マナーとエチケットを遵守し
楽しいそとあそびをお過ごし下さい
そとあそびの窓を開け
非日常空間に飛び出したくなったら
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素敵なそとあそびに巡り合えるといいですね
それでは また🙌
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